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第四章 虚構の祭壇 条約調印式 Ⅱ

 調印が終わり、重苦しい沈黙が「王の間」に満ちる。


 各国使節が退室の準備を始める中、ガレスの軍師ベベクロだけが、音もなくアリスの隣へと歩み寄った。彼はアリスの耳元に、蛇が這うような低い声を落とした。


「……クスト・レアは死んだ。……表向きは、そうなりましたな。ですが王女、街道を流れる風の中に、時折『死者の気配』が混じっている」


 ベベクロの視線は、アリスの背後に微動だにせず立つ鉄仮面の騎士に向けられていた。

「貴女の隣に立つその『死神』が、いつかアトラクトを焼き払わぬよう、精々うまく飼いならすことですな。……飼い犬に手を噛まれるのは、凡愚の末路ですから」


 ベベクロの警告とも嘲笑とも取れる言葉に、アリスは表情ひとつ変えなかった。


「……忠告痛み入りますわ、軍師殿。ですが、我が国の犬は(しつけ)が行き届いておりますの。……どうぞ、ご自身の心配をなさってくださいな」


 ベベクロが満足げに、そして不気味な余韻を残してその場を離れる。


 入れ替わるように、兵に促されて退室しようとしていたエララが、アリスの正面で足を止めた。

 亡国の重責を担う彼女の瞳は、先ほどまでの怒りを超え、深い洞察と悲哀を湛えていた。


「……アリス王女。いいえ、アリス様」


 エララは、あえて公式の場にふさわしくない親愛を込めた呼び方を選んだ。

 その視線はアリスの瞳を射抜き、そしてその背後に立つ「鉄仮面の騎士」を静かに、しかし丹念に観察した。



「貴女が署名した条約文……。あれがアソセスにとって『紳士的な絞首刑』であることに、貴女が気づいていないはずがありません。それでも筆を執ったのは、より大きな地獄を避けるためだと……そう信じたいものですわ」


 アリスは何も答えない。答えることは、父王やベベクロの前で「嘘」の綻びを晒すことに他ならない。


「……ですが、覚えておいて。真実を覆い隠すために重ねた嘘は、いつか貴女自身の皮膚となって、剥がせなくなります。貴女が守ろうとしているその『死神』も……いつか、嘘の重みに耐えかねて崩れ落ちるでしょう」


 エララは最後に、鉄仮面の騎士と握りしめる宝剣(ノクス)の柄を悲しげに見つめた。


「行きましょう。……アソセスの夜が明けるのを、泥の中でもがきながら待つことにしますわ」


 エララは誇り高く背を向け、去っていった。

 アソセスの聡明な王女にさえ見抜かれつつある、この危うい均衡。

 アリスは震える指で扇を閉じ、冷酷な「魔女」の仮面を改めて深く被り直した。


(……ええ、エララ様。私はもう、剥がせない嘘を生きると決めたの。たとえ、この手が貴女の故郷を絞め殺す綱になろうとも……その縄の中に、貴女たちが生き延びるための『蜘蛛の糸』を編み込んでみせる)


 背後の「番犬」は、ただ静かに、主の影となって佇んでいた。


 数刻後。外交の喧騒が去り、王宮のバルコニーには秋の夕闇が降りていた。

 アリスは、姉の帰りを待っていた無垢な弟・シオンの手を優しく握っていた。

 シオンは姉の顔を見上げ、天使のような無邪気さで微笑む。


「……平和ね、シオン。……たとえ、これが血で塗り固めた嘘だとしても」


 アリスの横では、副官ジークシールドが、いつでも「番犬」の首を撥ねられるよう、静かに影の中で頭を下げている。



 そして。華やかな王宮の喧騒から隔絶された地下の暗がりに、鉄仮面の騎士はいた。彼は名前を奪われ、声を封じられ、愛剣(ノクス)を抱えたまま、ただ静かに、アソセスがゆっくりと窒息していく次の「地獄」の訪れを待っていた。


 その重苦しい静寂を、不意に階段を駆け下りてくる軽い足音が破った。


「お面の人! 大丈夫ですか? 今日はずっと立ちっぱなしで、大変そうでしたね」


 15歳の少女、リリアン・シールドが顔を出した。彼女はジークシールドから預かった軽食の包みを抱え、屈託のない笑顔で鉄仮面の騎士へ歩み寄る。


「はい、これ。師匠……あ、ジーク様が『これでも食わせておけ』って。師匠ったら、言い方は怖いけど本当は心配してるんですよ。……あ、その剣、かっこいいですね! 姫様が取り返してくれたんですか?」


 何も知らぬリリアンの無邪気な言葉が、死に体の英雄の心に、刃よりも鋭く、けれど不思議と柔らかな痛みとなって染み込んでいく。

 鉄仮面の奥で、クストは静かに、返せるはずのない言葉を飲み込んだ。


 

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