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第14話 恋と病熱


 物心ついた頃、世界は対岸の劇場で上映されていた。


 ビル群に囲まれた交差点の雑踏も、ダイニングにある団欒も、存在しない。

 奥行きのない白の病室と、収容所みたいに窓もない無機質な通路だけが、私の過ごす世界。 

 

 窓越しに映る街の景色は、私とは異なる次元を生きていた。


「……お母様。大変申し上げにくいのですが……アルナちゃんはカミキリ病です」


 生まれ落ちたその時から、私の身体は病棟の鎖に縛り上げられている。


 カミキリ病は日和見感染する恐れがあるから、外には出られなくて。

 けれど中途半端に身体の自由は利くものだから、内側だけが腐った食べ物みたいに表面上は元気に見えて。

 両親は次第にお見舞いにも来なくなって、遂には私を院内学校へぶち込んだ。


 院内学校での生活は、予想外にも、万華鏡を見るみたいに刺激的なものだった。


 まるで現実にあるとは思えなかった画一化された机で、先生が行う座学。

 時に体育として評して行われる、娯楽品を使った軽い運動ゲーム。

 同じ閉鎖空間に囚われた者同士、友達の輪は、ネズミ算のように手を取り合っていく。



 その頃にようやく、私は、世界がいつだって此岸で上映していることを知ってしまって、



 なのに、



「絶対会いに行くから!」



 目尻に涙まで浮かべながら抱き合った友人は、二度と私の元に帰ってくることはなかった。



 きっと、外の世界は病棟の記憶を彼方へ洗い流してしまうほどに、素晴らしい光に満ちているのだろう。

 院内学校に、歳月だけが流転する。

 私の見知った誰彼は、様々な形で院内学校を羽ばたく。

 私だけが鎖を破る力を振り絞れなくて、いつまでも教室に取り残されている。


 誰かの心に触れても、最後に残るのは、途方もない寒さだけだった。


 いつしか、私は院内学校へ足を伸ばさなくなった。


 安楽椅子に掛けた膝に本を開き、病室の窓から街並みを眺める。

 ぱらりとページをめくる音。

 淡い陽だまりを浴びている時だけは、胸を巣食う寂しさも、ほんの少しだけ和らぐ気がして、


「キミが、アルナ・ミュラーだね」


 人魚の歌声に似た清流が、澱んだ病室に新世界を切り開いた。


 振り返ると、修道女の着る真っ白な絹のローブがまず目に入った。

 深海のような青の瞳が、本を読む手を止めた私を映している。


「あの……どちら様でしょうか?」


 美しい女性とも、中性的な男性とも見える神々しい姿。

 彼若しくは彼女がたおやかに腰を降ろせば、ありふれた丸椅子が、黒塗りのソファへと変貌した。

 気さくな微笑みが凛と黄金比の顔に浮かんで、スッと、心に染み込む。


「今日はあなたに、素敵な提案をしに来たんだ」


 一輪の花みたいな指先が、無色の液体を含んだ注射器を見せびらかした。


「カミキリ病。治せるとしたら?」

「なんでもします」


 痩せた太ももを震わせて、安楽椅子から立ち上がる。

 この病さえなくなれば、胸に抱える寂しさも消えてくれるはずだから。


「だったら話が早い。具体的な話に移ると──」


 そうして私は、カミキリ病の治療契約に合意して、


 決して普通ではない禁域に、両脚で踏み込んだ。








 青い光が、瞼の向こうで濃い闇を和らげていた。


 ぼやりと浮かび上がる、見覚えのない青い闇の天井。

 私はゆっくりと、背中を支えるコンクリートみたいに固い感触から起き上がる。


 はずが、身体はピクリとも動かない。


「……あ、れ……?」


 ひやりと冷たい感触に、繋ぎ止められた手首足首。


「おや、被験体が目を覚ましたみたいだねぇ」


 生気のない灰色の瞳が、ぬっと、お化け屋敷みたいにわたしを覗き込んだ。

 思わず生唾を鳴らしたところ──人の心を弛緩させる声が続く。


「おはよう、アルナ・ミュラー。ボクのことは覚えているかな?」


 薄い水色の触覚が、人形みたいな頬を撫でていた。


「あっ……病院の」


 ほっと、凝り固まった胸が緩む。

 薄暗いからちょっと怖かったけど、ここは病院なんだ。

