第一章 白き巡礼と停滞の将
五年前…断歴990年。
大陸は、アソセスの有力貴族の反乱をきっかけに、
かつてないほどの「鉄の臭い」に包まれていた。
アソセス王国の国境沿いは、アソセス・ラインベルト軍と、ガレス軍が激突する巨大な火炉と化していた。
その血の雨が降る泥濘の中を、
場違いな白き一団が進んでいた。
アトラクト王妃エルサ。彼女は、12歳の娘アリスと、5歳の幼い息子シオンの手を引き、戦場を歩いていた。
「聖女」と呼ばれた彼女の巡礼は、兵士たちに一瞬の静寂を強いる、唯一の奇跡であった。
「お姉様、あのおじさん、どうして寝ているの?」
5歳のシオンが、無邪気にアリスの指を握りしめる。
彼の視線の先には、腹部を裂かれた兵士が転がっていた。
「……シオン、前を見て。お母様の背中だけを見ていなさい」
アリスは、震える弟の肩を抱き寄せ、まっすぐ前を見据えた。
彼女のドレスの裾はすでに泥で汚れ、重くなっている。
その傍らには、若き護衛兵ジークシールドが、音もなく付き従っていた。
母エルサは、倒れ伏す兵士たち一人一人に跪き、血に汚れた手に自らの白い掌を重ねて「祈り」を捧げていた。
「いいのよ、アリス。この泥は、彼らが流した涙と同じ色なの。祈りが届けば、いつかこの大地も白く洗い流されるわ」
母の微笑みは、美しい。だが、アリスの瞳には別の光景が映っていた。
母が目を閉じ、敬虔に祈りを捧げているその隙に。
背後の物陰で、アソセス軍の布陣を指差し、舌なめずりをしながら情報を書き留めていたガレスの斥候たちがアリスたちに目を向ける。
獲物として値踏みをし始めた。
母が「赦し」を説いている間、彼らは次の殺戮のために、より鋭い刃を研ぎ直しているのだ。
(お母様。貴女が目を閉じている間に、世界はもっと汚れていくわ……)
その瞬間だった。
隣にいたジークシールドが影のように動いた。
彼は抜刀さえしない。
翻した外套の影からナイフが閃き、次の瞬間には、茂みの陰で斥候たちが喉を潰され、声もなく崩れ落ちていた。
返り血は一滴も浴びていない。
ジークは何事もなかったかのようにアリスの隣へ戻り、ナイフを収める。
聖女の祈りは続いている。
彼女は気づかない。
(ああ、お母様。貴女の「白」は美しい。でも私たちを救ったのは、ジークの「黒」だわ)
祈りは野獣に休息を与える。
だが、脅威を排除するのは無機質な鉄だけだ。
この瞬間、アリスの内に、「銀髪の毒」の萌芽が生まれた。
巡礼の一団は、ガレス軍の司令官、エルビード将軍の本営へと招かれた。
エルビードは当時、大陸随一の「冷静沈着な知将」として知られていた。
だが、12歳のアリスが見た彼は、机上のチェス駒を触り続けるばかりで、一度もエルサと目を合わせようとしない男だった。
「エルサ王妃……。貴女の祈りは、我が軍の進軍を三日も遅らせた。これは平和への貢献か、それとも敵への利敵行為か。私はまだ、結論を出しかねている」
その言葉は、決断を先送りにする臆病さが滲んでいた。
彼は知将であるがゆえに、「最善」を求めすぎて「実行」を失っていた。
「将軍、私はただ、子供たちが怯えずに済む朝を求めているだけです。これ以上の死は、誰の勝利にもなりません」
エルサは静かに、ガレス軍の喉元に「慈愛」という名の毒を突きつけた。
「連合軍は未だ再編中。ここで攻めれば勝てる。だが、損耗は大きい」
エルビードは迷っていた。
「……あちらを立てれば、こちらが立たぬ。」
彼は一瞬、沈黙する。
「……あと数日、様子を見よう」
彼のその「賢明な迷い」こそが、戦死者を倍増させている事実に、彼は気づいていない。
アリスは、確信していた。
祈りは、平和を連れてくるのではない。祈りは決断を鈍らせる。
(ああ、お母様。貴女が白ければ白いほど、この人たちの影は濃くなっていくのね)
その数日後。
エルビードの停滞を見抜いたアソセス・ラインベルト連合軍が、局地的反攻を開始する。
最前線、吹雪のエルン峡谷。
そこに、十五歳の見習い騎士クリスが「正義の神」と崇めることになる、漆黒の英雄が立っていた。
そして戦火は、さらに深く、大陸を呑み込んでいく。




