ヴィム登場
全体的に書き直しました。以前読んでくださった方、申し訳ありません。
「あーやれやれ」
目の前にぱっと姿を現した子犬のヴィムはそう言った。おじいちゃんの灰色の古いハンチングに乗り物よろしくすっぽり収まっている。
「ど、どうだった?」
ぼくは急いで聞いた。
「いやあ、どうもよろしくないですね」
ヴィムは、鼻の穴を大きく広げ、少しふんぞり返って言った。
「まずはわたしのこの姿。だれもが愛さずにいられないこのかわいらしさが邪魔なのです」
「う、うん」
ぼくはややあきれながら、ぎこちなくうなずいた。
「あちらについた途端、偶然居合わせた若いご令嬢がこうなのです。『まあ、なんて愛らしい子犬でしょう』そして、わたしを抱き上げようと、目の前までグーッと手を突き出してきたのです」
ヴィムは前足をグーッと伸ばして迫真の演技をする。
「ああ、お嬢さん、失礼をお許しください。わたしはそう思いながらも、急いでこちらに戻ってきたというわけです。いや、しかし、危機一髪」
「ハンチングを取られなくてよかったね」
ぼくはヴィムが乗っていたハンチングを眺めた。そう、まさに乗っていたのである。なぜならこれは、タイムマシンなのだ。いや、ヴィムの言うところによると、
「タイムマシン? そんなありふれた名前で呼んでほしくないですね。なぜならこれは、時間及び空間を瞬時に移動する装置なのだから」
「それをタイムマシンと呼ぶのでは?」
ヴィムは少し考えた。
「たしかにフィクションでいうところのタイムマシンは時間だけでなく、空間も移動するようですね。とはいえ、この装置はそれ以上の機能を持ちますよ」
「例えば?」
「それは追々分かってきましょう。君も使ってみればね」
ヴィムはそう言って、上手にウインクした。
自己紹介をしておこう。ぼくの名は、青山百太。青山家の長男にして一人っ子。趣味はミステリやホラー小説を読むこと。少々インドアすぎるかもしれないが、ごく普通の男子中学一年生だ。そして、このペットと呼ぶには賢すぎる犬はヴィムという。ヴィムに出会ったのは、一年ほど前のことだ。ぼくはひどい嵐の中、当たらない天気予報に呆れながら、帰りを急いでいた。横殴りの雨で、役に立っているのか分からない傘が、突風で吹き飛ばされてしまった。あわてて拾いに行くと、結構遠くまで飛ばされてしまった傘は、幸いにも、ガードレールに引っ掛り止まっていた。ぼくは急いで傘を拾い上げた。そのすぐ脇にちょこんと座り、ガタガタ震えている小さな子犬が目に入ったのは、このときだ。飼い主は近くにいないようだった。ぼくは着ていたパーカーを脱ぎ、子犬をくるんで、急いで連れ帰った。そして、洗面器の小さなお風呂に入れてやった。子犬はしばらくすると震えるのをやめた。ドライヤーで乾かしてやると、グレーの長い毛がふさふさの何ともかわいい様子になった。茹でたささ身をやると、ハフハフとわき目も振らずに食べる。一生懸命に生きようとしている姿は涙ぐましい。よっぽど疲れていたのだろう。子犬はそのあとすぐに眠ってしまった。かわいい寝顔を見ていると、とても癒された。ぼくもいつの間にか、傍らでうとうとしていた。
ペチ、ペチペチ。ぼくは、頬に当たる感触で目が覚めた。うっすら目を開けると、子犬がぼくの顔を覗き込んでいた。子犬はちいさな肉球で、ぼくの顔をペチペチ叩く。ぼくはにんまりした。
「目が覚めたんだね、おなかがすいたかな?」
子犬は首を左右に振って言った。
「いいえ、それは結構です。助けていただき、ありがとうございます。お話しておきたいことがあるのです」
ぼくは、自分はきっと寝ぼけているのだろうと思い、もう一度目をつぶり、眠ることにした。
「君が驚くのも無理はないでしょう。しかし、とりあえずわたしの話を聞いてくれませんか」
