第四章 絶望の祭壇
エルン峡谷でのクスト・レアの奮戦が、かろうじて稼ぎ出した数日間。
その間に、大陸の命運を分かつ最終調停の場として、中立地「聖地エルマ」の白亜の神殿が選ばれた。
神殿の中央に据えられた祭壇を囲むのは、互いに血を流し合い、憎悪を煮詰めた将軍たち。
彼らの視線は、いかにして相手からより多くの領土を毟り取るかという、飢えた獣のそれであった。
「……均衡が保てん」
バスタレインに指揮権を奪われ、もはや発言権を失ったエルビードが、青ざめた顔で、掠れた声を漏らした。
アソセスを完全に滅ぼすにはガレスの被害が大きすぎ、ラインベルトの介入を許せば収穫が減る。
暴力の化身が突き進むこの「殺戮」を終わらせ、兵を退かせるための「決定的な大義名分」が、見つかっていなかった。
「私が、その理由(名分)になりましょう」
凛とした声が神殿の静寂を切り裂いた。
アトラクト王妃エルザが、ゆっくりと祭壇へ歩みを進める。
その白いドレスは、逃避行の汚れを帯びていたが、彼女が放つ「聖女」の気品は、その場にいた者たちを沈黙させるに十分だった。
「お母様……?」
十二歳のアリスは、母の震える指先を握りしめた。
背後には、何もわからず姉の服を掴んで震える五歳のシオンがいる。
「いいのよ、アリス。私が全ての罪を背負って消えれば、あの方たちも矛を収める理由ができる。それが私の『祈り』の答えなの」
慈しむようにアリスの頬を撫で、自ら祭壇の短剣へと手を伸ばした。
神殿の回廊で警護に就いていた十五歳の騎士見習い、クリス・エディンは、その光景を魂を揺さぶられる思いで見つめていた。
彼にとって、これは正義の極致だった。
一人の貴き女性が、大陸中の民の命を救うために、自らの命を捧げようとしている。
(……これこそが騎士道の真髄だ。なんて気高く、美しいんだろう)
クリスの瞳に映る世界は、まだ「正義」という名の輝きに満ちていた。
彼はこの日、騎士としての「信義」と「自己犠牲」に人生を捧げることを誓った。
彼には、祭壇の背後に潜む醜い利害関係など、露ほども見えていなかった。
だが、十二歳のアリスは違った。
泥に濡れた母の遺体の前で、アリスは涙を流さなかった。
ただ、震える弟シオンの手を、痛いほど強く握りしめた。
彼女は誓った。祈りは神の奇跡を起こさない。
母は祈りで私たちを捨てた。祈りは何も救わない。
私は絶対、母の様にはならない。
聖女が愛した白亜の神殿に、祈りの代わりに「鉄」の冷たい沈黙が満ちていく。
その日、一人の少女が死に、大陸を欺く「銀髪の毒」が産声を上げた。




