ロンドン到着
「おっとっと」
ぼくはよろけながら地面に足をついた。どうやら無事に着いたようだ。ぼくは内心にんまりしたけれど、顔はすましていた。頭にはハンチング、背中にはリュック、そしてしっかりと胸に抱えたヴィム。ぼくは周りを見渡した。実際には見たこともない街並み。ひどく霧が出ているけど、どこか懐かしい。やったぞ、間違いない。
「どうやらロンドンのようですね、時代は⋯ビクトリア朝といったところでしょうか」
ぼくはびっくりしてヴィムを見た。
「分かるの?」
「街並みや人々の服装、それに馬車などで大抵のことはね」
ぼくは内心ドキリとしたが、エヘヘと笑ってごまかした。
それからぼくたちは、街を眺めながら歩いた。ぼくは、本で見た通りの街に、うれしくなって、すこしスキップしていたかもしれない。
そのとき、急に後ろから強い力でドンとぶつかられた。ぼくは吹っ飛ばされ、転んでひざを強く打った。隣を歩いていたヴィムが、さっとぼくに駆け寄った。ぼくは、転げ落ちたハンチングを拾おうと手を伸ばした。ぶつかってきたそのひとは、ぼくの背中からリュックを引き剥がそうとした。しかしチェストストラップでしっかり固定されたそれは、ぼくの背中にしっかりとくっついていてくれた。それでハンチングをさっと拾って走り去った。あっという間もなかった。濃霧のせいで、姿もよく分からなかった。ぼくは、唖然としながらも、すぐに立ち上がって追いかけようとした。
「ま、待ってください」
というヴィムの言葉に、ぼくは立ち止った。ヴィムは鼻先で右のほうを指して言った。
「いったんあちらの建物の陰へ行きましょう」
ぼくは痛むひざ小僧をこらえて、赤褐色のレンガの建物と建物の暗い隙間へと入った。ヴィムは心配そうに言った。
「ひざは痛みますか?」
ぼくは首を横に振った。
ヴィムはうなずいて、
「後できちんと手当てしましょう。ハンチングを盗られたのは痛いところですが、今は仕方ありません。あのまま追いかけても、取り返すのは恐らく無理でしょう。反対に痛めつけられては、困ります」
悔しいけれど、ヴィムの言うことはもっともだと、ぼくはうなずいた。ヴィムは続けた。
「使いながら説明しようと思って、省いていたのですが、あのハンチングのことです。あれは色々な機能を持つのです。
まずはご存じの通り、時間と空間の移動。しかし、考えてみてください。その時代や場所にそぐわないものがいきなり現れたら、混乱を招きます。ここでも同じことです。わたしたちのようなものがいきなり現れたら、目立って仕方ない。
だから、二つ目の機能はハンチングをかぶっているものは、周りの眼にはなじんだ姿に見える、ということです。つまり、君はこの時代の、この場所にふつうにいる少年に周りからは見えるのです。
それから三つめは自動通訳機能。意思の疎通をはかるために、現地の会話を理解でき、また、君のしゃべる言葉は現地の言葉として周囲に伝わる。ええ、必要不可欠な機能ばかりなのですよ。
さて、今の君はそのハンチングをかぶっていない。ということはつまり、異様な風体の、言葉も通じない少年、ということになりましょう」
ヴィムはここで言葉を切り、少しため息をついた。
「お分かりですか」
「うん」
ぼくはうなずいた。つまりは、絶体絶命ってことだ。どうしよう、とぼくがおろおろし始めると、ヴィムは落ち着き払って言った。
「こうなってみると、ちょうど都合がいいかもしれませんね。まずは君が会いに来た人物を訪ねてみることにしましょう」
ぼくは申し訳なく思って言った。
「ごめんなさい。ぼくが思い浮かべたひとは、ここには居ないと思う」
ヴィムは少し首をかしげて考えてから言った。
「それでは、とりあえず、その住所を訪ねてみることにしましょう。しかし、その前に少し作戦会議をしておきましょう」
「作戦会議?」
「まず、こちらの言語は英語ですが、現代英語とは少し違った、当時の英国英語です。それはいいですね」
ぼくはうなずいた。
「君の代わりに、わたしが話すとしましょう。しかし、犬がしゃべるというのも変なものです。だから、君がしゃべっている風を装い、わたしがしゃべるのです」
ぼくはうんうんとうなずいた。
「ちょっと、そのリュックからタオルを取り出してください。はい、それです。それでくるりと首の周りを巻いて、口元が隠れるように。ああ、それで結構」
ぼくは紺と白のボーダーの厚手のタオルで顔の下半分が隠れるようにした。
「ではわたしを抱き上げてみてください。そう、わたしは顔を常に君のほうに向けています」
そうしてぼくたちはあの場所を訪ねることにした。




