第2話 そのクロガネは悪魔であるか
路上へ降り立った漆黒のローブに、何らかのアクションを起こす者は1人としていなかった。
遥か大空より地上へ着地する身体能力。
月明かりに濡れた滑らかな布生地。
どちらも明らかに、廃都市に生きる人間の持つモノではない。
果たして今宵のイレギュラーの出現は、絶望への片道切符か、それとも、ささやかな希望か。
ごくりと、生唾を喉に鳴らす。
夜風にフードが揺らいで──氷柱を思わせる眼光を、翡翠色に反射した。
「生きて、いる……な……?」
──殺される。
心はなんの疑いもなく確信した。
けれど、路上に倒れた身体は、メデューサに睨まれたみたくピクリとも動かない。
引き絞られた巨腕が、気を取り直したように構えを取る。
「誰だか知らねェが……部外者は引っ込んでろ──」
などと吐き捨てながら、リーダー格は路上を蹴り上げて、
漆黒の足先が、その首筋を華麗にへし曲げた。
「あ、ぎゃァ……ッ!?」
夜闇を揺らぐ衝撃波。
ゴキュリと、鈍い音が遅れて軋み渡る。
路地に横転した赤鬼は二度と動かず、粉雪の降り注ぐ音だけが、廃都市を圧し掛かった。
王者の足取りが、悠然と廃墟の街を響く。
やがて俺の目前に止まり──そっと、差し出される色白い腕。
「壁の向こうへ、行くぞ……今が天国だと思える毎日と、衣食住を……プレゼントしてやる」
まるで滅茶苦茶な口説き文句が、フードに陰る桜色の唇から吐き出された。
けれど──完膚なきまでの強さ。
フードの奥に眠る重い瞼に、魂が眩しく焼き焦がされる。
果たして、今よりも酷い毎日があるのかは分からない。
それでも、飯と、寝床と。
返す言葉は、ただ1つしか有り得なかった。
「……分かった。アンタに付いて行く」
すっかり枯れ木となった腕が、細い手先に触れる。
「ならば……今日からお前は……六月一日理人と、名乗れ」
言葉に合わせて、ローブに隠された左腕が伸びた。
脳裏に先ほどの圧倒的暴力が過って、無意識的に、筋肉が強張る。
が、次に起きた出来事は、想定外のものだった。
「今日からお前は……私の弟子、なのだからな……」
ポンと、伸ばされた右手が軽く頭を触れる。
女の言わんとすることは分かるような、分からないような。
けれどそれは、俺が真っ先に削ぎ落すべきものであるような。
俺は馬鹿みたいに口を開いて、それでも不思議と、師匠の言葉に小さく頷いていた。
「……よろしく頼む、師匠」
「……良い子、だ……」
桜色の唇を浮かぶ、三日月の形。
わしゃわしゃと、細く血の通った指先が髪をかき回す。
その日は、雪が降るほどに空気が冷えていたからだろうか。
大人の大きな手のひらが、久しぶりに温かく思えた。
初めて目にする壁の内側は、とっぷりと命の気配に浸されていた。
道沿いに開かれた店々に、誘惑の声を呼ぶアンドロイドの売り子。
つい先ほどまで廃墟に居たのが幻のようだ。
幾層にも重なる足音に揉まれていると、次第に、自分がどこを歩いているのかも分からなくなる。
あまつさえ、外とは違う果実の芳香に満ちた空気の味。
じゅわりと焼ける露店の鉄板が、縮んだ胃を突き刺した。
「腹が……減って、いるか……」
気が付くと、足は道端に根を下ろしていた。
唾が間欠泉のように絶えず口内を溢れ出て、露店に並ぶ串肉から、目が離せない。
色白い腕が差し出す串肉を、俺は奪い取るような乱暴さで握った。
舌に絡みつくタレの辛さ。肉の繊維を噛み切る度に爆発する肉汁の熱さ。
いつぶりかのまともな食事だ。
知らぬ間に、竹串は空となっていた。
「こっち、だ……」
新たなる竹串を両手に、路地裏の闇へ溶け込むローブを追い掛ける。
鉢植えの観葉植物が項垂れる果てには、鉄色の扉が、静かに眠っていた。
