第12話 人生に花束を
カミキリ病
かつて人間が国家を形成し、敵国の侵略を目論んだ時代の残滓。
一度発症すれば最後、ウイルス型ナノロボットは体内を侵食し、人をゆるやかに死へと導く。
抑制剤を打たなければ、発症者は狂犬病のように自我が溶け、攻撃性を増す点も恐怖の対象だ。
カミキリ病の原書は、敵国のスパイを尋問する際に開発された人工的な病であった。
しかしそれが研究所から洩れ出し、自然界で独自の変化を遂げたことで、人間の手には追えないものへと変質したのだ。
感染力自体は低いが、免疫力の低い幼児が稀にカミキリ病を発症する。
共栄都市では不治の病として恐れられていたが、3年前にワクチンが誕生したことで、今では恐怖も収まりつつあるようだ。
いつも、ベッドの片隅で膝を抱えて、めそめそと涙を流していた気がする。
ライ・ユンジェ。
御年12歳にして、カミキリ病を発症。
緩やかに人を死に至らしめる不治の病は、輝かしい未来をゴミのように闇へと葬った。
一度発症すれば最後、カミキリムシに巣食われたみたいに、身体は緩やかに蝕まれてゆく。
再婚相手の母はこれ幸いにと、死の気配が満ちた病棟の奥深くへ僕を幽閉した。
ただ、真っ白だけが広がる一室の世界。
寝ても覚めても香る消毒液に、連日、目尻を伝う感情は止まらなくて、
「クハハッ!白亜の塔への入門者よ!これより貴行は我が眷属となるッ!!」
ある時、ベッドに仁王立ちして妙なポーズを気取る少女と、同室になった。
意味もなく右手に巻き付いた包帯が、癖のある短いオレンジ髪を覆い隠している。
痩せた手先の隙間に覗く、ニヤリと高慢な笑み。
骸骨のネックレスが、検査着を纏う細い首に怪しく揺れた。
「け、眷属……?」
主治医にリンカと呼ばれる少女は、その妙なポージングから分かるように、奇妙な子だった。
「クハハッ!漆黒の盟友よ!涙の果てに待つのは晴れ空だぞ!!」
僕がベッドに鼻をすする度、かしゃりと、薄茶色のカーテンは揺れ動く。
向こう側からグレープフルーツ色の瞳が不敵に歪んでは、支離滅裂な言葉を投げつけてきた。
まるでよく分からない、同室の少女。
けれど彼女は僕が泣くと、必ず下らない言葉を掛けてくれた。
だから、その行動が僕を慰めるためにあることを、心は次第に理解するようになった。
以来、正体不明の存在は、日々に光を照らす太陽のように眩しく映った。
「リンカ!今度は何しようか!!」
病室を浸す斜陽が、1つのベッドに隣り合う影を伸ばす。
僕は携帯ゲーム機をベッド脇に置いて、くるりと跳ねたオレンジ髪を真横に覗く。
とすると、骨ばった人差し指が、印を結ぶみたいに頬へ軽く釘を刺す。
「我は森羅万象の監視者だ。コードネーム『アカシックレコード』と呼べ」
「あ、アカシックレコード……?」
「貴行が真名を叫ぶ度に、世界の蓋然性が崩れゆくのでな」
いつもの意味不明な発言に、頬は自然と緩み切る。
「また難しいことを言うなぁ」
「フッ。貴行にはまだ世の理が解せぬか」
少しばかり背伸びした高慢な笑み。
そうして僕らはまた、箱庭で下らない遊びに夢中になって。
歪な家庭に息を潜める日々と比べて、幽閉された病棟の生活では、嘘みたいに明日が待ち遠しく思えた。
「こんな言い方はアレだけど、ユンジェくんが来てくれて良かったよ。燐火ちゃんも、1人だと詰まらなそうだったからね」
主治医のリリー先生は人が良い。
診察でもないのに病室を訪れては、ビックリ箱から僕らに遊び道具をプレゼントしてくれる。
「ドクターリリー!戯言を我が盟友に吹き込まないでいただきたいっ!!」
軽く頬を赤らめて、肩叩きをするみたく白衣をポカポカと叩くリンカ。
「僕も、リンカと一緒に過ごしてからの方が、生きてるって感じがして楽しいよ」
チェスの駒を動かして仄かに笑みを落とせば、ピタリと、痩せた腕は硬直する。
それを見た漆黒の瞳が、穏やかに細みを帯びる。
「おやおや、燐火ちゃんも照れちゃったみたいだ」
「ッ~!!」
そんな、ぬるま湯みたいな日々が、ずっと続けばよかった。
けれど時計の針は容赦なく暗い未来を刻む。
僕もリンカも身体はやせ細り、やがてはベッドから立ち上がることが難しくなり、吐血する回数も増える。
骨ばった身体は腹に風船でも膨らませたみたいに痛みを伴う圧迫感を伴って、夜に眠る睡魔さえ、濃い死の匂いに寄り付かなくなる。
そうして、眠れずの晩を過ごすようになったある日のことだ。
すすり泣くような声が、カーテンの向こう側に聞こえた気がした。
