あなたに家族まで潰された没落令嬢ですが。侍女として、あなたの屋敷を磨いています
数ある作品の中から開いていただきありがとうございます(^^♪
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
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第一章 侍女アリス、公爵家の廊下を磨く
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手が、止まった。
深夜の作業室。
蝋燭一本の灯りの下、私は招待状の封入作業をしていた。
差出人の名前を確認しながら封をする。
宛名を読み上げながら仕分ける。
単純な、繰り返しの仕事だ。
なのに。
「クロード・アシュフォード婚約発表パーティー」
束の中の一枚が、そう書いてあった。
読み間違いではない。
もう一度読んでも、同じ文字が並んでいる。
(笑えない)
私はアリシア・ベルモント。
一年前まで、伯爵令嬢だった。
父が横領犯として断罪され、家は一夜で消えた。
今は「アリス」という偽名で、この屋敷の侍女をしている。
この屋敷——アシュフォード公爵家で。
招待状を封筒に滑り込ませる。
指先が、かすかに震えていた。
怒りか。
それとも。
(いいえ。もう決めたでしょう)
作業を再開する。
一枚、また一枚。
この手で封をした招待状が、社交界中に届く。
クロードの晴れ舞台を、誰もが祝う日が来る。
——その同じ夜に、私はこの屋敷で証拠を揃え終えているつもりだった。
◆
「アリスちゃーん、終わった? 私もう眠くて死にそう」
扉が開いて、リリーが顔を出した。
この屋敷に私と同じ日に雇われた、同期の侍女だ。
くりくりとした栗色の瞳に、いつも少し乱れた金色の髪。
頬にそばかすがあって、愛嬌のある顔立ちをしている。
悪い子ではない。
ただ、考えていることが全部顔と口に出る。
「もう少しかかります」
「えっそうなの。招待状の封入って、数こなすだけじゃないの?」
「宛名と差出人が一致しているか確認するのも仕事ですから」
「……アリスちゃんってほんとに真面目だよね」
リリーが欠伸をしながら部屋に入ってきた。
作業机の端に腰かけて、招待状の束を覗き込む。
「へえ。これ全部アシュフォード家が出すの? すごい枚数。
あ、なんのパーティーか書いてある。『婚約発表』? クロード様の?
わあ、おめでとうって感じだね」
私は何も言わなかった。
リリーは無邪気に続けた。
「クロード様って次男様でしょ? 廊下ですれ違った時びっくりしたの。
こんなに綺麗なお顔の方が実在するんだって。アリスちゃんはどう思う?」
「……さあ、どうでしょう」
「興味ない感じ?」
「仕事中ですから」
リリーが小首を傾げた。
「そっかあ。まあ確かに。ねえ、終わったら一緒に戻ろうよ。暗いんだもん」
「分かりました」
リリーは満足そうに頷いて、また欠伸をした。
(気楽な子だ)
悪い意味ではない。
リリーには、悪意というものがない。
思ったことを全部口に出して、気づいたら次のことを考えている。
私とは、正反対に近い。
手元の招待状に視線を戻した。
(この人が幸せになるのか……)
(私の家族に、あんなことをしておいて)
胸の奥で、何かが燃えた。
熱くない炎だった。
冷たく、静かで、ずっと消えない火だった。
招待状を手に取る。
丁寧に折り目をつけて、封筒に入れる。
蝋で封をする。
笑顔で。
完璧な笑顔で。
(全部、覚えている)
◆
あれは一年と少し前、春の終わりのことだった。
クロード・アシュフォードから「話がある」と呼び出されたのは、
この屋敷の応接室だった。
彼は当時、アシュフォード公爵家の次男として、
社交界で高い評判を持つ貴公子だった。
二十四歳、長い金色の前髪、整った顔立ち。
「誠実で将来有望」という評価が、どこに行っても付いて回る男。
私はそれを信じていた。
二年間の婚約期間、私はできる限りのことをした。
語学の教師を雇い、礼法の書を読み込んだ。
