序章-Ep.3 忍び寄る聲
────最初。
私が耳を澄まして最初に感じ取ったのは、静寂だった。
いや、『静寂』とは言っても、今現在の状況が完全な無音というワケではない。
草の擦れる音は勿論のこと──宙を舞う風の音、小さな鳥が囀る音。そんな簡単に言い表せる複数の音色くらいなら、軽く耳を澄ましてみれば容易く聞き取れる。
が、私の聴きたい音色。私の考える『自然の聲』というのは、そんな生半可なものと一括りにはできない。
思うに、自然の聲というのは……耳にそれが響いた時、次の瞬間にして様々な情報が伝えられるというもの。
言うなれば、それは『情報という名の甘味が詰まった果実』だ。
舌に絡みついてしまう、とある味覚が脳を刺激する様に……それを経て、黒から白までの不快感と幸福感という感情が浮かんでくる様に……
環境が聲として乗せて、そして加えられてきた情報が、私の中を満たさんとする感覚を。私にとってのこの果実は、そうして連続して妄想と欲望を味わわせてくれるモノで、己の空想の産物とも言えそうでありながら大切な概念だった。
「あー……気持ちいいな、風……」
不意にそんな事を放つ私は、その時にはノイズが混じったような音すらも鮮明な音色に変換して、聲を聴き取れる様になってきていた。
周囲から鳴り響く涼やかな音。左右の鼓膜を微かに揺らすのは……
海を、山を、河を、丘を。きっと近くない筈のそれらを越えてきて、やがて混合されたであろう豊潤な風の旋律。
旋律は何処の彼方より、風として香りを運んで来ているのか……花が出す芳しき彩りが、私の鼻腔を柔らかく刺激している。
『ああ、なんて素晴らしき夢見心地なのだろうか』
遍く世界の果てから果てまで渡る一類の聲を感じ取り、私が不意にも放った言葉には───そんな感情が込められていた。
「───」
次いで、私はロマンチックな雰囲気か何かでも感じ取ったのだろうか。感慨深さを見受けられる唸りが、喉の奥から這い出てくる。
今の時代、都市化が進む街中では知り得る機会がとても少なかったであろう、この天然の美術展。
外に出ることが少なくなっていたのもあるが……こういった人の手の入っていない環境に入る経験は殆ど無かったので、どこか新鮮な感覚が神経を巡っている。
「意外だったなぁ……世界ってこんなに鮮やかだったんだ───」
そういえば、私が今まで見てきた自然って、殆どがスマホを通して見た偽物の光景だった気がするな……
転移した直後からこんなものをずっと見てて、今に至るまで特になんとも思わなかったけど……まあ今だからこそ言える。まず、これは4K・8Kだかの解像度した画質でも再現できない。
彩度のスライダーを極限まで右に振り切った感じの画面ですら、こっちの方と比べれば、めちゃくちゃ安っぽく見える。
「うーん、やっぱり音の影響が大きいのかな……なんか臨場感がヤバいから、見え方も大分変わったかも」
「ほんと。引きこもりの影響ってば凄まじいや……」
苦笑しながらそんな言葉を呟くと、私はやれやれといった面持ちで目を瞑る……そして、私は更なる聲を求めて意識を再び集中させた。
────斯くして。次に私の耳へ届いたのは、風と同じように鮮明化された草の騒めきだった。
太陽光とそよ風を受けて、幾度にも幾重にも折り重なり──光とその波紋を広げる翡翠色の広大な草原。そこから響く騒めきは、次第に意志を持った囁きの様にさえ聞こえてくる。
ただ揺れて、葉と葉を擦れさせるだけの緑。大地一面を覆い尽くさんとばかりに埋め尽くしているのは、そこに在るだけの生命群が発する無垢な喧騒。
一見すれば、これは見事なまでの調和としか感じる事しかできないだろうし、正しくは──風光明媚という言葉に尽きる、とも言えるだろう。
