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第三章 泥の中の虚像 Ⅰ

 

1. 凱旋なき帰還と「騎士の報い」


 翌朝、カレル平原を包み込んだのは、勝利の凱歌ではなく、這い寄るような霧と不気味な静寂であった。


「……いないだと? どういうことだ、報告せよ!」

 ラインベルトの騎士ラノアは、目の前の光景を睨みつけていた。


   昨夜まで死闘を繰り広げていたアソセス軍の本陣。そこには、人影はおろか、軍馬の一頭すら残されていなかった。


「遺体も、重装品も……すべて消えています。まるで、最初から誰もいなかったかのように」

 副官のクリスの報告に、ラノアは震える手で剣の柄を握りしめた。


 『クスト・レアを討つ。』

 その一点にのみすがってきた彼にとって、標的の消失は梯子を外されたも同然だった。


 一方、数キロ後方のガレス軍本営。

 軍師ベベクロは、一報に眉をひそめ、手元の盤面を指先でなぞった。


「……妙だな。クスト・レアの背後は、逃げ場のない湿地帯。ラノアの猛攻を受けながら、音もなく全軍を脱出させるなど不可能だ」


 ベベクロの計算では、追い詰められたクストがラノアを道連れに玉砕し、アソセスという国が「大陸中の不倶戴天の敵」として完成するはずだった。


 だが、肝心の『獲物』が盤上から消えた。彼の脳裏に、不気味な違和感が走る。

 その時だった。


「軍師殿、アトラクト軍より急報! アリス王女が……『クスト・レア率いる残党を壊滅させた』と!」

 本営内に衝撃が走る。


 間もなくして、平原の向こうからアトラクト軍の旗を掲げた一団が、血に汚れた姿で姿を現した。

 その先頭には、泥にまみれた軍装を翻し、疲弊した表情を完璧に作り上げたアリスの姿があった。

 彼女が差し出したのは、無残に裂かれた「黒い太陽」黒騎兵の団長旗と返り血を浴びたクストのマントの一部だった。


「アリス姫……。貴女が、クストを討ったというのか」  

 ラノアが、血走った目で詰め寄る。


「クスト将軍は、最後の一兵まで抗い……自ら沼の底へ沈みました。遺体を引き揚げることは叶いませんでしたが、これが彼らの終焉の証です」


2. 蛇の疑念   亡霊を食う女


 その光景を、軍師ベベクロは食入るように観察していた。


(嘘だ。……あの女、クストを食いやがったな)


 ベベクロは背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 遺体がない。それは、アリスがこの戦場に 「死ななかった死者」 という、自分すら制御できない不確定要素を隠し持ったことを意味している。


「素晴らしい武勲だ、アリス姫。」

 ベベクロは、顔に張り付いたような笑みを浮かべて歩み寄った。


「……あのクスト・レアが泥に沈むとは。……では、その最期の場所へ案内していただけないかな?」


 アリスは微笑み返した。


「ええ、喜んでご案内しますわ、ベベクロ様。ただし、あの湿地は深く、一度足を踏み入れれば、何が真実で何が泥なのか……見分けがつかなくなりますわよ」


3.嘘の祭壇、泥の審判


 カレル平原の北端。アリスが「クストの最期」と指し示した湿地帯には、アトラクトの兵たちが厳重な検問を敷いていた。


「遺体捜索のためです。不浄な死体が水を汚さぬよう、立ち入りは制限させていただいております」  

 アリスは、馬を並べるベベクロとラノアに対し、涼しい顔で告げた。


 背後ではジークシールドが、冷徹な監視の目を連合軍へと向けている。


「……アリス姫。死体を確認せずして、戦は終わらぬ」

 ラノアが低く、搾り出すような声で吐き捨てた。


  「俺はこの目で、奴の最後を見なければならん。……それがラインベルトの騎士たちが流した血への、唯一の報いだ」


 アリスは一瞬だけ視線を伏せ、それから真っ直ぐにラノアを見返した。

  「それは “復讐” です、ラノア卿。騎士の報いではありません。……貴方は、かつての友の亡骸を引きずり出し、首を掲げるために剣を取ったのですか? それとも、剣を振るう者としての誇りを守るために?」


「……俺は、復讐ではない。俺は……」

 言葉が続かなかった。

 ラノアの拳が、馬の手綱を千切れんばかりに握りしめ、震える。


  「……騎士の誉れなど微塵も残らぬ光景でした。だから、ここから先は私が背負います。貴方は、これ以上の泥にまみれなくていい」


 つづいてベベクロが問いただす。

「アリス姫。……しかし、全滅したにしては、重装の痕跡が少なすぎる。まるで最初から数が少なかったようだ。姫様。貴女は、我々が気づかぬうちに、クスト・レアと『言葉』を交わしたのではないですか?」


 ベベクロが親愛を示すには近すぎ、脅迫とするには丁寧すぎる距離まで歩み寄る。

 アリスの心臓がわずかに跳ねる。だが、彼女はそれを表情に出さず、可笑しそうに首を傾げた。


 その時だった。アトラクト兵の検問を強引に跳ね除け、ガレスの大将軍バスタレインが突進してきた。

「検分だと? 笑わせるな、小娘! 死体がないなら、この泥をすべて掘り返してでも、奴の首を見つけ出すまでだ! おい、ガレスの野郎ども! 続けッ! 邪魔する腰抜けは、まとめて踏み潰せ!」


 バスタレインの号令と共に、荒くれ者で知られる重装歩兵たちが、アリスの検問を強引に突破し始めた。


「……っ!」


  アリスの横で、ジークシールドの指がナイフの柄に伸びる。

 アリスは視線でそれを制した。ここでガレス軍と刃を交えれば、それこそベベクロの思う壺だ。

 アリスは馬をバスタレインの前に割り込ませ、毅然と立ち塞がった。


「お待ちになって、将軍! 貴方がその無作法な足で泥を掻き回せば、クストが隠し持っていた 『アソセス王家の証』 が永遠に失われるかもしれませんわよ」

「……証だと?」

「ええ。王位継承に関わる文書か、国宝級の献上品か――少なくとも、ガレス王陛下が『なぜ破壊した』と問う代物です。将軍。もしそれを踏み潰したのがガレス軍だと判明したら、その手柄は誰のものになります?」


 バスタレインの眉が動いた。

 アリスは彼の底なしの欲と、主君への恐怖を正確に射抜いた。


  「……ふん。知恵の回る小娘だ。一刻だけだ。だが何も出なければ、俺はこの泥を平らにする」



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