第4話 悪魔は深紅を帯びていつも傍に
信用システム
共栄都市を形作る三大システムの1つ。人間の評価を点数化する。
資本力、道徳心、肉体スペック。
あらゆる参照データに基づき、人間は命の価値を決定付けられる。
基本的には、点数の高い者が中心街へ、低い者が外縁付近の歓楽街へ。
点数順に、居住区域やサービスの質が変動する仕組みとなっている。
システムという首輪があればこそ、人類は初めて、欲望を制御することができたのだ。
「う、嘘です……!理人くんが、こ、こんな……!!」
酷く震えた冷声が、暗雲に揺れる海波のように激しく取り乱していた。
際限なく見開いた青白い瞳が映すのは──血濡れのベッドを倒れた、漆黒のローブだ。
その左胸には大きな風穴が開いていて、心電図の音は、もう聞こえなかった。
「……理人くんっ!返事を!!」
朽ちた室内の外を木霊する爆音を背景に、無色透明の雫が空気を飛散する。
主人の最期へ縋り付くメイドは、しかし、千手観音みたいに縺れ合う複数の腕に絡め取られた。
「じゃ……邪魔をしないでくださいっ!!」
死臭の漂うベッドへと藻掻く真っ白な腕。
胸部に膨らむメイド服のボタンが弾け飛ぶ。
壁面にもたれた女医は乾燥した指先に葉巻を掴んで、とっぷりと、紫煙の香りを吐き鳴らした。
「君が連れて来た時には、眠り姫くんの心臓は半分抉れていたからね。こうなるのも当然だよ」
「……分かって、います!だから、せめて最後くらい──!!」
もはや金切り声に近しい叫びが響こうとして──とそこに、ニヤリと、葉巻を口の端に咥えた白衣の女は、冷や汗を伝う口元を歪めた。
「──最後にはならないよ。上の決議が済んだ。眠り姫くんはまだ私たちに必要だし、脳の方も微かに息をしている」
「ッ……!!」
ビタリと、衝撃を止む銀色の長髪。
銀髪の奥に隠れた青白い瞳は、絶望とも希望ともつかぬ色に惑う。
「……リリーさん。それは、」
「──みんな。義体と義臓の準備を頼むよ」
「「はっ!!」」
掛け声と共に、看護師たちはテキパキと動き出した。
一体、どれだけの時間が流れただろうか。
瞼はうっすらと開き、目元を暗く澱ませた銀髪を浮かべた。
「……! 理人くんっ!!気が付きましたかっ!?」
翡翠の両目は、何も映さない。答えない。
ただ、幽霊みたいに弱々しく起き上がる。硬いベッドに顔を伏せて、胸に垂れたペリドットのペンダントを握り締める。
「……ぁ……るな……」
桜色の唇が吐き出す失われた呪文に、日は昇っては沈むことを繰り返して、
「理人、くん……?」
「……これは不味いね、アーシュリットちゃん」
病室に取り残された3つの人影は、夕焼けの路地裏みたいに、それぞれの迷い道へ潜り込んだ。
暗い水底に溺れた華奢な手が、空気の泡を求めて天井へと伸びていた。
「……はぁ……はぁ……ッ!!」
川に流されたみたいに乱れ狂った呼吸が、口先から溢れ出す。
目覚めた先は夜間で、月光だけが部屋を仄かに照らしていた。
「なん、だ……今のは……!」
初夏の生温かい夜にぐっしょりと湿った身体をベッドから起こし、痛む頭を、はらりと抑える。
既に夢の輪郭は、遠い記憶のように覚束ない。
ただ、レイと白衣の女がそこに居て……俺は──
「死ん、で……?」
ぞくりと、背筋が凍える。
ぶち当たる思考の崖先には、一寸先も見えぬ闇が広がっていた。
あり得ない。
全身義体は、あくまでも延命に過ぎぬ処置だ。
一度死んだ生命を復活させるなど──それは、神々の領域だ。
詰まるところ、恐ろしいほどのリアリティに満ちたあの一幕は、
「……夢、か……」
花畑に背中から倒れ込んだみたいに、呼吸がほっと静まる。
断言できる。
俺には、IDSシステム以外で死にかけた記憶などないのだから。
それにそもそも、俺はIDSシステムによって3年後に目覚めたわけで──
──思えば、『その間』はどうしていた?
