第二章 静寂を破る「紙の剣」 Ⅲ
4. 泥濘の接触 ―― 死者との盟約
三日間の死闘。
クスト・レアは自らの命を削り、連合軍の足をエルン峡谷で完全に釘付けにした。
だが、正面から抗い続けるには限界があった。
彼は三日目の夜、峡谷の裏側に広がる「死地」底なしの湿地帯へと退いた。
そこはかつて、百年前に放棄された『旧王立運河』が泥に呑まれた場所。
ベベクロら連合軍が「行軍不能」と見捨てたその泥濘の奥深くに、クストは最後の本陣を隠したのである。
追手は来ない。だが、ここから先はどこへも行けない。
文字通りの袋小路であった。
アリスはその「死地」の境界線に立っていた。
膝下までを覆う堅牢な長靴を泥に沈め、一歩一歩、粘りつく闇の中を進む。
「来ました。アソセス軍、後方警戒兵。……三」
横を歩くジークシールドが低く呟くと同時に、その手から三筋の銀光が放たれた。
風を切る音さえしない。
三本の投げナイフが、アソセス兵三人の喉元を正確に、かつ同時に貫いた。
彼らは声を上げる暇もなく崩れ落ち、ジークシールドはその死体を淡々と泥の中へ沈めていく。
(あ……)
「…………判断が早すぎるわ、ジーク」
アリスが冷ややかに指摘すると、ジークシールドは感情の欠片もない声で応じた。
「姫様を危険に晒すくらいなら、口を封じます。交渉より優先すべきものは、決まっています」
「……そうね。貴方のそういうところ、頼もしいけれど……時々、怖いわ」
湿地を抜けた先。そこには、数千の黒騎兵がひしめくアソセス軍本陣の「裏側」があった。
夜の帳に照らされた本陣の中央、一人の男がいた。
クスト・レア。
彼は傍らに、装飾を排した武骨な鉄の剣を立てかけていた。
アソセスの民が荒野を拓き、血を流し守り抜いた歴史を象徴する宝剣『ノクス』。王より直々に賜った彼の魂である。
アリスは、ジークシールドの制止を待たず、泥に汚れた靴のまま、堂々と本陣へと足を踏み入れた。
「お疲れ様です、クスト・レア将軍。世界中を敵に回して、まだ余裕はありますか?」
その場にいたアソセスの将兵たちが、凍りついたように動きを止めた。
クストがゆっくりと振り返る。
その瞳に、初めて「驚愕」の色が混じった。
「……アトラクト軍王女、アリス・ミルケ・ジオ。貴公、死にに来たのか」
「いいえ。貴方を『怪物』の役から降ろしに来たのよ。このままでは、貴方は聖エルマの犯人として歴史に刻まれ、アソセスは滅びる」
アリスは一歩、クストとの距離を詰める。
クスト・レアの視線が、アリスの背後に立つジークシールドへと向けられた。
「……外の三人が死んだ。貴公の連れがやったな」
本陣を包む空気は一瞬で殺気に満ちた。
周囲のアソセス将兵たちが一斉に槍の石突きを打ち鳴らし、アリスを包囲する。
だがアリスは、眉一つ動かさずに言い放った。
「ええ。私の副官は、私の命を脅かす可能性を一切排除する。それが取引をするべき相手の兵であってもね」
アリスの声は、夜の風よりも冷たく響く。
「私の副官の手際が不作法だと言うのなら、形式的な謝罪くらいは差し上げますわ。けれど、無傷で済む話だとは思わないで。それだけの血を払って、私は取引をしに来たのよ」
クストは無言で立てかけてあった剣の柄に、大きな手を添えた。
殺気ではない。アリスという「劇薬」が、本物かどうかを見極めるための試行だ。
「……俺は、ガレスの兵を殺した。ラノアの誇りも踏みにじった。この大陸のどこにも、俺の居場所も、俺を許す道理もない」
アリスは泥に汚れた羊皮紙 王の署名入りの破門状を突きつける。
「……陛下は、俺を『逆賊』として差し出すという親書を書いたのか」
クストの声は地を這うように低い。
その瞳には、怒りではなく、「自分が守ってきたものの崩壊」を目の当たりにした虚無が宿っていた。
「ええ。ですが、この破門状こそが貴方の最後のご奉公よ、将軍」
アリスは、その虚無を射抜くように言い放った。
「貴方がここで美しく戦死すれば、バスタレインはその首を王都の門に掲げ、陛下を『逆賊の主』として断罪するでしょう。国を救うのは、貴方の輝かしい死ではない。歴史から消え失せる、惨めな『不在』だけなの」
アリスは破門状をひっくり返し、何も書かれていない真っ白な裏面を月光に晒した。
「見て。陛下は裏側に、一文字も書き込まなかった。……書き込めなかったのよ。貴卿への感謝を、謝罪を、あるいは再起の願いを。一文字でも記せば、それが連合軍に見つかった瞬間、アソセスは滅びる。陛下は貴卿の忠義に甘え、貴卿に『国を売った悪名』を背負わせる道を選ばれた。……これ以上の信頼が、他にありますか?」
クストは白紙の羊皮紙を凝視した。
アリスの言葉は、詭弁だ。だが、この状況で王が震える手で署名した事実は変わらない。
「俺が消えれば……この後に残された三千の兵はどうなる」
「彼らは今この瞬間から、アトラクトの部隊『ネームレス』として、私の影に隠します。彼らは死にません。アソセスが再興するその日まで、私の支配下で牙を研ぎ続ける権利をあげましょう」
クストは傍らに立てかけた宝剣を手に取った。
剣の重みが、かつて守り抜こうとした「騎士の誇り」の軽さと対照的に、腕に食い込む。
「……取引だと言ったな、王女」
「ええ。私は貴方の武勇を買い、貴方は私の『嘘』を買う。そして私たちは共に地獄へ落ちる。……悪くない取引でしょう?」
沈黙が流れた。
やがて、クストはゆっくりと剣を背負い直した。
騎士としての顔が、死者としての無機質な表情へと塗り替えられていく。
……長い沈黙の後、絞り出すように声をだす。
「……分かった。これより、俺はクスト・レアではない。アソセスの誇りも、名誉も、この泥の中に置いていく。……使い道は、貴女に預ける」
ジークシールドが夜空へ向けて信号弾を放った。
アトラクト軍一万が沈黙のまま、連合軍の視線を遮る防波堤となる。
誰も気づかぬまま、クストと三千の黒騎兵たちは、ガレイシアが放った大規模な煙幕に紛れ、山の民しか知らぬ狭隘な『家畜道』へと数十人単位で分散して吸い込まれていった。
後に残るのは、ガレイシアが後に報告する『崖崩れによる生き埋め』という虚構の墓標だけだった。
アソセスの黒い太陽の旗が、血に濡れて翻る。
それは、誰も実体を掴めぬ「猛毒」が誕生した合図であった。