財務の知識も独学で学んだ。
公爵家の嫁として恥をかかせたくないと、そう思っていたから。
今思えば、馬鹿みたいだ。
応接室に入ると、クロードは窓の外を向いていた。
「婚約を破棄する」
振り向きもせずに、言った。
「……理由をお聞きしてもよろしいですか」
「お前の父上が横領犯だからだ。ベルモント伯爵が国の税収から金を横領していた。証拠が出た」
膝が笑った。
それでも、立っていた。
「証拠とは、なんですか」
「帳簿の改ざん記録だ。お前の父上が作った、な」
「父はそのような——」
「調査は終わった」
遮られた。
クロードがようやく振り向いた。
笑っていた。
社交界で見せるのと、まったく同じ爽やかな笑顔で。
「アリシア。正直に言おう。俺は以前からお前のことが苦手だったんだ」
「……え」
「従順すぎる。言われたことを黙ってこなして、感情を見せない。
そういう女が、俺は気持ち悪かった」
笑顔のまま、彼は続けた。
「父上の件はちょうどいい理由になった。
新しい婚約者はもう決まっている。リーズ侯爵令嬢のエリナ嬢だ。
お前よりずっと家格も資産もある」
(笑顔を、崩さないで)
崩したら負けだと思った。
崩したら、泣いてしまうと思った。
私が二年間かけて磨いてきたものを、
彼は最初から、嘲笑っていたのだ。
「——承知いたしました」
深くお辞儀をして、部屋を出た。
廊下に出た瞬間、足が止まった。
怒りではなかった。
胸の中に固くて冷たいものが落ちてきて、ゆっくりと沈んだ。
(全部、覚えておこう)
今日のことを。
この廊下の温度を。
「ちょうどいい理由」という言葉を。
全部、覚えておこうと思った。
それから一週間後、父が王宮に召喚された。
横領疑惑は本物として処理された。
ベルモント伯爵家の爵位は剥奪。
屋敷は差し押さえ。財産は凍結。使用人は全員解雇。
父は無実を訴えた。
でも「証拠があるのだから仕方がない」と、
アシュフォード公爵レナードが言ったそうだ。
揉み消された。
後から分かったことがある。
証拠として提出された帳簿の数字は、私が作ったものだった。
私がクロードに「父にこんな提案をしてみたのですが」と、
嬉しそうに見せた財務改善案。
あの書類の数字を書き換え、日付を操作して、
横領の証拠に仕立て上げたのだ。
私が渡したものが。
私の手が作ったものが。
父を潰す凶器になった。
(私が)
(私のせいで)
その事実を知った時、三日間眠れなかった。
父は冤罪を信じてもらえなかった。
元々体が弱かった母は、ショックで床に就いた。
そして——
秋の終わりのことだった。
朝、目が覚めたら、父の部屋が静かだった。
妙な静けさだ、と思った。
扉を開けた。
机の上に、一枚の紙があった。
父の筆跡で、こう書いてあった。
「アリシア、お前だけが俺の誇りだった」
それだけだった。
遺体は、翌朝発見された。
私は泣かなかった。
泣くより先に、決意が来たのだ。
(必ず、終わらせる)
父を殺したのはクロードだ。
それを黙認したのは、アシュフォード公爵家という構造だ。
証拠を見つける。
全てを終わらせる。
母に笑顔を取り戻させるために。
父の名誉を取り戻すために。
「アリシア、お前だけが俺の誇りだった」という最後の言葉を、
ちゃんと受け取れる自分になるために。
侍女になる前に、準備をした。
令嬢時代の私を知る者が、すぐに気づかないように。
豊かな栗色の髪を、植物由来の染料で黒みがかった色に染めた。
いつも丁寧に結い上げていた髪を、質素なお団子にまとめる。
化粧は最低限。唇に紅を引かず、目元も素のまま。
鏡の中の自分を、しばらく見た。
「アリシア・ベルモント」はいない。
いるのは侍女の「アリス」だ。
(これでいい)
侍女になったのは、それだけのためだった。
◆
「アリスちゃん、顔怖いよ?」
リリーの声で、我に返った。
「……顔、怖いですか」
「なんかすごく遠い目してた。作業しながらどこかに行ってた感じ」
「考えごとをしていました。終わりましたよ、作業」
招待状の束を揃えて、机に置く。
全て、完璧に封がされている。
