第四章 傷だらけの均衡 Ⅰ
1. 甘い毒、鋭い牙
連合軍本陣、ガレス軍が設営した巨大な天幕。
外ではバスタレインの怒号と、補給路急襲の事後処理に追われる兵たちの足音が絶えなかった。
しかし、天幕の中だけは、蝋燭の火が揺れる静寂に包まれている。
「おかえりなさい、アリス姫。湿地での『捜索』、随分と長引いたようですな」
机に広げられた地図から目を上げず、軍師ベベクロが言った。
アリスは泥のついたマントをジークシールドに預け、用意されていた椅子にゆったりと腰を下ろした。
「ええ。クストが残した遺物を確認するのに手間取ってしまいましたわ。……それで、補給路を襲った『亡霊』の正体は分かりましたの?」
「さて……。バスタレイン将軍は『クストの残党だ』と息巻いて追いかけましたが、結局はもぬけの殻。幽霊にしては、随分と手際が良すぎる」
ベベクロは立ち上がり、卓上に置かれた銀のデキャンタから、赤黒いワインを二つの杯に注いだ。
「不毛な疑心暗鬼は、軍の士気を下げますわよ、軍師殿」
「左様。ですから、こうして姫様と二人、親睦を深めようと思いまして」
ベベクロが差し出した杯。
アリスはその縁に指を添えたが、口はつけない。
背後に立つジークシールドの視線が、わずかに鋭くなったのをアリスは背中で感じていた。
「……アリス・ミルケ・ジオ。貴女はクスト・レアを『死なせた』。それによって、アトラクトはこの戦後の講和会議で最大の執り成し役の座を狙っている……違いますかな?」
ベベクロがゆっくりとアリスに歩み寄る。
その歩調は、獲物を追い詰める捕食者のそれだ。
だが、その名前を呼ばれた瞬間、アリスの指先がピクリと跳ねた。
「ミルケ・ジオ」
父の名を冠したその姓名は、彼女の喉元を締め付ける冷たい鎖のように感じられた。
父の支配、それを突きつけられるたび、強烈な拒絶反応が渦巻く。
(……その名で、私を呼ばないで)
アリスは表面上の笑みを張り付かせたまま、内心でその呪わしい名前を切り捨てた。
ベベクロは彼女のわずかな変化を愉しむように、わざと一歩踏み込んで続ける。
「だが、もしクストが生きていて、我がガレスの領土を犯すとしたら……アトラクトは『人類の敵』を匿った大逆罪に問われることになる。証拠なら、これから作ればいい」
その瞬間、ベベクロの合図と共に、天幕の周囲に潜伏していた直属の影兵たちが、一斉に突入してきた。
「動くな。アリス姫、貴女には『アソセスとの通敵容疑』で、一時ご退場いただく」
ベベクロの冷たい宣告。
だが、アリスは、名前を呼ばれた時の不快感を払拭するかのように、傲然と顎を上げた。
「ジーク。…… 『掃除』 をして」
刹那。
アリスの影が跳ねたかのように、ジークシールドが動いた。
突入した暗殺兵の先頭三人が、叫び声を上げる暇もなく崩れ落ちる。
ジークシールドは手に持ったマントを盾にし、死角から放たれた投石を弾くと、そのままベベクロの喉元に、抜き身のナイフを突きつけた。
「……私の姫に、不作法な真似はさせないでいただきたい。」
ジークシールドの低く、地を這うような声。
ベベクロの額に、初めて冷や汗が流れる。
「ベベクロ様。貴方が用意したこのワイン……少し『苦味』が強すぎましてよ」
アリスは杯を傾け、中身を絨毯にぶちまけた。
液が触れた場所から微かに泡が立ち、鼻を突く毒の臭いが漂う。
「私を拘束し、偽の自白書を書かせるつもりだったのでしょう? ですが、残念でしたわね。……今の騒ぎで、ラインベルトのラノア卿がこちらに向かってきますわ。ガレスの軍師が、連合軍の同志である私を毒殺しようとした……その事実を、彼はどう受け取るかしら?」
アリスは立ち上がり、ベベクロの耳元で囁いた。
その声は、毒を含んだ蜜のように甘く、そして氷のように冷たい。




