第十六章
時を回った頃、洋輔はアパートに帰宅した。
松平の話を聞いてからすでに四時間以上経過しているが、まだ興奮冷めやらぬ状態だった。胸が、激しく高鳴っている。腕の震えが止まらない。決して寒いからではなかった。
午後の授業は、おかげで全く集中できず、生徒たちにとっても不満な内容になってしまっただろう。後ろで授業を見学していた山下は、あとで洋輔に説教をした。だから昼休み見直しておけばよかった、と。
そんな山下の説教も、洋輔の耳には当然入ってくることはなかった。説教されている時間でさえ、洋輔は松平から聞かされた話をベースにして、今回の事件の推理を頭の中で丁寧に組み立てていたのだ。
松平が話した推測は、この事件を解決する重要なポイントを含んでいた。聞かされなければ、おそらく真相に辿り着けることはなかっただろう。断言してもよい。
洋輔は一旦自分を落ち着かせて、ポケットにしまってある携帯を取り出し、電話帳を呼び出した。
これから洋輔は、宝徳学園の生徒三人の自宅に電話をかけ、うち二人を公園に呼び出すつもりだった。もう一人は、電話越しで話を聞くつもりだった。
まずは呼び出す生徒の自宅に電話をかける。
ワンコール後、声が聞こえた。高い声だった。電話越しでも伝わってくる落ち着いた口調から、母親であると推理した。
「夜分遅くにすみません。私、宝徳学園の教育実習生をしております瀬郷と申すのですが……」
相手が警戒していることは、空いた間でなんとなく察することが出来た。何故教育実習生が自宅に電話をかけてきたのか、相手はそう思っているだろう。
「大丈夫です。心配しないでください」
そう言われても、母親としては落ち着かない気分であることに違いなかった。それでも、洋輔は構わず続けた。
「宝徳学園に通う、あなたの優秀な息子さんに少しお話しするだけですから」
息子を誉めてくれたことが嬉しかったのか、母親は少し高いトーンの声で言った。
「すぐ代わりますね」
しばらくして、ため息が聞こえてくるとともに声がした。
「なんですか」
明らかに不機嫌だ。めげずに、洋輔は言った。
「ちょっと、今から会えないかな?」
それから数分説得した結果、何とか約束を取り付け、洋輔はほっと胸を撫で下ろしたが、あと二人の生徒に電話をかけなくてはいけないことを思い出し、再び憂鬱な気分に落ちた。
気持ちを切り替え、洋輔はその生徒の自宅の予め登録していた電話番号を呼び出し、かける。すぐに、その生徒らしき声が聞こえてきた。
「俺、宝徳学園の教育実習生の瀬郷だけどさ、覚えているかな? ちょっと君に確認したいことがあって。今この電話で、話してくれるかな? 事件のあの日何があったか」
三人目の生徒の自宅へ電話をかけた。今度も、本人が電話に出てくれた。手間が省けたと、洋輔は胸中でガッツポーズを決めた。
「あなたが、俺に用でもあるんですか?」
冷淡な口調で、生徒は言った。その態度は覚悟していたので、洋輔は、頭の中に描いたシナリオ通り対応することが出来た。
「ちょっとさ、話したいことがあるんだよね」
「俺は、ないっすよ」
今にも電話を切りそうな勢いがあったので、洋輔は慌てて付け加えた。
「安東さんも、来るからさ」
途端に、生徒の態度は急変した。
「本当かよ」
興奮している様子だ。やはりこいつは、単純だ。
「ああ。今から言う公園に、すぐ来てくれ。待っているからさ。安東さんも、君と仲直りしたがっている」
生徒は力強く返事をした後、乱暴に受話器を置いて通話を切った。
何とか無事計画の第一段階は終了した――洋輔は深呼吸をし、耳から携帯を離すと立ち上がった。
急いで準備に取り掛かった。洋輔よりも先に、二人が公園に着いて待っているという状況だけは、なんとしてでも避けたかった。逃げられる可能性があるからだ。
逃げられては困る。この計画を、必ず成功させなくてはいけない。
何よりも、佳代のために――。
コートを羽織、洋輔は薄汚れた皿が積まれている狭い台所の前に立って、目当てのものを探した。最近自炊していないから目的のものをどこに置いたのか記憶になくて、見つけ出すのに少々手間取ったが、それは積まれている皿の奥に眠っていた。
苦労して取り出し、それをコートの内ポケットに、慎重に入れた。
準備は整った。
洋輔はコートのジッパーを全開まで上げると、玄関で靴を履き、今年一番の冷え込みを見せる外へ勢いよく飛び出した。