(必ず、ここで終わらせる)
笑顔を作った。
廊下に出た。
その夜、書庫の前を通った時、灯りがついていた。
「あ、長男様かな」
リリーが足を止めた。
「長男様?」
「ライル様。いつも夜遅くまで書庫にいるってエルザさんが言ってた」
「……そうですか」
「ねえねえ、知ってる? 先週私が廊下で転びそうになった時、さっと手を貸してくれて、お怪我はありませんかって確認してくれたんだよ。公爵家の方がそんなことしてくれるの、びっくりしちゃった」
私は何も言わなかった。
「なんか、ああいう方が跡継ぎになってくれたらいいのにって思うんだけどなあ。けど、クロード様の方が気に入られてるって話で。おかしいよね」
(結局は、アシュフォードの人間だ)
優しかろうと、気遣いがあろうと。
この屋敷の人間は。
信用しない。
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第二章 長男様の目
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アシュフォード公爵家に雇われて、半年が経った。
侍女頭のエルザは厳格な五十代の女性で、
不公平ではないが妥協も許さなかった。
仕事をきちんとこなせば認めてくれる。
問題は、他の侍女たちだった。
「アリスって真面目すぎない? 見てるとこっちまで疲れてくる」
聞こえていても、聞こえないふりをした。
(構わない)
私が丁寧に働くのは、信頼を得るためだ。
信頼がなければ、書類には近づけない。
書類に近づけなければ、証拠は見つけられない。
全ては、そのためだった。
◆
ある朝、日が昇る前に廊下の清掃をしていた時のことだった。
「おはよう、アリス」
足音もなく、声がした。
振り返ると、男が立っていた。
ライル・アシュフォード。
公爵家の長男。
暗褐色の髪に、落ち着いた灰色の目。
背が高く、体格はしっかりしているが、威圧感がない。
クロードとは、似ていない。
弟は華やかで社交界に映えるタイプだ。
兄は、それよりずっと静かな印象を持つ。
穏やかな顔立ちの中で、目だけが違った。
穏やかさの奥に、静かで鋭いものが宿っている。
「おはようございます、ライル様」
完璧な笑顔で返した。
「早いな。いつもこの時間に?」
「はい。朝の廊下の清掃は私が担当していますので」
「そうか」
ライル様は少し間を置いてから、言った。
「無理をしていそうに見える時がある」
(え?)
「……おそれながら、侍女の仕事とはそういうものかと」
「そうかもしれないな」
穏やかに言って——彼は頭を下げた。
「朝早くから働いてくれて、ありがとう」
(この人は、感謝ができる人間なのか)
公爵家の長男が。
侍女に向かって頭を下げた。
「お体に気をつけてください」
「……お気遣いいただきありがとうございます」
それだけ言って、ライル様は書庫の方へ歩いて行った。
その背中を見ながら、磨き布を動かした。
笑顔は崩さなかった。
でも心の中では、少し面食らっていた。
そしてもう一つ、気になることがあった。
ライル様の目は、私を見る時に少し止まる。
値踏みするような目ではない。
なにか確かめるような、探るような。
(気にしてはいけない)
優しくしてくる人間ほど、警戒が必要だ。
クロードも、最初は優しかった。
◆
「アリスちゃーん! 聞いて聞いて!」
昼休み、リリーが食堂に駆け込んできた。
頬を赤くして、目をきらきらさせている。
「さっきライル様にお会いしたんだけど、私の名前覚えてくれてた!
リリーさん、先日は大丈夫でしたかって! すごくない!?」
「それはよかったですね」
「ねえ、アリスちゃんは話したことある?」
「……少し」
「どうだった?」
「……普通の方でした」
「普通!? あんなに優しい方が普通なの!?」
リリーが目を丸くした。
「アリスちゃんって基準が高いんだね」
「そういうわけでは」
「でもさ」
リリーがパンをかじりながら、珍しく少し真剣な顔をした。
「ライル様って、後継者になれないって本当なの?
