第十五章
寝覚めの悪い朝だった。
額には冷や汗が流れ、パジャマも汗でぐっしょりだ。ベッドから降りたとき、かすかな重みを感じた。
「朝か……」
半分しか開かない瞼をこすりながら、洋輔は窓の外を見て呟いた。明るく、太陽の光が燦燦とアスファルトに降り注いでいる。
あの後、館林とは会話をせずに別れた。果たして、館林が辞表を提出したのかしていないのか、時間が経ってから提出をするつもりなのか、定かではなかったが、いつか提出するのであろうということは、あの様子を見ていれば分かりきっていることだった。
そのことで、洋輔は罪悪を感じていたのだ。すっきりしないまま眠りについて、案の定うなされてしまった。学校へ行くことが、憂鬱だった。
けど、約束した以上、事件を解決しなくてはならない。館林のためにも。そして、佳代のためにも……。
事件を解決しようと今まで以上に意気込む洋輔だが、立ちふさがっている謎があり思うように前へ進むことが出来ないでいた。
洋輔を悩ませている謎は、全部で四つ。一つは、姫島の死を未だ引きずっているように見える佳代のことだった。姫島と佳代の間には、何かがあるように思えてならないのだ。
二つ目は、松平のことであった。自分が倒れた原因を突き止めるべく保健室を訪れた際に、ゴミ箱に捨てられている衰弱したネズミと、引き出しの中から実験用と書かれた錠剤の入っているビンを発見した。おそらくこの薬を飲んだため気分が悪くなったのだろうと推測することもできるが、松平が動物実験の薬を洋輔に飲ませた理由が思いつかず、行き詰っていた。事件とは無関係のように思われるが、一応こちらも調べてみるつもりでいた。
三つ目は、松平が館林のことを少なからず知っていることについてだった。松平と館林に、何か接点があるのか。館林に問いただしてみようかとも考えたが、今はそっとしておくべきだと判断し、思い留まっていた。
そしてこの中でも特に難解な謎は、有里のことだった。有里は、館林の過去を何故だか知っていた。館林が姫島の死を必死で追っていたのは過去の償いのためだった、ということが昨日分かったが、それを館林の口から語らせたのは有里だった。どこでそのような情報を入手したのか、洋輔は解せなかった。
洋輔に残された時間――つまり教育実習期間は、二週間だった。それまでの間に、少なくとも事件と関係のある二つの謎を解明しなければならない。
四時間目は授業がないため、洋輔は職員室で考えを巡らせていた。他の職員たちは、片手に飲み物を持ち、キーボードを打っていたり、資料に目を通していたりと、仕事をしている。この時間を利用して勉強などをやることが洋輔の仕事であるはずなのに、天井を仰ぎ、椅子を回しながら何もせずに考え事をしている姿は、周りから顰蹙を買うことになった。
「瀬郷君、何かしたらどうかね?」
呆れ顔で言って近づいてきたのは、山下だった。洋輔の前まで来ると、腰に手を当て、ため息を漏らした。洋輔は回転するのを止め、姿勢を正し山下と向き合った。
「少しは、やる気のある態度を見せてくれてもいいんじゃないか?」
正論だということはもちろん承知しているが、他の事に手を付けられるほど洋輔は器用なタイプではなかった。一つのことを気にしだすと、後のことはどうしても頭に入ってこない。そのことで、小学生の頃教師に何回か注意されたことがあり、通知表にも書かれた覚えがある。それでも、洋輔はあまり気にしていなかった。
「まあ君も学生だからしょうがないとは思っているが、それでも授業計画を見直すとか、やることは色々とあると思うぞ」
嫌味を聞かされても、あまり内容が耳に入ってくることはなかった。嫌味を言われているのだなと、感覚はその程度だ。
山下は二分弱、嫌味をたらした後に自分のデスクに戻っていた。洋輔は反省した素振りを見せず、再び天井を仰ぎ見て思索にふけった。その態度に、山下はただ呆れるばかりだった。
「瀬郷君」
唐突に名前を呼ばれ振り返ってみると、真後ろに感情のない目を向けている松平が立っていた。思考に集中しすぎて、松平の存在に気づかなかった。
「松平先生」
先日のことがあり、少々松平に恐対し怖を抱いている洋輔は、平静を装うことができず、表情が強張ってしまった。
「ちょっといいかな」
高圧的な言い方で、駄目とは言わせないという迫力があった。正直なところ、松平についていくのは抵抗があった。もしかしたら松平は、洋輔に秘密がばれたことに気づき、自分のところへ来たのかもしれなという予感があったからだ。
そのように考えることが出来るから、素直に頷くことが出来ないでいた。
曖昧な顔をしていると、山下の声が飛んできた。
「別にいいんじゃないか。何もすることがなければ」
皮肉めいた口調に洋輔は顔をしかめ、それから松平を見上げ目を直視した。
松平の瞳は冷たく、初めて会った時に見せた人柄のよさそうな面影は残されていなかった。そのことにショックを受けながらも、洋輔は覚悟を決めおもむろに頷いてから立ち上がった。
「決まりだな」
何か危害を加えられるということはないだろうが、何らかの脅しはかけてくるだろう。宝徳学園の保健室で動物実験を行っていたという記事が流れれば、松平の身は一瞬にして滅ぼされる。宝徳学園だって、ただじゃすまない。洋輔がそのことをばらそうとすれば、校長も必死になって止めてくるのは容易に想像がつく。