「今度は草、か…… いいね、これはこれで心が浄化されていく感じがする……!」
それに対するは、言外に『自分の心は穢れている』という意味合いにも取れる発言をしている私である。いや、実際そうなのかもしれないのだが。
なんというか、洗剤がぶち撒けられた川に浸されてる布切れの気分だ…… 心が汚れているのだから洗剤じゃなくて『精神漂白剤』を使われている、墨汁塗れのボロ雑巾とでも言った方が、理解が容易くていいかもしれない。
「────ボロ雑巾とかなんか、言ってて悲しくなってきたな……」
年中無休でネットの深淵を覗き込んで『他人の不幸は蜜の味』と言わんばかりに、某掲示板サイトのスレを回遊しまくる私だったが…… 昼夜逆転の果てに、自堕落極まりない生活を送る私だったが……
そんな自他共に認める一端のクズな人間のメンタルでも、こういう比喩は普通に悲しくなる。思い返してみても、本当に哀れでならない。
自分で言うと少し痛くてなんだけども、私みたいに割と年頃な女の子がボロ雑巾とか揶揄されていたらどう思うか。本人の乙女心はズタボロだ。
「まあけど、これを何とか耐えれる私は十分凄い……」
「それイコール私には乙女心なんてものは無いとか言えそうだけども、とにかく私は凄い……」
……………まあ誰も聞いていないんだけどね。
聞いているとしても、それは草、土、風、変な虫…… 人ですらなく、なんなら生物ですらないヤツすらも混じっている。
自己肯定を聞いてくれる人が居ないなんて、なんというか虚しいにも程があるじゃないか。
ちなみに、あと一回くらい自己肯定を加えれば、この数分の間でそれは三回目になる。ついでに、三回くらい『ワタシスゴイ』とか言ってれば、いずれ本当に私は凄くなるのでは?という願望すらもある。
「──。ワンチャンこのまま寝転んでいたら、そのうち親切なお姫様とか勇者様とかが話しかけて来たりしない、かなぁ……?」
更にそんな願望を芽生えさせても、そのどれかが叶ってしまう程に現実は甘くないというのは、転移から数時間で痛感している。
仮にそんなお膳立てされた様な展開が実現したとして、きっと私は今頃、こんなところで壮大な自然に打ちひしがれる異邦人の端役なんてものをやってはいないだろう。
「はぁ……やっぱり自分から行動とかしてみないと、地形ぶっ壊しチートやらの圧倒的な力とかは備わったりしないんだろうな」
やはりそういうのは、何もせずに結果を待ち続ける、雛鳥の様な私に訪れる筈は無いのだろう。
『何もせずにチートを配布されちゃいました』なんて、そんなのは無理があるだろう。努力をしない人間に幸は来ないとはよく言ったものだが、
それについては「仕方が無い」としか反論する他あるまい。これを免罪符にするのは卑怯かもしれないけど、人間というのは楽をしたい生き物なのだから。
「とは言っても、極論言えばどんな人間であれ、皆何らかの努力をして何かを手に入れてるし……」
力・運・人、私が欲しがっているこの三つのどれか一つでも手に入る可能性があるのなら、全力で欲しがってやろうか。
大前提として、マジで努力しなければ意味ないけども。
「って、そろそろ打ち切らなきゃヤバいな……私の妄想癖は、己であっても侮ってはならないのに……!」
格好付け気味にそんな言葉を呟くと、私は突然始まった自分の哲学思考に対して苦言を呈す。
時折、何故格好を付けたくなるのか自分でもその行動原理は曖昧になるが、今は気にするべきではない。
「んっんー、やっぱり主人公は自分から行動してこそ……!」
私は、まるで頭でも柔らかくするかのように、再び四肢を伸ばして気持ちを切り替える。
「よし。あと少し休憩したらまた歩こう。次はなんとか元気出してファイトだ!」
空を見据え、私はそんな決意を呟く。