エルザさんから聞いたんだけど、公爵様がクロード様を後継者にしようとしてるって。
ライル様が融通が利かないとか、家の言うことを聞かないとかで疎まれてるって」
「……そうですか」
「真面目にしてたら怒られるなんて、おかしいよね」
リリーは特に深く考えた様子もなく、また欠伸をした。
私はスープに目を落としたまま、その話を頭の中で転がした。
(正しいことをしたから、追われる)
(それが、この家だ)
アシュフォード家は、根から腐っている。
いくら長男が真っ当でも。
この家の人間は。
信用しない。
◆
ある夜、廊下の先から声が聞こえた。
「ライル、お前はいつまでここに居座るつもりだ」
レナード公爵の声だった。
低く、冷たい。
「後継者はクロードに決めた。お前の居場所は、もうここにはない」
「……正式に決まったわけではないはずです」
ライル様の声は、乱れていなかった。
「お前に何ができる。融通が利かない、家の利益を考えない、道理だとか言ってばかりで。アシュフォードの当主に、そんな男は要らない」
足音が遠ざかった。
私は柱の陰で、息を潜めたまま動けなかった。
(正しいことをしたから、追われる)
理由は違う。
状況も違う。
でも。
正しいことをしたのに、家の中で居場所を失っているという事実は。
(私と、同じだ)
そう思ってしまうのが、悔しかった。
アシュフォードの人間に。
共鳴してしまうのが。
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第三章 本当の名前
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翌週の夜、廊下でライル様に呼び止められた。
「アリス、少し時間はあるか」
「はい」
「帳簿の照合を手伝ってもらえないか。
先日エルザから、計算が得意だと聞いた。
……もちろん、嫌なら断ってくれていい」
柔らかい頼み方だった。
命令ではなく、お願いする形で。
しかも「断っていい」とまで言った。
(断りたい)
アシュフォードの人間と、必要以上に関わりたくない。
でも、書庫への定期的なアクセスは魅力的だった。
「かしこまりました」
書庫に通されると、そこは書類の山だった。
天井まである棚が、ぎっしりと帳簿で埋まっている。
五年分、十年分と思しき記録が並んでいる。
「散らかっていてすまない」
「いいえ」
「座ってください。飲み物はここにある。自由に使ってください」
机の端に、ティーポットとカップが二組置かれていた。
(……二組)
私が来ることを、最初から想定していたのか。
「どの帳簿から始めましょうか」
「これを頼む。今月分の食材費の記録だ」
差し出された帳簿を受け取り、椅子に座った。
ライル様も向かいの席に戻り、自分の書類を広げた。
静かだった。
蝋燭の音と、書類をめくる音だけが、部屋に満ちた。
一時間ほど作業していた時のことだ。
私の目が、ある数字で止まった。
「……ライル様」
「どうしました」
「この取引記録ですが、計上日が不自然ではないでしょうか。
六件の取引が、全て三ヶ月後にまとめて処理されています」
ライル様が顔を上げた。
立ち上がって、私の横に来た。
示した箇所を、じっと見る。
「……気づきましたか」
「以前にも——」
そこで私は口をつぐんだ。
言いかけて、止まった。
(しまった)
「……以前の奉公先で、少し」
「そうか」
ライル様はしばらく、私の顔を見ていた。
何かを測るような、静かな目だった。
そして、一呼吸置いてから言った。
「……一つ、聞いていいですか」
「はい」
「私が間違っていたら、忘れてください」
ライル様が、静かに言った。
「あなたは——アリシア・ベルモントではないでしょうか?」
部屋が、止まった。
心臓が、一瞬だけ止まった。
「……な、にを」
「令嬢時代のあなたに、二度ほどお会いしたことがある。クロードの婚約者として、家の集まりに来ていた時のことです」
(会っていた)
(そうだ)
アシュフォード家の集まりに、私は何度か出席していた。
長男様と言葉を交わしたことはほとんどなかったが。
「髪の色が違う。化粧も違う。だが目の形と、物腰が、あの時と重なる」
ライル様の声は静かだった。
「侍女として雇われた初日から、もしかしてと思っていた。確証がなくて、ずっと様子を見ていました」
「……では、最初から」
「はい」
(最初から、分かっていた)
(なのに何も言わなかった)
「……なぜ、黙っていたのですか」
「あなたが話したくないなら、それでいいと思っていました」
穏やかに、言った。
「それに——自分でここに来た理由が、ただの逃げではないことも、なんとなく分かっていた。笑顔の下に、怒りの火がある。最初から」
「……」
「正直に話してくれなくていい。ただ——」