子犬は話し続けた。
「これって、夢じゃないの?」
ぼくは目を閉じたまま言った。
「君にとって、悪夢じゃなければよいのですが」
「悪夢? とんでもない! 夢みたいだなあと思っていたところさ」
ぼくは起き上がった。子犬は行儀よくおすわりしている。
「ふむ、ありがとうございます。まずは自己紹介を。わたしの名はドクター・ヴィム・トビアス・ポッシュ。科学者です」
「・・・」
「いや、情報過多ですかね」
ぼくはパソコンで、『ドクター・ヴィム・トビアス・ポッシュ』を検索した。何も出てこない。
「それを見せてくれませんか」
ぼくは子犬を机の上に乗せた。子犬はスクリーンを眺めて、小さな前足でキーボードをそっと押し、『Wim Tobias Posh』とタイプした。そしてやはりなにも検索に引っかからないのを見て取ると、深く重いため息をついた。ぼくはおそるおそる尋ねる。
「えっと、君はどうしてしゃべれるの?」
「それは自分でも分かりません。犬の声帯で、こんなに明瞭に言葉を話すことはできないはずなのですが」
「じゃあ、なんでヴィムって誰? 科学者って?」
「ヴィムは私のファーストネームです。科学者というのは職業。研究者といったほうがいいのでしょうか」
「君、子犬だよね?」
「わたしにも、その辺りはどうも不明瞭なのです。気が付くとこの姿であの嵐の中にうずくまっていたというわけで」
子犬はそれからわかるだけのことを話した。自分はどうやらこことは違う時代の違う国で科学者として暮らしていた。
「生涯をかけた研究が完成間近だったのです」
子犬はしんみりと言った。
「しかし、わたしの右腕ともいえる弟子が、ある日突然消えました。我々の研究成果とともに。周りからは、裏切られたのだと言われました。でも、わたしには彼が裏切るなど、到底信じられなかった。ところが、間もなく彼の裏切りは明白になりました。わたしは茫然自失となりました。食事さえ喉を通らなくなりました」
子犬はしんみり頭をフルフルと振った。
「それまでも寝食を忘れ、研究に没頭してきたのです。あまりのことに、きっとあのとき、心身ともに疲れ切ったわたしの命は尽きたのでしょう。ただ、今は思うのです。なんと愚かしいことをしたのだと。わたしは、石にかじりついてでも研究を続けるべきだったのだ。完成まであと一歩というところだったのですから」
ぼくは何も言えなかった。他人の辛い思い出に、どう言えばいいのか子供のぼくには圧倒的に経験値が足りないのだと思う。それに、いいかげんなことを言ってなぐさめるほど無神経でもないのだ。子犬はしばらく黙っていたが、そっと言った。
「どうもすみません。暗い話をして。しかし、諦めません。わたしは今、犬ではありますが、研究を続けるつもりです」
「・・・君の覚悟は理解したよ。ぼくも出来るだけ協力する。ところで、君が現在犬なのは、もしかしたら、こういうことじゃないかな?」
ぼくは、ミステリだらけの本棚から、珍しくミステリではない一冊の本を取り出し、子犬の前に差し出して言った。
子犬はちょっと恥ずかしそうに言った。
「すみませんが、読んでくれませんか?わたしはまだこちらの文字を習得していないのです」
ぼくは、その『これであなたも輪廻転生のすべてがわかる』という本を声に出して読んだ。子犬も本を眺めている。しばらく読んだところで、子犬が言った。
「なるほど。輪廻転生とは、仏教の教えで、人は何度も生死を繰り返し、新しい生命に生まれ変わることということですね。輪廻転生では、必ずしも人に生まれ変われるというわけではない。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界のいずれかに転生する」
子犬は、ぼくが二十分かけて読んだところを上手に要約した。
