あの夏の続きを、あなたと
夏の郵便受けは、金属の匂いがした。
昼すぎの熱をたっぷり溜めこんだ口を開けると、請求書と回覧板にまじって、一枚だけ白い封筒が入っていた。見慣れた筆跡だった。
差出人の名前を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
高瀬悠真。
高校三年の夏まで、同じ町にいた人だ。進学で東京へ出て、それから一度も会っていない。連絡が途切れたわけではないけれど、続いているとも言いがたい、薄い糸みたいな関係だった。年賀状と、ときどき思い出したように届く季節の便り。それだけで、もう四年になる。
冷房の弱い居間で封を切る。便箋は二枚。最初の一行を読んだだけで、指先が少し震えた。
『そっちの海は、今年も朝から白く光っていますか』
窓の外では、蝉がひっきりなしに鳴いていた。うちから港までは歩いて十分もかからない。晴れた日の朝は、海面が光を跳ね返して、目を細めたくなるくらい明るい。
便りには、仕事のことが少しだけ書いてあった。忙しいこと。眠る場所みたいな部屋で、毎日コンビニのおにぎりを食べていること。けれど、それよりも多かったのは町のことだった。駅前のアイス屋がまだあるか、夏祭りの屋台は減っていないか、堤防の先で見た花火は今も同じ色か。
最後のほうに、こうあった。
『たぶん、戻ることになりそうです。正式に決まったら、ちゃんと知らせます』
たったそれだけなのに、私は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。
戻る。
その言葉が、うれしいのか苦しいのか、自分でもよくわからない。
高校最後の夏、悠真はこの町を出る前日に言ったのだ。
「離れても、たぶん平気だと思う。小さいころからずっと近すぎたから、一度ちゃんと離れたほうがいい気がする」
あのとき、笑って頷いた。そうだね、と言った。言ってしまった。ほんとうは平気なわけがなかったのに、引き留める言葉を口にしたら全部壊れそうで、ただ見送った。
返事はその日のうちに書いた。
『海は今年も朝から白いです。アイス屋はまだあります。祭りは少し小さくなったけれど、花火はたぶん同じです』
そこまで書いて、止まった。
何を足せばいいのかわからない。会いたいと書くには、今さらすぎる気がした。戻ってきてほしいと書くのも違う気がした。結局、体に気をつけて、とだけ結んでポストに入れた。
それから十日後、また白い封筒が届いた。
今度は短かった。
『明日、戻ります。夕方の電車です。急でごめん。もし都合が合えば、駅で会えたらうれしい』
文字を追った瞬間、胸の奥で何かが跳ねた。
翌日は朝から落ち着かなかった。何度も服を替え、髪を結び直し、まだ明るいうちに駅へ向かった。ホームに入ってくる列車の音が、妙に大きく聞こえる。
電車が止まり、扉が開く。降りてくる人の中に、少し背が伸びて、でも歩き方は変わらない人を見つけた。
悠真もすぐに私を見つけたらしく、目が合うと、困ったように笑った。
「久しぶり。思ったより、全然変わってない」
「そっちも。少し日に焼けたくらい」
「それ、褒めてるのかな」
笑いながら言う声が、懐かしくて、胸が痛い。
駅前の自販機で冷たいお茶を買って、並んで歩いた。夕方の町はまだ熱を持っていたけれど、海から来る風が少しだけやわらかい。話すことはいくらでもあるはずなのに、最初はどうでもいい話ばかりだった。東京の電車はやっぱり苦手だとか、町のスーパーが改装したとか、祭りの日程が少しずれたとか。
堤防まで来たところで、悠真が足を止めた。
「手紙、変だったかもしれない」
「そんなことないよ」
「戻るって書いたとき、ほんとはもう少し早く言いたかった。でも、決まる前に期待させるのも嫌で」
「うん」
「それに、会いたいって書くの、なんだか怖かった」
私はゆっくり顔を上げた。
夕陽の色が海に伸びている。高校のころ、ここで何度も並んで立った。なのに、あのときより今のほうが、ずっと遠く感じる。
「こっちも、同じだったよ」
声が少し掠れた。
「毎回、手紙を読むたびにうれしかった。でも、会いたいって書いたら困らせるかもしれないと思って、いつも最後に体調のことしか書けなかった」
悠真は一度目を伏せ、それから小さく息をついた。
「よかった」
「何が」
「勝手に一人で、もう遅いかもしれないって思ってたから」
風が強くなって、髪が頬にかかった。直そうとした手より先に、悠真の指がそっと髪を払う。昔なら平気だった距離なのに、今はそれだけで息が詰まりそうになる。
「遅くないなら、ちゃんと言いたい」
夕陽を背にして、悠真がまっすぐこちらを見る。
「東京へ行く前から好きだった。離れたら落ち着くかと思ったのに、全然だめだった。季節の便りをやめなかったのも、忘れたくなかったから」
胸の奥に溜まっていたものが、ようやくほどける。
泣くつもりなんてなかったのに、視界が滲んだ。笑うのも泣くのも中途半端な顔で、私は言った。
「こっちだって、ずっと好きだったよ。あの夏から、たぶんその前から」
悠真は少しだけ目を丸くして、それから子どもみたいに嬉しそうに笑った。
「それ、手紙で書いてくれてもよかったのに」
「そっちこそ」
「たしかに」
二人で笑う。笑いながら、近づいた手が触れる。指先だけだったのに、そのままきちんと繋がれた。熱い夏の終わりの風の中で、その手だけが不思議なくらい落ち着く。
港のほうで、船の汽笛がひとつ鳴った。
「これからは、手紙じゃなくてもいいかな」と悠真が言う。
「電話もあるし、会える距離だしね」
「そうなんだけど」
少し照れた顔で、悠真は続けた。
「手紙も続けたい。今日みたいなこと、文字で何度も読み返せるのは、たぶん悪くないから」
私は頷いた。
「じゃあ、続けよう。会える日に会って、それでも足りないぶんは、夏でも冬でも書けばいい」
「うん。そのたびに、ちゃんと好きだって書く」
「それは少し恥ずかしい」
「でも書く」
そう言い切る声がおかしくて、また笑ってしまう。
西日が落ちて、海の光がゆっくりやわらいでいく。切ないだけで終わるはずだった季節は、気づけば少し甘い色に変わっていた。
その帰り道、繋いだ手は最後まで離れなかった。夏のお便りは、ようやく、返事のいらない思い出ではなくなった。