ここに来てようやく拳を固めた私はその時、天を見ていながらも、天を見ていなかった。己の目指すものとする幸せな未来の光景を目の奥に浮かべ、それだけをただただ見据えていたのだ。
「───ん……?」
ふとして、違和感を感じた。
違和感……いや、違う。これは不快感だ。
そしてそれは躙り寄る様に、ゆっくりと少しずつ強くなってきている。強く、強く、強く……先程まで弱かった筈の不快感は、いつの間にか意識を集中しなくても知覚できるようになっていた。
頭に強く響く地震の様な、腹を内部から槍が穿つ様な、五感を殴打されてヒビが入る様な……なんとも言えず、そんな名状しがたくも淡い不快感が、私の五感を突き刺す。
「なん、か……変な感じが……」
その中で、突然の不快感に小さく顔を歪めていた私は、十数秒程度の時間を要して、これがどこから来ている感覚であるのかを理解する。
「───なんか鼻ヤバ………」
鼻だ。
いかにもな雰囲気を思わせる声色で悶えて、私は鼻腔を抑える。次に、そんな緊張感を粉砕する言葉を零しながら上体を起こした。
『やっとイベント発生か……』とでも言いたいところだが、今はそんな事を言っている場合ではないだろう。
不快感が鼻からの感覚であると確信した時、一瞬だけ加齢臭百倍君の臭いが頭を過ぎり、結果『え、なんか臭っ……』なんて言葉が喉から出かかった。が、アレとこれとは比べてみても、まるで比較対象にすらならない。
あの臭いは物理的な。この臭いは精神的な。直感ではあるものの、それについて不気味に思いながら、私はこんな明確な違いを理解した。
それはそれとして、この匂いは物理的なモノとして置き換えてみても、特別鼻が曲がりそうな程に酷い臭気というワケではない。だが、精神的な臭いと言えども、そもそもの話としてそれは、私が存在すら知らなかった未知の感覚。
正しくもこの謎の臭いは異常事態と称する他にあらず、私は、未知の感覚故の恐怖を心の隅で見かけた。
しかしそれとは別に、物理的な臭いではないが故による、これが毒ガスなんてものでは無いという安心感も混在していた。だが、
「───や、ばぃ……なにこれ……」
強くなる一方の臭気に、そんな一時の混在する安心感は、完全に黒く塗り潰されるだけであった。
未知の感覚が強烈な不快感へと変化していくサマに、悪寒が身体全体を駆け巡るのを感じる。私の目に映る美しかった筈の世界の空気はいつの間にか歪んでおり、気付けば、私の身体では得体の知れない何かが暴れ回っていた。
痛みの無い痛み。矛盾した感覚が私を蝕んでいる。
矛盾という不鮮明な獣が神経を貪り喰らう苦痛が身体を巡る度、私はひたすらに悶え苦しむしかなかった。
一体、先程まで芳しく思えた筈の、あの香りは何処に行ったのだろうか……。この突如として現れた忌まわしき混ざりモノへの落差は、妄想力に定評のある私でさえも全く予想できない。
「っはぁ、ァ、あ……」
淀んだ空気に、苦痛からの喘ぎ声が反響する。
「だれ、か……助けて───」
そんな助けを求める声が広がっても、それに応える音は何も無い。
それもそう。ここは私以外誰もいない様な空間なのだ。ここに存在する生命なんて、殆どが、まともな会話もできない無垢の意識を持つ存在のみである。
「助けて。誰か……誰か、だれか、ぁ───」
それでも、それでも尚、私は空虚に浮かぶ可能性に手を伸ばし、涙ながらに助けを求めた。だが、それに応える声は何も無かった。
返ってくるのは……無感情、無慈悲な反響だけである。
────そんな時、ふとして目の前に……そこに二人の人影が現れていた。
「ぇ……」
いきなりだ。いきなり現れた。
ただ涙を流して瞼を閉じ、そして開いた時には、もう既にそこに居た。何の前触れも無く。