「そのようだね」
「非科学的、と以前のわたしなら一笑に付したかもしれません。しかし、我が身に起きたことを考えれば、さすがに頭から否定するのは間違っているでしょうね。さしずめわたしは今、犬になって畜生道にいるということなのかもしれませんね」
そして何かぶつぶつ独り言を言う。
「前世の記憶を持ったまま犬に生まれ変わるとは、なんというイレギュラーな事態なのでしょう。しかし、これには何か意味があるのでしょうか。それにしても、この姿でやりとげることができるのでしょうか。いや、しかし、なんとしてでも・・・」
ぼくは子犬の心のうちを想像した。さぞかし大変だったのだろうな。想像したくはないけれど、例えば、ぼくが何かの事故で明日、命を落とすとする。次に気が付いたときには、何かの動物になっている。ぼくは人間だった記憶があるから・・・考えるだけで辛い。
ぼくは子犬の落ち込んだ気分をなんとかしようとなるべく明るく聞いてみた。
「ところで、ぼくは君を何て呼べばいいかな? ヴィム? それとも何か新しい名前がいいいかな? 何て呼ばれたい?」
しかし、子犬はまるで興味なさそうに、しかし威厳たっぷりに言った。
「以前は『ドクターポッシュ』と呼ばれておりましたが、ヴィムで結構ですよ」
こうして、ヴィムはぼくの家族になった。元の飼い主が、とうとう見付からなかったのだ。ヴィムは、家族の前では、かわいい子犬そのものだった。お父さんとお散歩したり、お母さんにおねだりしたりする。なかでも、一日中うちにいるおじいちゃんとは大の仲良しだ。ぼくの前では本を読んだり、パソコンを使って勉強したりして、子犬というより、人間の地のままでいる。
「日本語、読めるようになったんだね」
ぼくが言うと、ヴィムは、
「ええ。それに、欧米の言語はほとんど習得済みですよ」
と澄まして言った。ヴィムは本当に頭がいいのだな。
「どうして、ぼくの前でだけ、しゃべったり、本を読んだりするの?」
「それはですねえ」
ヴィムは考えながら言った。
「モモタ君、もし君が、『うちの犬は、しゃべるんだ』と言ったとしましょう。周りの人は、子供らしい可愛い発想だと思うでしょう。これが大人なら、どうでしょう・・・ええ、考えてみるだけで、恐ろしい。わたしのせいで、大切な家族が、社会的信用を失ってしまうのは、辛いことです」
ある日のこと、ぼくが雨の中、帰ってきて玄関ドアを開けると、ヴィムがダッと外に飛び出していってしまった。ぼくはあまりに驚いて、一瞬たじろぎ、それでも急いで追いかけた。でも、すぐに見失ってしまった。おじいちゃんによると、ヴィムは、稲妻が光るとぶるぶる震え始め、雷が鳴ると飛び上がって怖がり、我を忘れるように家じゅうを駆け回っていたという。そして、ぼくが開けたドアから外へ飛び出したのだ。
ぼくとおじいちゃんは、付近を暗くなるまで探し回った。しかし、ヴィムは、どこにもいなかった。
「可哀そうに。雷恐怖症かもしれないな」
おじいちゃんは言った。雷恐怖症というのは、稲妻や雷鳴に過剰に恐怖を感じる心理状態だという。パニックを引き起こすこともあるらしい。原因は、本能の中にある恐怖反応、あるいは、
「過去に雷にまつわる嫌な体験をしたのかもしれないね」
おじいちゃんは、しんみりそういった。
それからぼくたちは、ヴィムを探し続けた。一週間後、ヴィムはとても衰弱している状態で見つかった。ぼくたち家族はヴィムを一生懸命看病した。ヴィムは三日間ほとんど寝たきりで、そのあと徐々に回復していった。それからは、雷が鳴りそうなひどい雨になると、おじいちゃんが急いでヴィムを庭に建っている防音装置付きの離れに連れて行った。ここはおじいちゃんの書庫だ。
それからヴィムはちょくちょく離れで過ごすようになった。




