第二章 エルン峡谷の黒き孤影
断歴990年、冬。
聖地エルマでの和平調停が空転を続ける裏側で、北方エルン峡谷は、「生」と「死」を分かつ凍てついた門と化していた。
ガレス軍はアソセス・ラインベルト連合の補給線を断ち、王族と民を捕縛することで戦局を決定づけようとしている。
その退路となる峡谷を抜けられねば、三千の避難民は雪原の中で潰える。
吹き荒れる雪嵐が視界を白く塗り潰す中、民と幼き王女たちを乗せた馬車が、隘路を這うように進んでいた。
後方からは、略奪と戦功を求めるガレス軍重装騎兵が、地鳴りとともに迫る。
「――全軍、そのまま進め! ここから先は、一歩も通さぬ!」
その咆哮は、極寒の空気を震わせる鉄の響きだった。
峡谷が最も狭まる「針の目」に踏みとどまったのは、アソセス最強の遊撃部隊を率いる若き長、クスト・レア。
当時二十歳。
名将ソードリックの薫陶を受けた、連合軍の切り札。
彼が纏うのは、鏡面のように磨き上げられた漆黒の重装甲冑。
降りしきる白雪の中で、その姿は世界に打ち込まれた「闇の楔」のように鋭く、不吉なほどに美しかった。
十五歳の騎士見習いクリス・エディンは、撤退列の最後尾で、その背中を見つめていた。
恐怖で膝が震え、逃げ出したい衝動に駆られている。
だが、千の軍勢を前に独りで剣を抜くその背は、絶望を押し返すほどの重みを持っていた。
「行け、ラノア! 貴卿は生きて、ラインベルトの『光』になれ。……アソセスの『影』は、俺一人で足りる!」
親友ラノアの叫びを背で断ち切り、クストは宝剣を一閃させる。
黒い手甲に握られた銀の刃が、雪明かりを裂いた。
押し寄せる騎兵に対し、クストは黒い旋風となって立ち向かう。
狭隘な地形を極限まで利用し、一騎ずつ確実に屠る。
それは激情ではない。
冷静で、精密で、迷いのない戦いだった。
だがその冷静さこそが、彼が退路を断っている証でもあった。
クリスの瞳に映るクストは、もはや人ではない。
(……あれこそが『騎士』だ)
命を賭して守る誇り。
揺るがぬ信義。
十五歳の少年の胸に、聖なる憧憬が深く刻まれた。
祈りが届かず、言葉も通じない極限の地で、ただ一人の男が「誓い」を貫いている。
この気高き影に追いつきたい。
それが、当時のクリスのすべてだった。
その光景を、馬車の窓から静かに見つめる少女がいた。
十二歳のアリス。
その隣には、斥候を沈めたジークシールドが、無言で控えている。
(……なんて、効率の悪い戦い方)
彼女の胸に去来したのは、感動ではなく計算だった。
クストは時間を稼いでいる。
だが彼の命もまた、削られている。
彼が倒れれば、彼は「英雄」と呼ばれるだろう。
だがその称号は、戦争を終わらせはしない。
むしろ――
(貴方が死ねば、皆は安心する)
「英雄は死んだ。だから仕方がない」と。
犠牲は物語になり、悲劇は消費され、戦争は続く。
アリスの視界には、母エルサの祈りも、クストの奮戦も、同じ構図に映っていた。
どちらも尊い。 どちらも美しい。
そして、どちらも――世界を変えない。
ジークが低く呟く。
「……一人で死ぬ正義に、どれほどの戦略価値がある」
その言葉は冷たいが、正確だった。
クストの剣は敵を斬る。
だが同時に、自らを削り、世界に“代償”を提示している。
アリスの中で、ひとつの結論が形を持つ。
正義とは、犠牲を前提にした非効率な選択肢に過ぎない。
祈りも、騎士道も。それらは誰かの命を薪にして燃える、一時の灯火だ。
激闘の末。
クストの体躯がついに揺らぎ、雪原へと膝をつく。
黒き甲冑が白に沈む。
ガレス騎兵の歓声が風に裂ける。
誰もが、英雄の死を確信した。
だが。
馬車の中で、十二歳の少女だけが、目を逸らさなかった。
(死なせない)それは祈りではない。
決意だった。
12歳にしては異常なほど成熟したヒロインですが、大陸で最も高貴な血を引くひとということでご理解お願いします。