ライル様は書類の棚に歩いて行き、一冊の古い帳簿を取り出した。
私の前に、そっと置いた。
「これを、見てもらえますか」
開いてみて、息が止まった。
見覚えのある数字が、そこに並んでいた。
これは——
私が父に手渡した財務改善案の数字だった。
日付が、書き換えられている。
金額が、少しずつ変えられている。
「これは、ベルモント伯爵への横領証拠として提出された帳簿の写しです」
ライル様の声は、静かだった。
「私には、これが横領の証拠には見えない。
誰かが真剣に作った財務の提案書が、数字を書き換えられて別のものになったように見える」
部屋が歪んだような気がした。
「……なぜ、そんなものを」
「五年前から、この家の不審な記録を集めている」
「なぜ、そこまで」
「弟がしてきたことが、正しいと思ったことが一度もない」
静かな声だった。
「父も同じだ。この家は力のある者が弱い者を踏み台にすることを当然だと思っている。私にはそれができなかった。ただ、それだけです」
(この人は……)
信じていいのか。
信じたい気持ちが、胸の奥に確かにあった。
でも、怖かった。
「——信用できません」
声に出した。
「アシュフォードの名を持つ方には」
ライル様は、怒らなかった。
責めなかった。
ただ、静かに頷いた。
「そうだな」
「……怒らないのですか、侍女がこんなことを」
「当然だと思う。この家がしてきたことを考えれば」
(怒らない……認めるのか)
「急かすつもりはない。信じるかどうかは、アリシアが決めることだ」
ライル様が私の名前を呼んだ。
「アリス」ではなく。
「アリシア」と。
ティーポットに手を伸ばして、私のカップにお茶を注いだ。
何気ない、自然な動作で。
「冷めないうちに」
私はそのカップを、しばらく見ていた。
最初から、二組のカップが用意されていた。
断られるかもしれないのに。
「……ありがとうございます」
それだけを言って、カップを手に取った。
答えは、まだ出せなかった。
◆
それから一週間、私はライル様を避けた。
書庫の前を通っても、足を止めなかった。
「アリスちゃん、なんか元気ない?」
リリーが心配そうに覗き込んできた。
「元気ですよ」
「嘘だ。目が暗い」
「誰にも何も言われていません」
「じゃあ悩みごと?」
「……たいしたことではありません」
リリーはしばらく私を見てから、少し真剣な顔で言った。
「アリスちゃんてさ、いつも何でも一人で抱えてそうだよね。
私なんかじゃ力になれないかもしれないけど、話したくなったらいつでもいいからね」
(この子は)
本当に、悪意というものがない。
「ありがとう」
初めて、仕事以外で礼を言った気がした。
リリーがぱっと笑った。
「やった、アリスちゃんから『ありがとう』もらえた!
なんか、いつも笑顔なのに壁がある感じがしてたから。ちょっと嬉しい」
(壁……そうか)
笑顔でいれば誰も踏み込んでこないと思っていた。
それが、壁に見えていたのか。
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第四章 書庫の同盟、そして
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一週間後の朝、私は書庫の扉を叩いた。
「……一緒に、やらせてください」
ライル様が振り向いた。
驚いた顔をしたのは、一瞬だけだった。
「……理由を聞いても?」
「一人では限界があるのでしょう。私にも、あなたの持っていない情報があります」
「力を貸してくれるということですか」
「同盟です。信頼ではありません。まだ」
(なんで最後の一言を言ってしまったのだろう)
ライル様は静かに微笑んだ。
「分かった。全部見せましょう」
「……ありがとうございます」
「いや。こちらこそ、ありがとう」
礼を言われるとは思わなかった。
私は前を向いて、書庫の椅子に座った。
胸の奥にある小さな何かを、見ないふりをしながら。
◆
作業は、毎晩深夜まで続いた。
ライル様が五年かけて集めた記録は膨大だった。
取引の改ざん。
証人への口止め料。
クロードが複数の有力家から不当に引き出した利益。
私は、記憶の中の数字を一つひとつ照合した。
「この日付は、元の書類では七月三日のはずです」
「確かか」
「父が私に提案内容を説明したのが七月一日でした。翌々日に清書して手渡しています。この書類が七月十日付けになっているのは、後から書き換えた証拠です」
ライル様が書き留める。
「正確な記憶だな」
「覚えようと決めていましたので」
「なぜ」
「……いつか、使える日が来ると思って」
ライル様がペンを止めた。
「辛かっただろう」
(また)
(そういうことを言う)
「……侍女の仕事ですから」
「そういうことを聞いたんじゃない」
声が、少し低くなった。
