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第一章 沈黙の凱旋

1.リリアン・シールド

 

 王都ケルテミスへの帰還は、夜明け前だった。

 城門を潜った瞬間、アリスは足を止めた。


「……お帰りなさい、姫様!」


 声より先に、小さな体がぶつかってきた。 リリアン・シールドだった。

 アリスは一瞬、硬直した。

 戦場の泥がまだ乾いていない。

  返り血の匂いが、外套に染み付いている。

  そんな自分に、この少女は躊躇なく飛び込んできた。


「……リリアン」


「無事でしたか、心配しました! ランダ様は何も教えてくれないし、ジーク師匠は連絡してくれないし……っ」


 早口で捲し立てながら、それでも腕の力を緩めない。

 アリスは、その温度に少しだけ目を細めた。


「……貴女こそ。影武者、上手くできた?」

「完璧でした! 誰にも気づかれませんでしたよ!」


 リリアンが顔を上げ、誇らしげに笑う。

  その頬に、薄い切り傷の跡があった。


 アリスの指先が、そこへ向かいかけて、止まる。


(……この子は、私の代わりに傷を負った)


「……ねえ、リリアン」

  「はい?」

「怖かった?」


 リリアンは少し考えてから、首を振った。


「怖かったです。でも」


 少女は、まっすぐにアリスを見た。


「姫様が戻ってきたから、もう怖くないです」


 その言葉の単純さに、アリスは何も言えなかった。

 嘘も計算も必要ない言葉。

  それが、この少女の全部だった。


「……そう」


 アリスは、ドレスが汚れることも構わず、 リリアンの頭にそっと手を置いた。


「よく頑張ったわ」


 その一言だけを言うのに、 こんなに時間がかかるとは思わなかった。


 少しだけ、そのままでいた。

  夜明けの冷たい空気の中で。

 やがてアリスは、静かに手を離した。


「……行くわよ、リリアン」


  「はい!」

 父王が待っている。

 嘘の続きが、待っている。


 アリスはドレスの裾を払い、 王宮の廊下へと歩き出した。

 その後ろを、リリアンが小走りでついてくる。


(……この温もりだけは、本物のままでいてほしい)


 そう思ったことを、誰にも言わない。

  言葉にした瞬間、壊れてしまいそうだから。


 2.沈黙の凱旋


 アトラクト王宮、陽光が皮肉なほど美しく差し込む私室。


 戦場の泥を落とし、豪奢なドレスに身を包んだアリスは、茶を啜る父王ミルケ・ジオの前に立っていた。


「やあアリス、特命全権大使。大役ご苦労様。素晴らしい活躍だったようだね」


 父王は顔を上げ、慈父のような微笑みを向ける。

 だがその瞳の奥には、氷の光が張り付いていた。


「しかし私は少し後悔している。……やはり君には、この役はまだ若すぎたかな?」


 背筋に冷たいものが走る。父はすべてを見透かしている。


「君は少し、嘘をつきすぎている。……アリス、君の付いた嘘はやがて王国を、いや大陸をより大きな混乱へと招く猛毒になる。……そう、クスト・レアのことだよ。死んだはずの男を『生かして』連れ帰るなど、我が国にとっては危険すぎる嘘だ」


 父王は立ち上がり、アリスの頬をなぞった。

 その指先は冷たい。


「全権はまだ預けておこう。だが、その嘘の代償は、君自身で支払わねばならない」


 アリスは震えを抑え、父を見返す。


「……なぜ私にこれほどの権限を? 失敗すれば、父上の椅子さえ危うくなるはずです」

 父王は一瞬目を丸くし、すぐに喉を鳴らして笑った。


「それはね、アリス。……娘ながらに、若い女の子が巨大な困難に立ち向かい、必死に右往左往する姿というものは、とても見応えがあっていいものだからだよ」


「……!」


 歪んだ娘の表情を眺め、王は満足げに頷く。


「冗談だよ。……君の才覚は、私を遥かに超える素晴らしいものだからね。だからこそ、その芽がどう育つか(あるいは摘み取られるか)を見ていたいのだ」


 王は懐中時計を閉じ、事務的な口調で告げた。


「さて、昼食の時間だ。……アリス、二刻(約四時間)後に、ジークシールドと例の『亡霊』を連れてここに来なさい。君たちが背負う嘘に、相応しい『枷』を用意しておこう」


 謁見の間を辞した廊下で、アリスはドレスの裾を握りしめ、低く吐き捨てた。

「……私は、父様が大嫌いだわ」


 その背後で、ジークシールドは黙して影を落とす。

 主の憎悪と屈辱を抱えたまま、その影は離れなかった。


第二部に突入しました。ここから本編となっていきます。

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