 この無精ひげの人はお医者さんで、私はカミキリ病が完治して──



 次々と沸き立つしゃぼん玉みたいな希望の光は、ぱしゃんと、両手に叩き潰された。



「問題なさそうだね、複製は完了だ。ジャック、実験に移ってくれ」

「承知したよ、マザー」


 何か、ヘルメットのようなものが視界を黒く覆い尽くす。


 次の瞬間、プラグが突き刺さるような感触が頭蓋を貫いて、



 脳神経が、角棒で乱暴に掻き乱された。



「ぁ……ぁぁぁぁぁあああぁぁぁあ!?!?!?」


 視界を白く瞬く電撃。

 拘束された四肢が、猛り狂った獣みたいに激しく暴れ出す。

 泡のような唾が頬を濡らす。


「ぐ……ぎぃぃぃいい……ッッ!?!?……う……ぁあ……!!」


 錆びたナイフが脳みそをギコギコと切り取って、そして何かに縫い合わされて。

 ヒトの味わうべからず熱さに──寂しい寂しい寂しい──空虚が、脳細胞へ捻じ込まれる。

 熱くて粘着質な液体が、目尻を伝う。


「い˝、だい……ッ!!た、だすげて──」

「人格に少々乱れが生じているらしいねぇ」

「気にすることはない。幾らでもリセットは可能だ」


 嗚咽交じりの絶叫は、次第にあぶくと消える。

 やがては瞳は虚ろにヘッドギアの闇を茫然と映すようになり、時折、瀕死の蛙みたいに手足がビクリと跳ねた。


 鮮やかな赤が黒い視界をせり上がり──プツンと、致命的な糸が千切れる。


 何度も、何度も何度も繰り返す。

 そして次に闇から浮かび上がったその時、わたしは、私ではなくなっていた。


「やぁ、アルナくん。お目覚めかい?」

「わたし、は……?」

「人類連合軍所属のアルナ・ミュラーだ。覚えているかな?」

「……れんごう、軍……」


 覚えのない……ううん。そう言えばわたしは、人類連合軍と呼ばれるレジスタンスに──……寂しい。寂しい寂しい寂しい。


 胸の底の空っぽが消えてくれない。

 早く、寂しさを埋めなきゃ。

 胸を抑えて身体を丸めたとところで、爆音か何かが遠く木霊した。


「……K076か。厄介な来客だねぇ」


 そう言って総統はわたしを闇に落としたっきり、二度と、部屋に戻ることはなかった。


 暗い世界に意識が閉ざされたまま、肩に埃が蓄積していく。

 幾万年もの月日が流れ、いつしか身体は化石へと変じるかと思われた、ある日のことだ。

 

 不意の轟音に、機材は軋んだ。


 それは運命のいたずらか、或いは予定調和なのか。

 闇に囚われた実験室に、うっすらと瞼は持ち上がり、


「……だれ?」

「A006だ」


 そう言ってわたしのヒーローは、不機嫌そうに翡翠と黒のオッドアイを射抜いた。









「どうした、答えてみろ、貴様は複製体か?」


 野犬を捕らえる捕獲器みたいに、漆黒のローブから伸びる左腕がわたしを大地へ抑えつけている。

 見下ろす翡翠の義眼は、胸元を緩く覆う純白のドレスを暴こうとしていた。


「……ち、違うッ!わ、わたしは……偽物なんかじゃないッッ!!!!」


 二丁拳銃が衝動のままに火を吹く。

 漆黒のローブは身を捩って、後ろへ跳ね飛んでいく。


 肩で息を繰り返す音だけが漂う広場に、漆黒のフードは軽く伏せた。


「ふん。やはり図星といったところか」

「な、んで……」


 ガラスの靴が、図らずも芝生を後退る。

 漆黒のローブは一歩迫って、空間ディスプレイを空中に叩く。


 絶望夕刊3号と、共栄都市を生きる私の写真を映し出した。


「貴様、人工知能どもに何を吹き込まれた」


 わたしは唇を噛み締めて、二丁拳銃の銃口を赤黒く染まった漆黒のローブへ構える。

 

「う……うるさいっ!六ちゃんに話すことなんて何もないっ!!」

「そうか。だが、俺は貴様から訊き出すまで止めんぞ!」


 ひゅんと、銀色の一閃が軌跡を残した。

 バラバラと広場に散り落ちる銃弾。

 亡霊のような漆黒が、大地を蹴り飛ばす。


「ッ……!!」


 右から迫る足蹴りに備えて、前腕を防御に構えた。


 はずが──気が付くと、湿った空気を裂いて真逆から迫り来る引き締まった蹴脚。

 ギシリと肩が軋んで、身体は柔らかい草地を転がる。

 