「覚えていようとし続けることが。辛くなかったかと聞いた」
返事ができなかった。
お茶を一口飲んで、書類に目を戻した。
視界が、少しだけ滲んだ。
(こういうことを言わないでください)
(崩れてしまいそうになる)
「次の書類を見ましょう」
声は平静だった。
笑顔も、崩れなかった。
でも。
(この人は、どうしてそういうことを言うのだろう)
◆
深夜の書庫で、二人並んで書類を見ていたある夜のことだった。
「……一つ、聞いていいですか」
「なんでも」
「婚約時代のこと、覚えていますか。クロードの隣にいた私のことを」
少しの間があった。
「覚えています」
「……どう、見えていましたか」
ライル様はペンを置いた。
「いつも笑顔だった。礼儀正しくて、聡明で、弟の横に立っても見劣りしなかった。むしろ——」
言いかけて、止まった。
「むしろ?」
「……弟には、もったいない相手だと思っていた」
胸の奥で、何かが動いた。
「俺はあの頃から、お前の目が気になっていた。笑顔が完璧なのに、目だけが笑っていなかった。それが、ずっと引っかかっていた」
(目が、笑っていなかった)
令嬢時代から、もう笑顔は仮面だったのだと思う。
「侍女として現れた時、真っ先に目を見た。あの頃と同じ目だった。変装していても、その目だけは隠せていなかった」
「……だから、気づいたのですか」
「気づいたというより——放っておけなかった。正直に言うと、そっちの方が近い」
私は返事ができなかった。
婚約時代から、見ていた。
弟の陰から、ずっと。
「……変なことを言っていたら、すまない」
ライル様が少し視線を落とした。
初めて見る、照れたような表情だった。
(この人は)
(いつも、こういうことを言う)
「……いいえ」
私は書類に目を戻した。
「変では、ありません」
声が少し震えたが、ライル様は何も言わなかった。
ただ、また静かにペンを取った。
その横顔を、少しだけ見てしまった。
(見ないふりをしていた何かが)
(少しずつ、輪郭を持ち始めていた)
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第五章 クロード、崩れる
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俺の人生は、常に順調だった。
容姿は恵まれた。
社交術は磨いた。
父の期待に応え続けることで、地位を固めてきた。
兄のライルは、いつも俺の邪魔をした。
「それは間違っている」
「やり方が正しくない」
「道義に反する」
道義。笑わせる。
俺はただ、勝ち続ければいい。
アリシアとの婚約は、最初から使い捨ての予定だった。
ベルモント家の財務基盤が欲しかった。
用が済んだら、もっと格上の家に乗り換える。
乗り換え先はリーズ侯爵令嬢のエリナ。
家格も資産も申し分ない。
問題は、アリシアとの婚約を体裁よく解消する方法だった。
そこに転がり込んできたのが、彼女が俺に見せた書類だった。
「父にこういう提案をしてみたのですが、どう思いますか」
嬉しそうに見せてきた財務改善案。
馬鹿だと思った。
でも同時に、使えると思った。
数字を書き換えて、日付を操作した。
あとは父に処理してもらった。
たったそれだけのことだった。
アリシアの父は冤罪を叫んだが、証拠があれば覆らない。
その後どうなったかは、知らなかった。
知ろうとしなかった。
全て、思い通りに進んだ。
そのはずだった。
◆
王宮の大広間に、貴族が集まっていた。
俺の婚約発表パーティーの当日だった。
招待状は百三十通。
王族も来賓に名を連ねている。
俺は上機嫌だった。
「クロード・アシュフォード殿」
声が、した。
王家の紋章を持つ審問官が、扉のそばに立っていた。
「本日は、婚約発表の前に確認させていただきたい件がございます」
胃が、冷えた。
「……なんでしょうか」
「ベルモント伯爵家への横領疑惑に関する、再審査の件です」
「再審査? あれは既に決着が——」
「新たな証拠が提出されました」
審問官の横に、人が立った。
侍女の制服——だが、この日だけは違った。
艶やかな栗色の髪が、丁寧に結い上げられていた。
令嬢時代と同じ豊かな色だった。
薄く紅を引いた唇。
整えられた眉。
侍女服のまま、でも、全てが元の彼女だった。
顔を上げた瞬間。
思考が、完全に止まった。
「……アリシア?」
「ご無沙汰しております、クロード様」
笑っていた。
あの完璧な笑顔で。
「こちらが証拠書類です」
書類が、審問官の手に渡った。
「ベルモント伯爵への横領証拠として提出された帳簿の原本と、改ざん後の照合結果です。日付の操作が六箇所、金額の書き換えが十一箇所確認されています」
「でたらめだ。そんな書類——」
「さらに」
アリシアは続けた。