「……リンカ?」
思わずそっと、カーテンをゆっくりと捲る。
グレープフルーツ色の瞳は、波打ち際みたいに揺らいでいた。
「……ク……クックック……乙女の夜を覗くとは……盟友よ、覚悟は出来ているのだろうな……」
何も言えずにカーテンを掴んだままでいる僕に向けて、リンカは気丈に口元を歪める。
──なんとかしてやりたい。
心だけが独りでに暴れ出せども、僕にはどうすることもできず、
「カミキリ病が治るかもしれない。私がそう言ったら、君はどうする?」
呼び出された診療室で、リリー先生は奇妙な質問を投げ掛けた。
夢にだけ聞く魔法の言葉が、僕の身体を石化の呪文に掛けている。
「……え?」
丸椅子に座ったまま、思わず唖然と開く唇。
乾燥しがちな指先が、白衣に掛かった濡れ羽色の長髪を搔き上げた。
「本当は、こんな話をするつもりはなかったんだ。君たちが巻き込まれるからね」
自らがレジスタンスであること。
かつて世界を厄災に包んだゼウスは未だ現存していること。
リリー先生はいつかどこかで耳にしたことがあるような都市伝説を滔々と語る。
「それで今はね、こうやってスパイとして共栄都市に潜入しているんだ」
それはまるで、雲の上のお城に辿り着いたような与太話だった。
空間ディスプレイに映る地底の街並みに、心はぼんやりと取り残され、けれど、
「それで、つい最近──カミキリ病の特効薬を開発したんだよ」
ただその一言だけは、鋭い針のように脳内を貫いた。
「と、特効薬ッ!?!?」
やせ細った筋肉を振り絞り、丸椅子から立ち上がる。
「そうだよ。カミキリ病を完治させる唯一の方法さ」
リリー先生は特効薬のサンプルカプセルを抓みながら、真摯に告げた。
「こんな話だから、保護者から許可を頂くわけにもいかない。ユンジェくん、君自身が判断するんだ」
「この話を聞かなかったことにしても良し、管理局に私を告発するも良し、自由にしてね」
シンクの蛇口から零れる水滴が、ししおどしみたく診療室を浸した。
「な、なんで……こんな話を僕に?」
最も単純かつ明快な疑問が、長い沈黙の末に溢れ出す。
困ったような微笑みが、卵色の診療室を浮かび上がる。
「……君と燐火ちゃんの日常が、これからも続いて欲しいと願ってしまったから、かな?」
荒野に昇る赤い朝日が、カッと、終わるはずだった日常を照らし上げた。
「リンカも受けるんですか!」
「うん。彼女も提案を受け入れたよ」
こくりと頷く漆黒の瞳。
僕は燃え上がるように熱い頬を綻ばせて、二つ返事で特効薬による治療を了承した。
粉薬を灰に漬け込んだように苦い錠剤を噛み砕いて、1か月。
痩せた身体は、思いも寄らぬほどの大きな活力を漲った。
「クックック……我が盟友よ……さては、超神水を口にしたか」
「あぁ!リンカも一緒に退院しような!!」
勢いよく両手を突き動かし、力を抜け落いたか細い指先を掴む。
グレープフルーツ色の瞳は床の白いタイルを見下ろし、口元をゆっくりと不敵に歪ませる。
「あぁ……当然だとも」
その5日後、弱々しい心電図の脈拍が夜に眠った。
それはまだ日も登らぬ朝闇のこと。
不吉なナースコールが、僕の意識を呼び覚ます。
慌てて首を振るや否や、リリー先生は扉を破壊する勢いで部屋を立ち入った。
「心拍数低下──!!電気ショックを──」
吐血に濡れた太陽が、看護師の姿に呑み込まれていく。
反射的に手を伸ばすと、白衣が背後から僕を抑え込んだ。
走ってもないのに酷く息を切らして、僕は漆黒の瞳へ目を見開く。
「リリー先生!なんで!?リンカも特効薬を……!!」
「……ごめん」
ゆっくりと、濡れ羽色の長髪が横に揺らいだ。
「……特効薬は、レジスタンスから運ばれる……はずだったんだ。でも、そのうちの1つが……」
懺悔するように、落ち着いた声が震える。
リンカは、その残された1つを黙って僕に差し出したのだ──
大地が崩れ落ちる感覚に、両膝が固いタイル床を叩いた。
「リンカ……なんで、だよ……僕は、1人じゃ……!!」
ぐちゃぐちゃに崩れた声を、ベッド脇に縋り付く。
枯れ木のような手のひらが、僕の右手をそっと触れた。
薄っすらと瞼が持ち上がって、爛れたグレープフルーツ色の瞳が覗く。
「ユン、ジェ……私は、な……海の藻屑のように、ひっそりと死んでいく、はずだった……」
「そんなことないッ!!」
勢いよく首を横に振る。
満足そうに、浅く響く嘆息。
それでもリンカは、ベッドに倒れたままゆっくりと否定する。