 漆黒のシューズは緩慢に、泥被りのドレスへと近づく。


「貴様は言ったな。わたしにも勝てない俺が、MCを破壊できるはずがないと」

「う、ぅ……!」

「その懸念は払拭されたはずだ。戻って来い。俺と協力してMCを破壊するぞ」

「……や、ヤダ……!!」


 反射的に耳飾りを頬に叩けば、フードの底で、眉間がいつになく深い彫を作った。


「……だろうな。本当のところは、なぜMCに与している……サッサと本音を吐き出せッ!!」


 耐え切れぬとばかりに火を吹く大声。

 口を噤んで、大地に俯く。

 漆黒のローブはドレスの影を荒々しく食い荒らし、ドレスの胸倉をグイと掴み上げた。


──やられる。


 激情の赤を前に、わたしは反射的に思って、


「なぜだ……なぜ、俺を裏切った……!!」


 捨てられた子猫の瞳孔が──ぐわんと、胸の奥へ鋭利に爪を立てた。


「う……ぁ……!!」


 足が宙に浮いて、上手く逃れられない。

 地を這う蛇がわたしの首に巻き付いて、毒牙をキシャリと剥き出しにする。


「忘れても良いぐらいに思い出をくれるんだろう!」

「や、やめて……!」

「俺に安心をくれると、貴様は言っただろう!!」

「……っ!!」


 激情に混じった純情なる一言一言が、心の外殻を金属バットに打ち砕いた。


「……チッ!」


 左腕がルアーでも投げ込むみたいに大きく振りかぶって、わたしを固い石畳へ放逐する。

 じわりと歪む視界に、震える両膝。

 もはや自分を偽ることすらできず──とうとう、心の底に隠した闇が飛び出す。


「わたし、は……!」

「なんだ!」


「わたしはっ!オリジナルを殺して本物にならなきゃいけないのっ!!」


 全ては、ジャックが自殺したあの日に始まった。


 サイボーグの整備に合わせて、無理やり思い出さされた『私』としての記憶。

 そして時折ジャックに肉体と記憶を制御されるがままに引き起こしていた重罪の数々。

 何より──写真によって知ってしまった、本物の私を横抱きした六ちゃんの一幕。


 偽物なんかが、本物に勝てるわけない。


 偽物だなんて、知られたくない。


 心は暗い靄に包まれて、だから、わたしはまだ六ちゃんの傍には帰れなくて──


「わたしは……っ!本物に、ならないと……っ!!だって……ッ!!」


 熱くぼやけた視界に、翡翠の瞳は浅く伏せた。

 広場の芝生に落ちるローブの影は、目前で手刀の形を振り上げる。


「……アルナ、貴様は──」


「──本当に、どうしようもない阿呆だな」


 一撃は深い嘆息と共にブンと振り落ち、アホ毛を思い切り叩き伏せた。


「あだっ……!?!?」


 まるで戦闘中とは思えない軽い小突きに、思わず気の抜けた声が溢れる。


 反射的に頭上を両手で抑え込む。

 見上げれば、翡翠の瞳はわたしから視線を逸らしたまま、ボソリと、秘密を囁いた。


「……一度だ。一度だけしか、やってやらんからな」

「……へ?」


 グイと、ドレスの裾を引き寄せられる。

 しなやかな左手が、後頭部をそっと触れる。



 甘い感触が、唇に流れ込んだ。



「俺にとっての本物は、最初から貴様だけだ」


「これまでもこの先も、貴様こそが、『俺』にとってのアルナ・ミュラーなんだ」


 空っぽの心臓が、命の灯火を闇に灯した。


 どくりと、温かい血が唇から手先を巡る。

 呼吸を奪われるほどの長い間があって、身体はドンと突き放される。


「これが最後だ。貴様は俺の隣で、馬鹿みたく笑っていろ」


 左手が、今一度ばかり差し出された。

 

 胸元に垂れたペリドットのペンダントを、ぎゅっと握り締める。

 ずっと、すぐ傍に求めるものはあったのに。

 偽物とか本物とか、脳細胞を染みついた寂しさに惑わされていた心は、嘘みたいに静まり返って、


「……わたし、阿呆だ……!」


 堪らず手の甲に頬を拭いながら、嗚咽交じりに零す。

 フードの底で、尖った唇は軽く緩む。


「そんなことは随分と前から知っている」

「本物にならなくても、良いのかな……?」

「誰が否定しようと、俺だけは貴様をアルナだと認めてやる」


 何の躊躇いもなく、心へ返る望む言葉。

 けれど、翡翠の瞳は少し不安そうに宙を泳ぐ。


「それだけでは……足りないか?」



 頬を伝う温かさは、雨上がりに世界を晴れ渡った。


「……ううん。それが……それだけが、欲しかったの……!」


 翡翠の瞳は、日の出を拝んだみたいに大きく固まった。


「……帰るぞ、阿呆。作戦は中止だ。色々と一から組み直さねばならんからな」

「……うんっ。わたしね、色んなこと思い出したから、きっと役に立てるよ」


 ふいとそっぽを向いて、けれど確かに差し出された左手。

 掴むようにわたしは一歩を踏み出して、



 神の審判が、伸ばした右手を容赦なく吹き飛ばした。




 次回の投稿日は10月25日の土曜日です。

 それでは、また次話でお会いしましょう!

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