初恋の後味
静かな海辺の町「湊」で、矢口徹の血まみれの遺体が発見されたことで住民の間に深い不安が広がった。大手自動車部品会社の社長である矢口は、彼の別荘のリビングで刃物による複数の刺傷で大量失血死していた。
「さっそく、事件か。やれやれ」
最近赴任してきた所轄の警部補、早野圭介が捜査の指揮を任された。精悍な顔立ちに正義感を浮かべて、彼は現場へ向かった。
早野が矢口の仕事関係や交友関係をくまなく調べるうちに、矢口の私生活に不穏な事実が見つかった。
矢口がよく訪れていたキャバクラ「シャレード」で働く川田詩織が第一容疑者として浮上した。この界隈では詩織が徹の愛人だという噂が飛び交い、すでに話題となった事件にさらにスキャンダルが加わった。
詩織の過去は悲しい不幸と家族のトラブルの織りなすものだった。
早野は中学生の頃の彼女を知っていた――初恋の相手として覚えていた。詩織は快活な美少女で、クラスでも目立つ存在だった。思春期特有の気恥ずかしさ――他の男子生徒もそうであったであろう――で、早野はあまり彼女と話したことがなかったが、彼女の可愛らしい笑顔を今でも鮮明に覚えている。
席が隣同士の時、休み時間に彼女が早野の制服の上着のボタンが取れかかっているのに気づき、カバンから携帯用のソーイングセットを取り出して、ボタンを丁寧に付け直してくれたことがあった。
「はい、早野君、出来たわよ」
「……ああ、ありがとう。川田さん」
早野は彼女から上着を受け取り、照れながら礼を言った。
まるで昔の少女漫画のようなワンシーンだった。
詩織は家業の町工場の経営不振と両親の自殺が原因で突然別の学校へ転校していった。詩織と年の離れた妹の香苗は、他に頼る者がいなかったため児童養護施設に入れられたといわれている。施設を離れた後、詩織は昼夜必死に働き、最終的に香苗を自分のもとに迎え入れた。
詩織の調査という苦しい職務に直面し、早野は職業上の義務と個人的な過去が入り混じった複雑な状況で彼女に近づいた。
「川田さん」
早野は取調室の薄暗い光の中で向かい合って座りながら優しく話し始めた。
「矢口徹さんについて話さなければならない」
詩織は顔を上げ、苦悩と脆さが入り混じった目をしていた。しかしながら、美少女だった頃の面影は残っていた。
「遅かれ早かれこうなると思ってたわ」と彼女は言った。
「……はい、矢口さんのことは知っていました。彼は常連客で、何かと私を贔屓にしてくれていた。……でも、私は彼の愛人じゃない。信じて、早野君。それはただの悪意のある噂なの!」
早野は彼女の強い否定に気づきつつも続けた。
「彼が亡くなった夜、あなたが彼の別荘にいたという証拠がある」
詩織はため息をつき、視線を落とした。
「……確かに私もそこにいたわ」と彼女は告白した。
「でも、彼が提案した資金援助について、ただ確認するためだけだったの。私は香苗と私のために小さな店を開きたかった――夜の仕事をきっぱりやめて。なのに、彼は……彼は、そんなのは酒の席の上での戯言で、本気で言ったわけじゃない、と私を鼻で笑ったの。それで、怒りに震えながら、すぐに出て行ったわ。本当にそれだけなのよ。……私は彼を殺してなんかいない!」
捜査が進むにつれて証拠は積み重なっていったが、それでも早野の心には何かが引っかかっていた。直感は彼をキャバクラ「シャレード」へと引き戻し、矢口の人生の背景に潜む影の人物たちへと向かわせた。執拗に掘り下げ、様々な情報源からより詳細な証言を引き出す中で、早野はキャバクラと矢口のビジネスに密接に関わるもう一人の著名な人物の方が、より明確な動機と犯行の機会を持っていることを突き止めた。
結局、矢口を惨殺したのは、矢口の成功を羨み、自身の利益を脅かす拡大計画を恐れたライバル実業家、菰田敏郎だった。彼の自宅の車庫の奥から矢口殺害に使われたと見られる刃物が押収された。
詩織が矢口の愛人だというデマを流したのも菰田だった。「シャレード」に通いつめ、お気に入りの詩織に振られた腹いせにあることないことを言いふらし、彼女を矢口殺しの犯人に仕立て上げようとしていたのだ。
詩織は本当に無実だった! 早野は心の底から安堵を覚えた。
疑いが晴れた詩織は、知人を通して何とか金融機関から融資を受け、ついに手作りを専門とする小さなブティックを開いた。そばには妹の香苗がいた。
「……やあ、何か変わりはないか?」
「お陰様で今日も平和そのものよ、早野君」
早野はパトロールの途中でよく店の前を通り、そのたびに少しずつ立ち止まり、過去の話を語り合い、未来の夢について語り合った。
静かな海辺の町、湊では、波が砂浜に正義と贖罪の物語を囁きながら、春風に吹かれ、生活はゆっくりと日常を取り戻していた。