「この改ざんに使用された用紙と、アシュフォード公爵家書庫の書類の用紙が同一素材であることが確認されています。鑑定結果はこちらです」
頭の中で、何かが繋がった。
(書庫の書類が)
(なぜ)
「……兄上か」
「ライル・アシュフォード様は、五年前からこの家の不正の記録を収集されていました。そして私は、父が残した全ての記録を持って審問官のもとへ参りました。一年前、父が無実を訴えた時に唯一話を聞いてくださった方です」
大広間が、ざわめいた。
「お父様は、冤罪を信じてもらえませんでした」
アリシアの声が、初めてわずかに揺れた。
でも倒れなかった。
「信じてもらえないまま、去年の秋に亡くなりました」
大広間が、静まり返った。
「『アリシア、お前だけが俺の誇りだった』。それだけが、書き置きに残っていました」
俺は何も言えなかった。
(それが)
(あいつの父親の……)
(俺が、追い詰めたのか)
「クロード・アシュフォード殿、並びにレナード・アシュフォード公爵殿」
審問官が、一歩踏み出した。
「本日をもって、ベルモント伯爵への横領疑惑の証拠は偽造と認定されます」
書類を、広げた。
「クロード・アシュフォード殿には、令息の地位剥奪、全財産の没収、並びに重労働を伴う十五年の禁固刑を申し付けます」
十五年。
「レナード・アシュフォード公爵殿には、公爵位の完全剥奪および平民への降格、全領地の王家への返還、共犯として七年の禁固刑、並びに刑期終了後の国外追放を申し付けます」
父が、その場で崩れ落ちた。
周囲がざわめく。
エリナが俺を見る目が、もう変わっていた。
失うものを、頭の中で数えた。
エリナとの婚約——この瞬間に終わる。
令息の地位。
全財産。
十五年の自由。
社交界での全ての繋がり。
積み上げてきた全てが。
この一瞬に。
崩れた。
「アリシア」
声が出た。
「俺は……お前に、謝らなければ——」
アリシアが振り向いた。
でも俺を見なかった。
視線が俺の横を通り過ぎて、どこか遠くに向いた。
まるで俺が、透明であるかのように。
「アリシア、頼む——」
「クロード様」
ようやく、目が合った。
「私が二年間かけて磨いてきたものを、気持ち悪いとおっしゃいましたね」
(ああ)
(言った)
「感情がない人形だとも、おっしゃいました」
「そんなつもりでは——」
「感情がなかったのではありません」
アリシアが、初めて笑顔を消した。
「あなたに見せる価値がなかっただけです」
それだけを言って、彼女は背を向けた。
大広間に残された俺は。
もう何も、言えなかった。
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第六章 磨いた廊下を、今度は自分の足で
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大広間を出ると、足が震えた。
緊張が抜けたのだと思う。
廊下に出て、壁に手をついた。
「終わったな」
ライル様の声がした。
廊下の端に、彼が立っていた。
大広間には入っていなかったのか。
「……なぜ、外に」
「あれはアリシアの場だ。自分でやり切るべきことだった」
「……ありがとうございました。書庫の書類が、最後のピースになりました」
「いや。私こそ礼を言う。アリシアの記憶がなければ、証拠を完成させられなかった」
しばらく、沈黙が流れた。
「……アシュフォード家は、これからどうなりますか」
「私が継ぐ」
迷いのない声だった。
「……え」
「捨てるつもりだった。この名前も、この家も。父と弟がやってきたことを、誇りに思えない」
「では、なぜ」
ライル様が、窓の外に目を向けた。
「この屋敷で長年仕えてくれた使用人がいる。領地で暮らす民がいる。父と弟のやり方を、黙って支え続けてくれた人間たちが大勢いる」
静かな声だった。
「アシュフォードという名前を守りたいわけじゃない。名前などどうでもいい。ただ——この家を盾にして傷ついてきた人間を、今度はこの家で守りたい。そのために、継ぐ」
(この人は)
父と弟に踏み台にされながら。
家を憎むのではなく。
その家で守れる人間のために、残ると言う。
「……辛くないですか」
「辛いとは思わない」
ライル様が私を見た。
「あなたと一緒に終わらせた。だから、次に進める」
胸の奥で何かが動いた。
「アリシア」
ライル様が、一歩近づいた。
「ずっと笑顔で働いていたな。この約一年間」
「……はい」
「辛くなかったか」
(また)
(そういうことを言う)
「侍女の仕事ですから」
「そういうことを聞いたんじゃない」
声が、少し低くなった。
「この屋敷で笑顔を作り続けることが。辛くなかったかと聞いた」
返事ができなかった。
笑顔を崩せなかった。
一年間作り続けて、今更崩し方が分からなかった。
「……たいしたことでは」
「アリシア」
「……っ」
「泣いていい」
(泣いていい?)
