第三章 鋼鉄の簒奪
断歴990年、冬。
聖地エルマでの和平調停を数日後に控えた、ガレス軍本営。
外では、エルン峡谷を死守するクスト・レアの軍勢と、それを突破せんとするガレス先遣隊の激突が続いている。
本来なら、ここは怒号と命令が飛び交う戦時の中枢であるはずだった。
だが軍幕の内側には、異様なほどの静寂が沈殿していた。
ガレス軍総司令官エルビード将軍は、卓上のチェス盤を見つめていた。
駒はすでに中盤を過ぎ、どちらも決定打を欠く形。彼の指先は白の騎士を摘んだまま、動かない。
次の一手を読んでいるのではない。読めているからこそ、置けないのだ。
「……あと数日、様子を見よう」
低い声が幕内に落ちる。
「別幕に控えるエルサ王妃の説得次第では、外交的な解決も可能だ。彼女が和平の『盾』としてこの本営に留まっている以上、不用意に総攻撃は仕掛けられん。」
「強行すれば、彼女は間違いなく聖地エルマへ向かい、自ら刃に当たるだろう。そうなれば我々は“聖女を殺した国”として歴史に名を刻む。戦は勝てても、大陸を失う」
それは臆病さではない。計算だ。
だが決断は、未来の責任を引き受ける行為でもある。
彼はそこから目を逸らしていた。
背後には、副軍師ベベクロが銀貨を指で弾き、その回転を眺めていた。
視線はチェス盤ではなく、幕舎の入り口へ。
その瞬間、軍幕が勢いよく裂ける。
凍てつく外気と、鉄臭い血の匂いが流れ込み、返り血を浴びたバスタレインが入ってくる。
巨大なメイスが、何の前触れもなくチェス盤へ叩きつけられた。
盤は砕け、駒が跳ね、木片が散る。
エルビードが立ち上がる。
「無作法だぞ、バスタレイン!」
「無作法?」猛将は嗤った。
「将軍。外で何が起きているか、その腐った耳で聞いたか? クスト・レアという若造一人のせいで、我が軍の精鋭が千人単位で雪に埋もれている。奴が命を懸けて時間を稼いでいる間に、あんたは女の祈りに震えて『様子見』かよ」
バスタレインの咆哮に、エルビードの顔から血の気が引いた。
「バスタレイン! これは大陸の均衡をかけた外交なのだ。王妃の死は、我がガレスを……『人類の敵』にするのだぞ!」
「ケッ、『人類の敵』? 上等じゃねえか」
バスタレインは下劣に笑い、エルビードの首を、太い指で鷲掴みにした。
「あんたの言う『冷静沈着』は、ただの『臆病』だ。決断できねえ男に、鋼の軍勢を率いる資格はねえ。――ここからは、俺がこの戦を終わらせてやる。祈りも名誉も、まとめてこの鉄槌で叩き潰してな」
バスタレインはエルビードを無造作に地面へ投げ捨てると、机に置かれていた「司令官の杖」を奪い取った。
ガレス軍の指揮権が、事実上、知将から野獣へと簒奪された瞬間であった。
エルビードは後に、アソセス侵攻の停滞を理由に全責任を負わされ、表舞台から追放されることになる。
その光景を、幕舎の隅で、見ていた十二歳のアリスは、瞬きさえ忘れていた。
(お母様。見て……。決断できない知将よりも、ただ壊すことしか考えない野獣の方が、世界を動かすにはずっと『効率的』だわ……)
母の祈りは、結果として戦火を長引かせた。
対して、バスタレインの暴力は、あまりにも短時間で「停滞」を破壊した。
知略や倫理が「決断の鈍さ」に繋がるのであれば、それは弱さでしかない。
バスタレインが杖を掲げ、軍幕の外へ咆哮する。
平和への祈りが捧げられる聖地エルマの神殿へ、暴力の化身が、牙を剥いて突き進もうとしていた。