「……ッ!?」
そんなの決まっている。
ぐっと詰まった喉に生唾を吞み込む。
俺はこの3年、白雪姫として眠ったままだったのだ。
しかし──A006。太った男は俺を知った風な口ぶりで呼んだ。
昨日に俺を襲った不良青年もそうだ。もっと言えば、彼らと知り合いと思しきレイも。首に提げたペンダントのことだって。
「俺は……何かを忘れている……?」
呪いの古代遺跡に刻まれた文字を解読してしまったような感覚に、身体はそっと、深夜の街へと招かれた。
考えるな。
頭の片隅は自然と警笛を鳴らしている。
頬に触れる金糸の触覚を揺らして、俺は憑りつかれた夢の光景を振り払う。
やがて、足裏に砂利が擦れた。
顔を上げれば、真夜中を静まり返った公園が映る。
惑う身体は習慣に従って、軽いシャドーボクシングに平静を保とうとする。
ジャブ、ストレート、フック……回し蹴り……
「回し蹴りッ!?!?」
流星のごとく夜闇を切り裂く華麗なる蹴撃に、俺は片脚を持ち上げたまま、ピタリと固まった。
一筋の冷や汗が、うなじから首を伝う。
俺はボクシング専門だ。総合格闘技には手を出してない。
だのに、この強烈な足技は──
「……試してみる、か」
誰に言うでもなく、ポツリと零れ落ちる一言。
心の赴くがままに、闘争へと身をゆだねる。
足技どころか、あらゆる殴打が研磨された包丁のように鋭さを帯びている。
それはまるで、3年間寝たきりだったとは思えない絶技だ。
桜色の唇から洩れ出す呼気が、思わず高揚を荒ぶる。
が──これの意味するところは、やはり空白の3年の間に何かが。
底知らずの疑問は今度こそ両足を絡みついて、
「こんばんは、おにーさん!」
深紅の瞳が、夜闇を浮かび上がった。
深夜に似合わぬ無邪気な声が、やまびこみたいに真夜の住宅地を響き渡る。
「……?」
目を向ければ、背丈の低い童女が、黄色いエプロンドレスに後ろ手を組んでいた。
「うん。おにーさんだよ!」
少女は汚れを知らぬ赤子のように、こくりと、首を縦に大きく振る。
明るい茶髪のツインテールを結ぶ青いシュシュが、闇中を踊り出した。
「浮かない顔して、どうかしたの?」
俺は努めて頬を引き攣らせて、見ていると何故だか不安を帯びる深紅の瞳へ返した。
「……君の方こそ、こんな夜更けに外を出歩いちゃ──」
「っていうか、おにーさん見ない顔だね!もしかして、最近引っ越して来てたりする?」
少女らしい強引な物言い。
おもちゃの宝石が付いた靴が細い影を踏む。
山中で遭遇した熊から距離を取るみたく、俺は無意識のうちに一歩後ろへ公園の砂利を鳴らした。
「あ、あぁ。そうだよ。つい1週間ほど前にね」
「そうなんだ!前はどこ住まいだったの?」
「前は……同じ第一区画だよ。実家があるんだけど、そこから」
「ふーん」
ジロリと、金糸の長髪を見定める深紅の瞳。
やがて──フリルに装飾した小さな肩が、初夏の湿気を落ち込む。
「他の区画から来てたら、あの事件のこと聞けると思ったんだけどなぁ~」
「……事件?」
「おにーさん知らないの?『第二区画で行方を眩ました、殺人グループのこと』」
目が眩むような話だった。
「殺人犯が……逃げ切った?な、何かの間違いじゃないかな……」
如何なる者であろうと、都市管理局から逃れられるはずがない。
俺は身をもってそれを知っている。
きっと少女は、何かを勘違いしているのだろう。
俺は諭すように微笑みを浮かべたところで、
ニヤリと、赤い三日月が闇に歪んだ。
「結構有名な話なんだけどなぁ、ほら見てよ、おにーさん♪」
空間ディスプレイの青白い光が、公園を浮かび上がる。
『漆黒のローブを纏った双葉玲也』が、街の警備ロボ相手に跳び回っていた。
「な、に……?」
食い入るように3歩迫る。
ローブに隠れて判別し辛いが、間違いない。
顔の作りから、身体つき。
映像に映るその人は、何から何までが、ドッペルゲンガーを超えた本物の俺だった。
「怖いよね~、こんな人たちが、今も何処かに居るって思うと」
何処か弾んだ高声が、耳に薄い膜でも貼られたみたいに上手く入って来ない。
額から血を流した青年を、肩に担ぐ俺。
俺の世界を1点に凝縮する、薄桃色の髪の少女。
…………やはり、俺はこの3年の間に、
「気になるなら、この映像あげよっか?調べても今はもう出てこないだろうし」
ふっくらとした右手が、いつの間にか背後から肩を響く。
死神に目を付けられたみたいな悪寒が突き抜けて、俺は思わずバッと翻った。
「あ……ありがとう……」
「じゃ、そろそろ夜の散歩終わりだから、私は帰るねっ!」
夢の世界から躍り出たような黄色いエプロンドレスは、曲がり角の奥へと消えた。
「……俺も帰るか」
間隙あって、なぜだか安堵に洩れ出した吐息。
深夜に落ちた人影は、マンションへと重い足取りを向ける。
だから、曲がり角から『深紅の瞳』が覗いていることにも、俺は気が付かなくて、
「こぉ~んなところに居たんだね……A006♪」
キャハハと薄ら寒い笑声が、星もない夜の街に溶け込んだ。
次は11月6日の木曜日に投稿します。
それでは、また次話でお会いしましょう!




