第四章 傷だらけの均衡 Ⅱ
2. 欺瞞の天幕
天幕の入り口が荒々しく跳ね除けられ、銀の甲冑を纏ったラノアが、数人の騎士を連れて踏み込んできた。
「何事だ、ベベクロ殿! 」
ラノアの言葉が止まる。
視界に飛び込んできたのは、絨毯にぶちまけられた毒ワイン。
そして、ベベクロの直属兵たちの死体の山を背に、涼しい顔で座るアリスとベベクロの喉元に刃を突き立てているジークシールドだった。
「ラノア卿、ちょうど良いところに」
アリスが、少し怯えたような声を出す。
「……ベベクロ様が、私に毒を。アトラクトがアソセスと通じているという、根も葉もない疑いをかけて、私をここで『始末』しようとなさったのです」
「……何だと?」
騎士道に悖る「毒」や「暗殺」。
ラノアの視線が、ベベクロを射抜く。
「……っ、違う、ラノア卿! 私は連合軍の裏切りを未然に防ごうとしただけで――」
ベベクロが必死に叫ぶが、ジークシールドの刃がわずかに喉に食い込み、その声を遮る。
その時、天幕の外から切迫した伝令の声が響いた。
「ガレス本国より緊急報告! 北部守備隊、連絡断絶! 正体不明の黒い騎馬部隊が、北部国境沿いの穀倉地帯を襲撃! 」
天幕内が、凍りついた。
ベベクロの顔から血の気が失せる。
クストが生きている。そして今この瞬間、ガレスの喉元を食い破っている。
「……ふ、ふふ。あはははは!」
喉元に刃を突きつけられながら、ベベクロは突如として笑い声を上げた。
「アリス姫……。貴女はクストという『亡霊』を野に放ち、我がガレスを内側から崩した。湿地で貴女が言い放った『クストは自ら沼の底へ沈んだ』という言葉……。あれは真っ赤な嘘だったわけだ!」
ベベクロは、刃を恐れず一歩、アリスの方へ身を乗り出した。
「今ここでその真実を叫べば、アトラクトの国際的信用は地に墜ちるぞ!」
「……それがどうしたのですか、ベベクロ様」
アリスはジークシールドに刃を引かせ、優雅に扇を広げた。
「私が報告した通り、クスト・レアはあの日、確かに死んだのです。今、貴方の国を焼いているのは、名前も正体もない『ただの暴徒』に過ぎません。……違いますか?」
3. 傷だらけの均衡 亡霊の勝利
ベベクロの顔から余裕が消えた。アリスは言葉を重ねる。
「ベベクロ様、選択肢は二つ。私の嘘に署名して『賢者』として帰るか、それともここで女王の姪への暗殺未遂犯として、ガレスもろとも灰になるか。貴方の算盤が、そんな簡単な答えを見間違えるはずがありませんわね?」
「私に……あの『嘘』を真実だと認めろと言うのか」
「クストは沼に沈んで死んだ。現在ガレスで起きている混乱は、クストとは無関係の野盗によるもの。……このシナリオに署名し、今すぐ撤退なさい。それが、貴方の命とガレスの威信を守る唯一の道です」
ラノアが割って入ろうとするが、アリスはそれを鋭い視線で制した。
「ラノア卿。ここで真実を暴けば、ガレスはメンツのために自爆し、大陸は再び泥沼の戦火に包まれます。数百万の民を犠牲にすることが、貴方の望む正義ですか?」
天幕を支配したのは、逃げ場のない沈黙だった。
やがて、ベベクロは忌々しげに、しかし力なく吐き捨てた。
「……クスト・レアは、あの日、沼に沈んで死んだ。……これ以上の捜索は、不要だ」
ベベクロは最後にこう付け足した。
「……貴女の作った平和は、薄氷の上にある。『亡霊』が生きているのならば、憎しみの種は消えない。……次にこの氷が割れる時、アソセスという国は、地図から完全に消え去ることになるぞ」
カレル平原を覆った巨大な戦火は、アリスという少女が吐いた「巨大な嘘」によって、不自然なほどの静寂とともに幕を閉じた。
連合軍の主力たちが去り、湿地には再びアリスと、影から戻ったジークシールドだけが残された。
アリスは膝の震えを抑えるように、深く息を吐いた。
「……行ったわね。クストに伝えて。深追いせず、霧が晴れる前に完全に姿を消せと」
声は、驚くほど澄んでいた。
「……彼らは今日から、本当にこの世にいない 『死神』 になるのよ」
「……姫様。ベベクロは、既に次の一年後、十年後を計算しているでしょう。第二次戦争は、避けられぬ運命となります」
「分かっているわ、ジーク。……でも、その運命さえも、私の盤面の一部にして見せるわよ」
カレル平原に、アリスの嘘が静かに広がっていた。
夜明けは冷たく、騎士道は泥に沈んだ。
……馬車の中、ベベクロは密かにほくそ笑む。
「彼女は未熟で素晴らしい…。これで筋書き通りの流れになった…」
第一部:銀髪の毒と黒い英雄 完
これで第一部は終了となります。この後、第二部前幕、第二部へと続きます。
正直初めての作品で四苦八苦していますがなんとか毎日投稿を続けています。
第一部と第二部前幕は起承転結の「起」の部分なのでまだまだ先は長いですが、
ぜひお付き合いのほどよろしくお願いします。




