第五章 聖域の残照 魂の共犯者
1.エルマの少年
開戦八ヶ月目の冬。
『聖エルマの合意』が締結された、その当日である。
聖地エルマ。
母エルサが命を賭して捧げた「祈り」は、皮肉にもガレスとアソセス双方に撤兵の口実を与え、最悪の均衡のまま停戦の鐘を鳴らした。
神殿の冷たい石畳の上。
十二歳のアリスは、何も分からず震える五歳のシオンを抱きしめている。
母の骸はすでに政治的な「対価」として各国代表の合意文書と引き換えに運び去られ、そこには流れ落ちた血の跡だけが黒く乾いて残っていた。
だが、その血溜まりから少し離れた場所で、一人の少年が震えている。
ミーテラス女王ラザミアの弟の忘れ形見。
ミーテラス王国の王族血統に連なるその少年を、エルサは死の間際、こう願った。
「この子を、エルマに住まわせてください」
女王の最愛の身内がこの聖地に留まること。
それはガレスもアソセスも、そしてラインベルトも、誰もこの聖域を再び戦場にできないという無言の拘束であった。
こうして少年は、大陸の脆い均衡を縫い止める『平安の楔』となった。
「お姉様、お母様は……? あの子、一人で泣いているよ」
シオンの無垢な問いが、アリスの胸を抉る。神殿の外では、すでにガレス兵もアソセス兵も武器を下ろし始めていた。
「あのイカれた王妃のおかげで、やっと帰れるぞ!」
安堵と酒と笑い声。
母の命も、少年の孤独も、彼らにとってはただの「撤退命令の理由」に過ぎなかった。
2. 英雄の帰還と亡霊の誕生
その時、神殿の重厚な扉が、内側から軋みを上げて開いた。
流れ込んできたのは、凍てつく峡谷の空気と、濃密な鉄と血の匂いである。
エルン峡谷を死守し、最後の民間人の退避を確認してから単騎で戻ったアソセスの将軍、クスト・レア。
砕けた漆黒の甲冑。返り血で固まった外套。その姿は英雄というより、地獄を生き延びた亡霊そのものであった。
彼は祭壇の血痕と、そこに残されたアリスとシオンを見て、すべてを悟る。
「……王妃様が、自らの命を……」
民を救い、退路を守ったはずの自分。
だが最優先で守るべきだった「平和」は、別の形で差し出されていた。
クストの視線が、アリスと交差する。十二歳の少女の瞳に、涙はない。そこにあるのは、すべてを焼き払うほど冷たい世界への拒絶であった。
「……クスト・レア。貴方は戦い、お母様は祈った。その結果が、これよ」
アリスの声は静かで、鋭い。
「貴方が守ったのは平和じゃない。お母様の死体と、あの少年の孤独の上に建った、仮初めの城よ。ねえ、英雄様。これからもこの『死臭のする均衡』を、正義だと信じて剣を振るうの?」
クストは、崩れるように跪いた。
その背後には、王命によりアリスの影として配属されたばかりのジークシールドが、音もなく立っている。
信義の騎士。壊れた英雄。そして、祈りを捨てた王女。
神殿の空気は、すでに次の時代の匂いへと変わり始めていた。




