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第三章 見えない絞首刑 Ⅰ

 断歴996年、晩秋。


 アソセスの王都リスパトに降り始めた雨は、泥濘(ぬかるみ)を深くし、人々の心を凍てつかせていた。


 アリスが署名した調約「第十二条」。


 そこには確かに『アソセスを飢えさせてはならない』という一文が含まれていた。だが連合国代理人カーターベイ商業工房連合は、その条文を守りながら、完璧にアソセスの息の根を止めてみせた。


1. 紳士的な掠奪


「ああ、申し訳ない。この積み荷の穀物、品質検査に不備がありましてね。安全が確認されるまで、あと三日はここで待機していただかないと」


 アソセス主要街道の関所。

 カーターベイの代行官は、雨に濡れることもない豪華な天幕の中で、困ったような微笑みを商人に向けた。

 その天幕の入り口には、泥の跳ねた外套を纏い、毅然と立つ一人の女性がいた。アソセスの王女、エララである。


「……代行官殿。その検査に『三日』が必要だという根拠を提示していただけるかしら? あなたが今止めているのは、子供たちのための乳製品よ」


 代行官は慇懃に、しかし冷酷に笑った。


  「第十二条には『代理人による物流の最適化管理』が明記されております。不備のある荷を通し、万が一のことがあれば、それこそアリス王女の顔に泥を塗ることになります。……ああ、そうだ。待機期間の『関所滞在税』の支払いもお忘れなく。……払えない? ならば、荷物の一部を担保として頂戴しましょう」


「……最初からこれが狙いなのね」


 エララは拳を握りしめた。


 カーターベイは決して略奪をしない。

 ただ、商売が「赤字」になる絶妙なラインで、通行税と滞在費をむしり取る。


 エララはその仕組みが、アリスの署名によって完成した「見えない鎖」であることを誰よりも深く理解していた。


2.帳簿の猛毒   亡霊の行軍


 リスパトの民が飢えに沈み、憎悪の矛先をアリスへと向け始めていたその頃。

 アトラクト王宮の奥底で、アリスはジークシールドから届けられた「帳簿」を検分していた。


「……計算通りね。カーターベイが表の街道を封鎖すればするほど、彼らの視線は『利益』に釘付けになる。その影に潜む、利益を生まない険路までは目が届かないわ」


 アリスが「第十二条」を飲み込んだのは、この状況を予見していたからであった。

 彼女は特命全権大使として預けられた「機密費」を、アソセス監視のためではなく、山岳王ガレイシアへの「通行料」へと密かに洗浄して流し込んでいたのである。


 同じ夜、オマール山脈。

 連合軍が把握していない「垂直の道」――断崖を縫うような獣道を、一列の黒い影が静かに進んでいた。


 公式には全滅したはずの三千の黒騎兵。いまは名前を奪われた「ネームレス」の兵たちが、灰色の雨具を纏い、背に重い麦の袋を背負って泥濘を這っていた。


 その先頭を歩むのは、白銀の鉄仮面を被った騎士、クスト・レア。

 彼は宝剣(ノクス)を腰に帯びながらも、いまは一人の運び手として、誰よりも重い食糧袋を背負い、泥に深く足を沈ませていた。


 そのすぐ後ろには、闇に同化するようにして歩くジークシールドの姿があった。

 彼は周囲の殺気を探りながら、時折、前を行く鉄仮面の(うなじ)(へ冷たい視線を送る。それは護衛ではなく、王との契約 「この亡霊が声を漏らせば、即座にその首を撥ねる」という死の約束の履行を監視する、処刑人の眼差しであった。


 不意に、クストが足を止めた。


 彼は声を出す代わりに、太い腕を横に伸ばし、後続の兵たちを制した。鉄仮面がわずかに動き、霧の深い崖下を凝視する。


 ジークシールドは音もなくクストの隣へ並び、指の間に数本の薄刃を挟んだ。


「……気づいたか。ガレスの偵察兵だ。一里先に三人、こちらを窺っている」


 ジークが低く囁く。

 クストは答えなかった。


 ただ、鉄仮面の奥にある鋭い眼光を一度だけジークに向け、それから手信号で兵たちに「散開と伏撃」を命じた。


 かつての英雄としての咆哮も、部下を鼓舞する叫びもない。

 泥まみれの行軍の中で、彼はただの「現象」として動いていた。


 滑りやすい足場。肩に食い込む麦の重み。鉄仮面の隙間から漏れるのは、押し殺した荒い呼吸音だけ。


 クストは泥に膝を突きながらも、道なき道を切り拓き、崩れかけた岩棚を自らの体で支えて兵たちを通していく。

 ジークシールドはその献身とも呼べる沈黙の背中を見つめ、微かに目を細めた。


(……英雄の成れの果てが、麦袋を運ぶ泥人形か。だが、こいつの沈黙は、下手に喚く正義漢よりもよほど兵の心を掴んでやがる)


 再びクストが歩き始める。


 彼は一度も振り返らず、ただ一粒の麦を、一人の同胞の口へ届けるためだけにその命を削っていた。

 それこそが、アリスが彼らに与え、彼が自ら選んだ「亡霊としての戦い」であった。


 ジークシールドは再び数歩下がり、その背中へナイフの切っ先を向けるような距離を保ったまま、闇へと消えていく。


「急げ。夜明けまでに、リスパトの隠し倉へ運び込む。……一言も漏らすな。死人は、静かに救済を運ぶものだ」


 ジークシールドの冷徹な声に対し、鉄仮面の騎士はただ、泥濘を力強く踏みしめる音で応えた。


 彼らが運ぶのは、帳簿には決して現れない、「計算外の救済」であった。


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