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第三章 泥の中の虚像 Ⅱ

4. 嫌な女


 バスタレインが去り際、わざとアリスの側を通り抜け、威圧的な風を残していった。

 アリスは、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。


(……危なかった。バスタレインの暴力は、ベベクロの知略より予測が立たないわ)

「……ねえジーク。私、いま凄く嫌な女の顔をしてるでしょう?」


 アリスは震える指先を隠すように、そっと顔を覆った。


「ラノア卿の……あの人を信じる心さえ、私は利用したわ」


  「存じません。ですが」


  ジークは視線を湿地の奥へ向けた。


「この顔でなければ、クストは今頃死んでいます」


 霧がさらに深まり、湿地が夜へ沈みきった頃。

 アリスは前を向いたまま、唇を動かさずに囁いた。


「……ジーク。一刻が経つわ。クストに伝えて。……『ガレス軍の尻尾を噛みなさい』と」


5. 死者の亡霊の策略進軍

 

 霧が不気味に渦巻き、湿地の空気が夜へ沈みきった頃、猶予が尽きようとしていた。

  バスタレインが忌々しげに鉄槌を握り直し、「野郎ども、泥を掘り返せ!」と怒号を上げようとしたその瞬間。


 遥か北方の夜空を、不気味な赤光が染め上げた。

 ガレス軍の陣営後方、補給路の分岐点付近で激しい爆発音が轟く。


「 報告! 補給部隊が襲撃を受けました! 敵は正体不明、黒い甲冑を纏った一団です! 我が軍の糧食が、焼かれています!」

「何だとォ!?」

  バスタレインの怒号が湿地を震わせた。


  「俺の軍の『肉』を焼きやがったのはどこのどいつだ! アソセスの残党か!? 」

「黒い甲冑……クスト・レアだと!? 生きていたのか!」

 ラノアが弾かれたように馬を回した。


 その声には、親友を討った自責から解放されたいという希望と、もし生きていれば再び剣を交えねばならないという絶望が、醜く混ざり合っていた。


「ええい、検分など後回しだ! 腹が減っては戦にならん! 野郎ども、転進だ! その『黒い亡霊』どもを、この鉄槌で肉塊に変えてやる!」


  バスタレインはアリスを睨みつけ、再度、威圧的な風を浴びせた。


「小娘、もしこれが貴様の仕掛けた細工なら、その首を捻り切ってやるからな!」

 猛将が地響きを立てて去り、ラノアもまた亡霊を追って闇へと消えていく。


 一人残ったベベクロは、逃げ場のない冷たい視線でアリスを凝視し続けていた。

 アリスは泥に汚れた長靴で一歩踏み出し、優雅に、しかし冷徹に微笑んでみせた。


「早く行かなくてよろしいのですか、ベベクロ様? 貴方の誇るガレス軍が全滅しては、王への報告が『無能』の一言で終わってしまいますわよ」


 ベベクロは忌々しげに舌打ちをし、馬を向けた。

  「……今日のところは、貴女の勝ちのようですな。ですがアリス姫、この『亡霊』の正体、必ずや私が暴いてみせましょう。……その時を楽しみにしていますよ」


 連合軍が去り、アリスは一人、深く息を吐いた。

 扇を握る指先が、白くなるほど強張っている。


(私は、嘘で人を動かした。いいえ、嘘で“戦争”を動かしたのね)


  胸の奥がきしむ。

 だが、その痛みを無視できるほど、彼女はもう無垢ではなかった。


 6.山岳王の挑発


 霧の向こうから、乾いた拍手の音が響いた。


「ハッ! 全滅したはずの幽霊を追いかけるとは、ガレスの連中も焼きが回ったもんだなあ! 見ろよ、あのアホ面のバスタレインを。肉を喰われて泣き喚くガキと変わらねえ!」


 岩場から飛び降りてきたのは、巨大な双刃斧を担いだ山岳王ガレイシアだった。

 彼はアリスに向かって不敵な笑みを投げる。


「予定通りだな、お嬢ちゃん。だが……」


 ガレイシアの視線が霧の奥へと鋭く放たれる。


  「……出てこい、『幽霊』の親玉。俺の『山の耳』を出し抜いて、俺の兵に刃を届かせた化け物は貴様だな?」


 霧の向こうから、黒い鎧を纏った巨躯――クスト・レアが姿を現した。彼は背後からオマール兵たちの喉元に剣を突きつけ、「静止した均衡」を築いていた。


「ガレイシア……。密約の相手でなければ、三秒もいらん」


 クストの低い声。感情を排した殺意の重みに、ガレイシアは斧を強く握り直した。


「はっ! 相変わらず、おっかねえ男だ。……いいぜ、お嬢ちゃん。カレル平原の『出口』を貸してやった甲斐があった。この男は、単なる逃亡者じゃねえ。本物の死神だ」


 アリスは、クストが剣を引くよう視線で合図し、ガレイシアの前へ一歩踏み出した。


「評価していただけて光栄ですわ、ガレイシア王。……さて、『扉』を貸していただく段階は終わりました。これからは、より退屈しない段階へと移りましょう?」


「利益なら岩を砕けば出てくる。俺が欲しいのは、あの大陸のキツネ(ベベクロ)がどんな面をするか……それを見届ける特等席だと言ったはずだ」


 アリスは軍用地図を広げ、ジークシールドが持つ松明で照らした。


「クスト将軍は、貴方の用意した『隠し街道』を通り、手薄になったガレス本国へ向けて進軍します。ガレイシア王、貴方はその行軍を援護し、ラインベルト軍の目を逸らしてください。そして私は――連合軍の『中』から、情報を流し続けます」


 アリスの瞳に、冷徹な炎が宿った。


「アトラクトの知恵、アソセスの武力、オマールの路。……三つの国が、一つの意思で動く。これが成立した時、この偽りの戦争は終わります。そしてクストたちは今日から、本当にこの世にいない 『死神』 になるのです」


「……はっ、いいぜ。死神の道案内か、悪くねえ」

 ガレイシアが斧を鳴らし、クストがゆっくりと剣を引いた。殺気が霧の中に霧散する。


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