「だが……お前という光が、差した……」
「私にとっても、お前が生きる意味、だったんだ……」
グレープフルーツ色の瞳が覚悟を帯びて、水面に歪む僕を温かく映した。
「だから……私の我儘を、最期まで貫き通させてくれ……」
いつ振りかに思い出す、目尻を溢れる感覚。
今際へ消えゆく光へ、僕はそっと右手を伸ばす。
「僕も……僕も、リンカみたいに……なれるかな……?」
高慢な笑みが薄い頬を引き攣って、震える手先は、いつものように青白い顔を覆い隠した。
「ク……クック……なれる、さ……なにせお前は……私の盟友……なのだから、な……」
朦朧と赤く染まった左眼に、輝かしい過去が巡り去る。
十文字に斬り裂かれた戦闘服。
槍に貫かれた太もも。
ほつれた右腕の包帯は、命の雫を絶えず流し落としている。
「クッ、ク……クックック……!!」
リンカのように、誰かのために生き抜いてみせる──
あの月も太陽もない朝に受け継いだ誓いは、少しも揺らいでいない。
結果としてこの手に残ったのは、出来の悪い粘土細工みたいな模倣で。
けれど、ただひたすらに花を拾い集めた。
そうして膨れ上がった大きな花束は、僕という一輪だけを胸に抱く彼女には、抱えられなかったものだ。
「我が眷属よ、とうとう貴行も世の理を解したらしいなッ!」
この巨大な花束を痩せた身体に押し付けてやれば、リンカもだらしなく口元を歪めて、少しは僕を褒めてくれるだろうか。
いや、もしかしたら、自らの生き様の素晴らしさを高慢に語り出すかもしれないな。
ぼんやりと芝生の桃源を浮かぶ、オレンジ色の癖毛。
未だ広場を横溢するいぶし銀の残兵が、まだ早いとばかりに覆い尽くす。
バッと、痛いも寒いも分からぬ両手を広げて、天使が降臨するように厚い雲から差す陽光を仰ぐ。
「クハハ……クハハハッ!!」
それから僕は、きちんと手のひらに顔を覆い隠す礼儀を尽くして、
「今そちらへ逝くぞ!!我が盟友よッ!!我の魅せる最期の輝き、とくと味わうが良い!!」
ニヤリと晴れやかに口元を歪めながら、空へと届く一閃を駆け込んだ。
ガラスを蹴飛ばす硬い音が、螺旋を描く塔の内部を木霊している。
半透明の階段を抱えるは、漆喰みたいな冷たい潔癖色の壁面だ。
最上階へと貫く道筋を数段一気に蹴飛ばし、フードの底から乱れた呼気を追い掛けた。
辿り着いた黄金の扉前には、赤い1つ目を光らせた機械兵が番人のごとく、2体居座っている。
疾風のごとく駆ける侵入者を捉えて、奴らは鏡合わせに斧を振り上げる。
「邪魔だッ!!」
バツ印を描くように空気を裂く刃。
前傾姿勢に転がり込み、機械兵の背後でローブを素早く翻す。
両手に頭部の固い感触を握り込み、頭蓋と頭蓋をクルミを割るみたいに叩き合わせた。
ぐしゃりと圧壊音が軋んで、機械兵はスパークを爆ぜた。
「……ここか」
ひやりと、黄金色のドアノブを握る。
俺は迷わず、アドラの私室へ立ち入り──
ザっと、静かな足音が、煌びやかな私室を染み入った。
微風に揺らぐは──ハーフアップに纏まる薄桃色の髪。
式を控えた純白のドレスが、黄金の王座に着いている。
豪華なシャンデリアの灯りが、表情の死んだ顔つきでロボットから給仕を受ける華奢な姿を照らした。
「随分と、退屈そうに座っているな」
ピクリと、ドレスに透き通る乳白色の肩が動く。
耳飾りが風鈴みたいに擦れ合う。
マカロンを抓み上げる華奢な指先。
アメジストの瞳は無感情に、血濡れのローブを映し出す。
「なんで……言うこと聞いてくれなかったの?」
「貴様との約束なんぞ守ってやると思ったか?」
早く階下に戻ってユンジェと合流せねば。
俺はシンデレラみたいに赤い絨毯へ足音を急かし、子犬には似合わぬ王座へ右手を差し出した。
「地底の街へ帰るぞ」
「ヤダ」
ぷいとそっぽを向くことすらなく、淡々と突き放される氷塊の一句。
気圧された身体をぐっと堪えて、前へと乗り出す。
「俺が連れ帰ると言っている」
「帰らないって言ってるじゃん」
「黙って俺の言うことを聞け」
アルナは嘆息を残して、長いまつ毛を蝶が翅を閉ざすみたいに深く伏せた。
「……我儘ばっかり。じゃあ──」
瞬間、ハーフアップに結えた薄桃色の髪が、神速にブレて、
「──計画が終わるまで、再起不能になっててね?」
視界が乳白色の手のひらに奪われるや否や、後頭部はバキリと熱を弾けて、地上を遠望するガラス壁を叩き割った。
次回の投稿日は10月21日の火曜日です。
それでは、また次話でお会いしましょう!