「ごめんな、急に呼び出したりして」
廊下を歩きながら、松平はこちらに一切顔を向けず言った。それが洋輔の恐怖心を煽った。
「いえ、別に……」
憂鬱な気分で答えると、ようやく松平は洋輔のほうへ向いた。
「どうしたの? 何か怖がっているみたいだね」
表情は緩んでいたが、眼光は鋭かった。獣に睨まれているような感覚に陥り、途端に引き返したいという衝動に駆られた。
しかしもう遅い。いつの間にか、二人は第三校舎の保健室に辿り着いていた。
ここで待ち受ける一幕に、洋輔は恐れもあったが、若干の好奇心もあることは否めなかった。もしかしたら、洋輔を悩ましている謎の一つが解けるかもしれない。そうなれば、洋輔にとっても得であることは間違いなかった。
「じゃあ、入って」
ゆっくりと開き戸を右にスライドさせ、保健室へ入るよう促した。それに従い、洋輔は恐る恐る入った。
「僕に用事でもあるんですか?」
相手に不安を悟られないよう、なるべく普段どおりの声を出そうと努めたが、意識しすぎて逆に上ずってしまう結果となった。
「いやね、ちょっと君に話しておきたいことがあって」
声のトーンが低く、険しい目つきをしているのは、やはり洋輔が保健室を忍び込んだという事実に気づいたからなのか。
「今から私が話すことを、真剣に聞いてほしい」
念を押すように言い、松平は近くにある椅子を引き寄せて座った。洋輔も、松平の言葉に頷いてベッドに腰を落とす。
「どこから話そうかな……」
考える仕草を見せ、呟くのが聞こえた。洋輔は、松平の頭の中がまとまるまで辛抱強く待った。
やがて松平は、表情を綻ばせて言った。
「おそらく、これから話すことは君の期待に十分添えると思うよ」
と、前置きをしてから、
「けど、約束をしてくれるかな? 私がこれから話すことを、口外にはしない、って」
小指を立てて、松平は続けた。
「もし約束が出来ないのなら、私は話さない。約束できるかな?」
少々間を置いてから、洋輔も小指を立てた。この距離では、小指を絡ませることは不可能だが、しっかりとお互いの気持ちは通じていた。
「約束します。誰にも喋りません」
謎の答えを知りたい洋輔にとって願ってもない取引で、約束をしない理由などなかった。
「ところで、少し聞きたいのだが、君はどこまで知っている?」
「どこまでって……あなたが、保健室で動物実験をしていることとか」
「それだけかい?」
「まあ、はい」
他にも、松平は何か隠していることがあるのだろうか。
「君は、私が動物実験をしているという事実をどう捉えている?」
意外な質問で、答えがなかなか出てこなかった。
「正直に答えてくれ」
松平は、俯いて考えている洋輔を催促した。
「酷いなぁ……って」
ゴミ箱に捨てられている衰弱したネズミを脳裏に思い浮かばせながら、ギリギリ聞き取れるぐらいの小さな声で答えた。
「他には?」
洋輔の言葉に気分を害した様子もなく、松平は再び要求した。
「あと、俺もあの薬を飲まされたのかな、って」
そこが、一番重要なところであった。松平も神妙な面持ちで深々と頷き、言った。
「そのせいで、具合が悪くなり倒れたのか、君は知りたいわけだ」
「はい」
「それ以外に知りたいことは、ないのかな?」
その質問には、即答できた。
「そうですね。俺が知りたいのは、それだけです」
「それじゃあ君は、私がしている動物実験と姫島君の死は全くの無関係であると考えているのかい?」
松平が何を言っているのか、理解することができなかった。
「どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だよ?」
困惑し、一瞬周りが真っ白になった。松平の言う通りだと、今までの考えが覆されることになってしまう。
「関係あるんですか?」
恐る恐る聞くと、松平は頷いた。
「警察の鑑識が解剖した結果、姫島君の体内から微量の薬が発見されたということを、私は聞いているが」
その言葉で、洋輔はほぼ全てを理解した。
松平が言いたいことは、つまり――。
「飲ませたんですね」
怒りに言葉を震わせながら、洋輔は言った。洋輔は、理性を保つのに必死だった。
「あなたが、姫島君を殺した……」
今にも飛び掛ってしまいそうなほど、松平に対し憤りを覚えていた。
「あなたが、佳代を悲しませたんですね」
訝しげな瞳を松平は向けてきたが、それを無視して思いのたけをぶつけようとした。
「俺はあなたを許さない。佳代を悲しませたあなたを……」
洋輔の理性が外れかけたところで、松平は口を開いた。
「少々、誤解しているようだな。私は、姫島君に薬を飲ましていないし、殺してもいない」
「じゃあ、誰がやったんですか!」
洋輔の怒号が、保健室に鳴り響く。鼓膜を突き破りそうなほどの声だったが、松平は至って冷静だった。
「私が知っている限りのことを、今から話す」
言ってから、松平は窓の外へ視線を向けると、不意に悲しげな表情を浮かべて見せた。
「いいかい。あくまでも推測だということを、念頭に置いてくれ」
固唾を呑んで、洋輔は耳を傾ける。
数秒静寂が訪れたのは、松平が話すことに若干の躊躇いを見せたからだった。やがて覚悟を決めたのか、顔を洋輔のほうへ向けると、重々しく口を開いた。
「保健室から、私が開発した動物実験用の薬を盗んだのは、紛れもなく佳代ちゃんだ」
洋輔は絶句した。