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第四章 虚構の祭壇 条約調印式 Ⅰ

 アトラクト王都ケルテミス、王宮「王の間」。


 調印式のテーブルには、大陸の血の歴史を塗り替えるための「嘘」が並べられていた。


 アリスの背後には副官ジークシールドが立つ。

 そしてその横には、白銀の鉄仮面を被った巨躯が、石像のように控えていた。


「……では、始めましょうか。血の匂いのしない、平和な交渉を」


 アリスが合図を送ると、泥に汚れたアソセスの旗と共に、一振りの剣が卓上に置かれた。アソセスの守護者の証、下賜剣 (ノクス)

 クスト・レアの魂そのものであるその剣を、アリスは「大逆罪人の遺品」として提示した。


「クスト・レアは死にました。……これは、彼を飲み込んだ湿地から回収された物。英雄の末路として、これ以上の真実はないでしょう?」


 その時、連合軍側の末席にいた男が、飢えた獣のように身を乗り出した。


 ラヌムスである。彼はアリスの嘘を確信しながら、その報酬を要求する機会を狙っていた。


「……陛下、そしてアリス王女。その剣、ガレスへの軍功を認められた私へ下賜いただけないでしょうか。……裏切り者の末路を世に知らしめるには、かつての副将である私がそれを持つのが、最も相応しい宣伝となりましょう」


 ラヌムスの瞳には、クストへの劣等感と、英雄の象徴を奪い取らねば自分が立てないという、醜い渇望が剥き出しになっていた。


 だが、それを遮ったのは、玉座で頬杖をついていた父王ミルケ・ジオの、凍りつくような冷笑だった。


「……黙りなさい、卑しい男よ。我が娘がその知略で回収した戦利品を、どこの馬の骨とも知れぬ裏切り者が欲しがるとは。身の程をわきまえるがいい」


「なっ……!」


 ラヌムスが絶句する中、ミルケ・ジオは楽しそうにアリスを見やり、そしてその隣の「鉄仮面の騎士」を指差した。


「その(ノクス)は、我がアトラクト王家の所有物とする。……おい、番犬。お前が持て。主を失った無用の長物だ、これからはお前がアトラクトの道具として、その重さを噛み締めるがいい」


 王の命令に従い、鉄仮面の騎士が、ゆっくりと手を伸ばした。


 彼は自分の魂とも言える愛剣を、正体を隠したまま、自分を奴隷にした王の手から「支給品」として受け取らされる。

  カチリ、と籠手が剣の柄を握る音が、静まり返った広間に響く。


(……やめて、父様……!)


 アリスは、震えを隠すために扇を握りしめた。


 もしクストがここで耐えきれず、ラヌムスを斬り殺したり、仮面をかなぐり捨てたりすれば、自分の築いた全てが崩壊する。

 この光景は、父王からアリスへの無言の恫喝だった。


 ベベクロの細い目が、鉄仮面の男とアリスを交互に眺め、確信に満ちた笑みを浮かべる。ラノアは、かつての友の剣が「名もなき番犬」に渡された不条理に、深い違和感を抱きながら唇を噛んだ。


「……さて、事務的な話に戻ろう」


 父王ミルケ・ジオは、まるで子供に玩具を与えた後のような気軽さで、手元の書類に目を落とした。


「第十二条。賠償金を支払い終わるまで、アソセスの主要街道および港の使用権を、連合国代理人が管理する件だ。……軍師殿、これには我が娘も同意している。異論はないね?」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、アソセス外交団の中から一人の女性が鋭く立ち上がった。


 アソセス王の長女、エララである。

 クスト・レアと同い年の彼女の瞳には、亡国の悲劇を耐え抜いた者の知性と、欺瞞を見抜く強烈な光が宿っていた。


「お待ちください、ミルケ・ジオ陛下!」


 凛とした声が広間に響く。

 エララは、卓上に広げられた条約書を、まるで毒蛇を見るような目で見据えた。


「『主要街道および港の管理権』……。聞こえは良いですが、これは物流の首根っこを握るのと同義です。連合国のさじ加減一つで、アソセスに一粒の麦も届かなくさせることができる。これは平和の条約ではありません、武器を使わない『包囲戦』です!」


 アリスは息を呑んだ。


 エララの指摘は、アリスが懸念しつつも「物流の安定」という建前で飲み込もうとしていた、最悪のシナリオを正確に突いていた。


「エララ様、それは……」


 アリスが弁明しようと唇を開きかけた、その時だった。


「――『ノイズ』を。受理、ときた」


 ベベクロが、耳障りな笑い声を上げながら、アリスの言葉を遮った。


「エララ王女。貴女の懸念は実に情緒的ですが、この計算書を見ればわかる。アソセスの現在の債務を返済するには、連合国による効率的な物流管理こそが最短ルートだ。感情で帳簿の数字は動かせない。……処理を続けましょう、陛下」


「待ちなさい! 私は数字の話をしているのではありません。民の命を……!」


「黙りなさい、小娘」


 ミルケ・ジオの、底冷えするような一言がエララを射抜いた。

 王は書類から目を離さず、退屈そうに指を振る。


「管理権の譲渡は、連合国側の最低条件だ。不服があるなら、今ここで交渉を打ち切り、残された騎士共を一人残らず根切りにしても構わんが……どうするね?」


 エララは絶句し、悔しさに唇を血が滲むほど噛み締めた。


 彼女が助けを求めるようにアリスを見たが、アリスは、父王への絶対的な恐怖とベベクロの冷徹な論理の壁に阻まれ、ただ俯くしかなかった。


 アリスは、自身の内側から湧き上がる吐き気を、抑え込んだ。


 エララの聡明さが、かえってこの「嘘の平和」の残酷さを剥き出しにしていく。

 隣ではクストが辱められ、目の前では彼が命を懸けて守ったアソセスの「血」が、物流の支配という形で吸い上げられようとしている。


(ええ……。ベベクロ殿、貴方の言う通りだわ。「数字」こそがこの世界の唯一の真実。ならば、貴方が提示したその完璧な計算式の中に、見えない綻びを……『一滴の猛毒』を書き込んで差し上げる)


 アリスは、卓の下でジークシールドの手元へわずかに視線を送った。

それは、特命全権大使として、アソセス救済のための計画の、沈黙の合図であった。


「ええ……。受理、いたします」


 アリスは震える指でペンを握り、条約書の末尾に署名を刻んだ。


 カサリ、という紙とペンが擦れる音。それはエララにはアソセスの民の喉を裂く音に聞こえた。

 しかし、アリスにとっては、ベベクロの歯車を内側から狂わせるための、毒の滴る音であった。



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