素っ頓狂な声を上げた私は、助けを求めようとするも、不思議と声が詰まってしまう。
突然の出来事で頭が混乱しているのだろうか? それ以外この事態についての見当もつかなかった私は、ただその光景を眺める事しかできなかった。
涙か何かによるものだろう。まるでモザイクでもかかったかのように、その二つの姿はボヤけていて分からない。
だが、背格好と姿勢、そして辛うじて見える表情のみの三つだけは確認できた。
一番近くに見え、地に膝を付けて座っている人影は、私とそこまで変わらないかといった具合の身長だ。呆然とした様子に見え、その視線は、私より大きな背格好の一人にのみ向いていた。
その呆然とした様子の人影の目の前に立っているのは、先程の通りに私よりも身長が高い人だった。その人影は目の前の一人に手を差し伸べている様に見え、見えないながらもその顔は穏やかに見えた。
苦痛を忘れながら、私はその様子を暫く眺めていたが……ふとして、その二人に声をかけようと思い至り、喉を鳴らす。
「ぁ………あの───」
か細い声を小さく響かせた私は、言葉に対する反応を待った。
────しかし、待てども待てども声は何一つ返ってこず、視線も、こちらに向けられる素振りすら無かった。
「………あの、すいません……」
「───あの……!」
三度も声をかけても、反応は無かった。
私にとって、それは苦痛で仕方なかった。
今も鼻から私の身体を蝕んでいるこの矛盾の苦しみなんて、この苦痛と比べてとても小さく思えた。
目の前に居る筈の人に私を見てほしいのに、私を見てくれないこのもどかしさは……鋭利な刃物として、私の心を何度も突き刺した。
「───無視、しないでよ……」
「─────無視しないでよ……!」
怒り、悲しみ、妬み、苦しみ混じりに言葉を吐く。
心を刺される度、私の魂の底から慟哭する叫び声が鳴り響いた。
一刺しで殺意に満ちて、一刺しで百の苦痛に満ちて、一刺しで怨念に満ちて。何度も、何度も、何度も刺される度に、ありとあらゆる感情が渦巻きながら私を支配して、そして変化していく。
そして、ズタボロになった心への一刺しで最後に残ったのは、孤独だった。まるで、用済みとなって捨てられた玩具の様に。
「なんで、私を見てくれないの……」
そんな言葉を零し、私は下を俯く。
「…………どうして皆、皆────!」
純粋な怒りで重く言葉を吐きつつ、前方へと視線を戻した時には……二人が既に遠くで、私に背を向けて歩いていた。
『見捨てられた』
私は、その二つのボヤけた背中を見て、そう一つだけ思った。
「────は………? ちょ、ねえ、待って!!」
焦燥感に支配されながらも大声を響かせ、私は二人を追いかけようとして必死に駆け出した。
「待って……! 待ってってば!」
幾度も転びながらも足を進め、体勢を崩しながら足を進め、私は置いていかれたくないという一心で、ただひたすらに二人を追いかける。
進んでも進んでも、まだ遠い場所に居るように思える。私の進む速さが、とても遅く思える。確実に近付いている筈なのに、まだ遠く思える。
とうとう真後ろまで行けるかどうかという距離まで来れた私は、その一人の背中に手を伸ばす。
『届いた』と。そう思った時、私の手が肩に触れていた筈だった。
「ぇ」
肩に触れ、手からその感覚が伝わってくる筈だったのに、私の手は空虚を掴んだ。驚愕して目を見開いて見れば、そこに居た筈の二人は、何も無かったかのように霧散していた。
私は勢いのままに前方へと転倒し、微かに呻き声を上げるが、痛みは全く感じなかった。
それよりも、視界に映っていた二人が消滅したのが衝撃だったのだ。
「なんで……今、私は触った筈なのに……」
「っは、ぁ…… なんで、なんで……っ?!」