そんなことを。
言ってくれる人が、一人もいなかった。
父の書き置きを読んだあの朝も。
証拠が偽造だと知ったあの夜も。
泣く前に決意が来て、泣く間もなく前に進んで。
笑顔でいなければと思い続けた一年間。
「……泣きません」
でも声が震えた。
「泣きません。私には、まだやることがあります」
「そうだな」
ライル様は静かに、私の隣に立った。
しばらく、何も言わなかった。
ただ、隣にいた。
それだけで、なぜか。
少しだけ、楽になった。
「……アリシア、あなたのことが、好きだ」
静かな声だった。
「婚約時代から、気になっていた。弟の隣で笑っていたあなたを見て、こんな人間がなぜあいつの婚約者なのかと、ずっと思っていた」
「……それは」
「自分でも分かっている。弟の婚約者に向ける感情じゃない。だから、ずっと黙っていた」
(この人は)
(いつも、正直だ)
「信用できません」と言った時も、怒らなかった。
「当然だ」と言って、急かさなかった。
一度も、嘘をつかなかった。
「答えは急がない。待っている」
「……考えさせてください」
「ああ」
「クロードは、いつも急かしました」
「そんなことをしない」
(分かっている)
(この人がそんなことをしないことは)
この一年間で、分かっていた。
「……いつか、答えを出せる日が来たら」
「ああ」
「聞いてもらえますか」
しばらく、沈黙があった。
ライル様が、静かに微笑んだ。
柔らかい、穏やかな笑顔だった。
「待っている」
それだけを言った。
◆
それから二ヶ月後。
父の名誉回復が、正式に王家によって認められた。
ベルモント伯爵位は、私が受け継ぐ形で再興された。
母は泣いた。
「お父様に、聞かせてあげたかったわね」
「……うん」
窓の外に、秋の空が広がっていた。
「お父様の無実、証明できたよ……」
(見ていてくれたかな? お父様)
◆
公爵家の廊下を、今日で最後に歩く。
侍女の制服を脱ぐ日だ。
「アリスちゃ——」
リリーの声が、途中で変わった。
「あ、え、あの……」
振り返ると、リリーが廊下に立っていた。
泣きそうな顔をして、でも何か別の表情も混じっていた。
「ア……アリシア様……?」
「リリー」
「え、あの……え?」
リリーが、口を開けたり閉じたりした。
「アリスちゃんって……伯爵家のアリシア・ベルモット様!?」
「そうですよ」
「え!? え!? 私ずっと一緒に仕事してたのに!?」
「変装していましたから」
「え!!! あの髪の色とか、もしかして染めてたの!?」
「ええ」
「じゃあ、あの、私ずっと……アリスちゃんって呼んでたし、ため口でいっぱい話しかけてたし……」
リリーが顔を赤くした。
「私、アリシア様に対して失礼なことたくさんしてましたよ!!」
「たいしたことはしていませんよ」
「え、でも!!」
「リリー」
「は、はい!!」
「今まで通り、アリスちゃんでいいですよ」
リリーが固まった。
「……えっ」
「リリーが普通に話しかけてくれることが、この一年間でいちばん救われたことの一つです」
リリーの目が、ぶわっと潤んだ。
「……アリスちゃん」
「はい」
「それ……今日初めてそういうこと言ってくれたよね」
「……そうですね」
「やっぱりずっと壁あったじゃん!!」
「ありました」
「でも言ってくれてありがとう……うれしい……」
リリーが、わっと泣いた。
「やばい泣くつもりなかったのに!! アリスちゃんが正直に言ってくれるから!!」
「ごめんなさい」
「謝らないで!! 嬉しくて泣いてるの!!」
(この子は)
本当に、悪意というものがない。
「元気でいてください」
「うん! あと、ライル様によろしくね。廊下でアリスちゃんとすれ違う時だけ、歩く速度が緩くなってたから。ずっと気になってたんだと思う」
「……そんなことに気づいていたんですか」
「分かるよ! かっこいいなーって思って見てたもん!」
(この子は)
天然なのか、鋭いのか。
「では、また」
「うん! また、アリスちゃん!」
リリーに手を振って、屋敷の外に出た。
門の前に、馬車が一台止まっていた。
御者台から降りてきた男を見て、私は足を止めた。
「……来てくださったのですか」
「来ると言いましたよ」
ライル様が、穏やかに笑った。
「答えはどうですか」
磨き上げた廊下を、振り返った。
一年間、毎朝この床を磨いた。
膝をついて、丁寧に、一枚ずつ。
必ず終わらせると思いながら。
終わった。
「はい」
振り返って、彼の顔を見た。
令嬢時代に仕込んだ完璧な笑顔ではなく。
侍女として作り続けた仮面の笑顔でもなく。
もっと不格好な、私自身の顔で。
「一緒に、いてください」
声が震えた。
でも、倒れなかった。
ライル様は何も言わなかった。
ただ、手を差し出した。
私はその手を、取った。
(お父様、終わりましたよ)
(あなたの誇りだった私は、今日から、自分の誇りを生きます)
磨き続けた廊下を、私はもう振り返らなかった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「あなたに家族まで潰された没落令嬢ですが。侍女として、あなたの屋敷を磨いています」、いかがでしたか?
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また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)




