第1話 そしてあなたは目を覚ました
電子黒板を叩く音が、午後3時に俺の瞼を薄っすらと持ち上げた。
四角い窓枠に、収まり切らぬ青空が陽光を溢れ出す。
鞄を山のように積み上げた白の観察台は、眩しく乱反射していた。
木製机に頬杖を突きながら、その眩しさに目を細めたところで、聞き馴染みのある大人の声がした。
「おい、双葉。何をボーっとしている」
ゆっくりと、『教室の特等席』から視線を向ける。
前方の教壇で、担任が微かに眉を顰めていた。
「お前、話聞いてないだろ……ほら、解いてみろ」
胸元に浮かぶAR上の教科書を眺め、なんだ、こんなことか。
すらりと仮想キーボードに指を滑らせれば、赤い丸が、快い音と共に浮かび上がる。
さわりと揺れる草葉のような感嘆が、教室から溢れた。
「……これで解けちまうから、ヤになんだよなぁ……」
がっくりと、木色のフローリングに鳴る指示棒。
教室の空気が弛緩して、クラスメイトはクスクスと笑声を木霊させる。
気が付くと、教室は僅かに傾いた陽光に浸されていた。
気怠げな雰囲気に飽和する制服の中、俺はガタリと椅子から立ち上がると、学友が大きく手を振って近づいてくる。
「レーヤ!一緒にゲーセン行こうぜ!!」
「悪いけど、これからトレーニングだ」
いつものように答えれば、教室の仲間は盛大にため息を鳴らした。
「いくら将来期待されてるつってもさ、偶には良んじゃねぇの?」
──違う。
強きに従い、強きを尊び、そして強きを挫く。
俺はボクサーとしての道を綱渡りせねば、何の価値も得られないのだ。
心の奥底で呪文のように繰り返す。
だって、そうでなければ──
不意と脳裏に浮かび上がった両親の顔をクレヨンみたいに黒く塗り潰し、誰にも悟らぬよう小さく舌を鳴らす。
クラスメイトを追い越して、早足に校門を目指した。
校舎裏の影で、見るからに面倒そうな連中に囲まれた小太りの少年を『当然』無視する。
谷底から這い上がる意志なき弱者を救う意味など、1つとしてないのだから。
ボクシングジムで汗を流し、俺は怠い夏の空気に溺れながら住宅路を歩く。
「ただいま」
その言葉を喉奥に呑み込み、玄関扉を開けた、瞬間、
金の紋章を刻んだ警官帽子が、目前を圧迫した。
「……管理局?」
突然の状況に、思わず零れ落ちる言葉。
それに反応したように、都市管理局の女性型アンドロイドはくるりと流暢に振り返る。
珍しく、両親共々揃って玄関先に立つ様子が、視界の端を浮かんだ。
造られた黒目が、ジッと、俺の頭のてっぺんからつま先を舐め回した。
「生体データ、照合完了。あなたが双葉玲也ですね?」
「あ、あぁ……」
美しいまでのお辞儀が、淡々と宣告を響かせる。
「お気の毒ですが、あなたは殺処分の対象に選ばれました」
足元を開く大穴が、日常を破片に噛み砕いた。
真夏に火照った制服が、瞬く間に凍り付いて水底へと落ち込んでいく。
「……は?」
嫌に五月蠅く聞こえる心臓の鼓動。
頭が白紙に塗り替えられていく感覚。
造られた黒目が舐め回す無感情な所作に、右手に握るスポーツバックは、はらりと床を零れ落ちた。
「……俺が……規格外……?」
それは、ここ人類共栄都市において処分されるべき人間を意味した。
『規格外処分システム』。通称I・D・S。
時は2113年。
『人工知能の反乱を乗り越えた』地球人口1億人は、未来へと優秀な遺伝子を伝えるために、規格から外れた人間を処分するシステムを構築した。
IDSシステムによる検挙者の末路は、誰も知らない。
けれど──殺処分。
その文言が表す結末はただ1つであり、システムに検知された者は、その日を境に街から姿を消す。
「う、嘘だ……!」
思わず、小刻みに震える足を一歩前に踏み出した。
確かに俺は、少々スポーツに傾倒している面があった。
が、学力は人並以上。人間関係に問題がなければ、犯罪に手を染めたこともない。もっと言えば、俺は将来的にプロボクサーとして注目される有望株で。
何をどう考えても、俺は潔白の身だった。
「な、何かの手違いだろう!?人違いとか……!!」
「いえ。当局の審査に間違いはありません。ご理解のほど、よろしくお願いいたします」
抑揚のない声が、地獄に垂らされた蜘蛛の糸をアッサリと断ち切る。
悪い夢でも見ているような気分に、ぐにゃりと、玄関先の風景が歪んだ。
「……な、なぁ……」
震える声に、廊下に立つ両親へ救いの手を伸ばす。
「どうして私から、こんな子が生まれてきたの……?」
母親はハンカチに目元を当て、父に縋り付いた。
「一家の恥晒しめ……!二度とその面を人様に晒すなッ!!」
父親は親の仇でもみるような鋭い眼光を俺に寄越したと思ったら、苛烈に右腕を振るって、頬に熱い余韻を残した。
この男の方がよっぽど規格外だろう!
俺は引き攣る喉を食い縛り、首だけ振り返ってアンドロイドを睨む。
「家庭内暴行。2ポイントの減点ですね」
ピロリと、父の頭の上で信用点が減少する音が鳴った。
途端に赤い顔は青く染まって、人形のようにアンドロイドへ平謝りを繰り返した。
「せ、せめて釈明の機会を──」
このままでは、本当に殺処分されてしまう。
唇を震わせたところ──口元を覆う、布切れ。
「ッ!?」
「それでは、殺処分を開始します。安らかに眠ってください」
妙に甘ったるい香りが鼻腔を抜ける。
ぼんやりと反響する声を最後に、ブチリと、世界は闇へ包まれた。
そうして俺は、IDSシステムによって殺処分されたはずが、
「おはようございます、理人くん」
目を覚ますと、銀髪の淑女に微笑まれているのだから、人生というものは、よく分からない。
次回の投稿日は10月28日の火曜日です。
それでは、また次話でお会いしましょう!