「ここは……?」
「私の、住処だ……」
素早く打ち込まれたパネルが、ガチャリと、解錠音を響く。
ローブの長身が翻って、フードの底に眠たげな翡翠の半目を覗かせた。
「まずは……その襤褸切れを、脱いでくれ……」
俺は師匠の命に従って服を脱ぎ、床に並ぶ銃器の合間を踏んで浴室へと向かう。
シャワーヘッドが吐き出す澄み切った水。
それがドブ色から透明へと戻るまでにはかなりの時間を有した。
鏡越しに、病的にまで白い地肌とあばら骨の浮いた身体が露見する。
「……」
ただし、左腕は相変わらず『紫色に侵されたまま』。
汚染ガスの影響だろう。
眼帯に隠された右眼も同様だ。
可憐だった顔つきは気色悪い腫瘍に侵され、漆黒の瞳は自然と、床を見つめた。
使い古された黒のローブを身に纏って、脱衣所を発つ。
フードを外して完全に露わとなった美貌が、巨匠の彫刻みたいに昼白色の光を浴びていた。
「準備は、済んだな……?」
陶器のように滑らかな色白の肌が、金糸の長髪をふさりと胸下に揺らす。
「『この世界の女王』のところへ……連れて行って、やる……」
ゆるりと先導する黒ローブの背中に続いて、俺は師匠の部屋から秘密のトンネルを潜った。
全面、青い空が、俺を抱擁している。
ガラス張りの壁面を、ジオラマのように映る地上の街並み。
トンネルの常闇を永遠と切り抜けているうちに、俺は相当の高所へ登り詰めていたらしい。
「セントラルタワーに、到着だ……」
よく分からないが、どうやらここが、『女王』とやらの根城のようだ。
師匠は迷わぬ足取りでカーペットの廊下を進む。
待ち望む黄金の扉を、ノックもせずに開く。
「クロ。戻って来たらしいな」
ばさりと、金色の刺繍を施した外套が、煌びやかな一室を征服した。
妖艶なる肉体を包むは、軍服然とした服装。
緋色のポニーテールが、シャンデリアの灯りを受けて、火先のごとく宙を揺らぐ。
猛禽類の瞳が、黄金の王座から俺と師匠を見下した。
「だが──私とお前と、どちらが強者であるかは分かっているな?」
そう言って女王気取りは、宝石の指輪に輝く指先で俺に狙いを定めて、
「奴隷を拾う許可を与えた覚えはない。今すぐにそれを捨てて来い」
一室を控える人型機械が、一斉に動き出す。
「ッ!!」
反射的に身構えたところ──漆黒のローブが、ぶわりと俺の身体を覆い隠した。
「理人は……私の、弟子だ……」
「もう捨て猫に名前を付けたのか。気が早いことだな」
爬虫類を思わせる鋭く黄色い瞳が、ジットリと、俺を舐め回す。
──俺はコイツに弱者だと思われている。
猛禽類の目つきを前に思わず拳を握り締め、しかし女は、『師匠に許可がどうこう』と話をしていた。
となると、この軍服女は師匠の更に上に立つ存在だ。
強きに従い、強きを尊び、そして強きを挫く。
女王たるコイツを屈服させれば──俺は、世界の王となれる。
慌てるな。今はまだ、時を待て。
キッと睨み返せば、赤い唇は、さながら新しい玩具を見つけたようにニヤリと歪んだ。
「……良いだろう。クロ、ソレを一人前に育てる許可をくれてやる」
「お前、名前は」
そこで初めて、勝気に整った面立ちは俺を認知した。
「六月一日理人だ」
「六月一日……よし、コードネームはA006だ」
騎士を命じるように繰り出される一句。
「弱きに死を、強きに生を。勝ち残ることこそが人の全てであることを、よく覚えておけ」
「使えぬようなら、すぐに荒野へ捨ててやるからな」
その不穏な言葉を最後に師匠は私室を離れ、俺をねぐらへと連れ帰った。
以来、俺は師匠のねぐらに住み込む形で、新たなる生活にスタートラインを切った。
一日に三度の飯。
温かくて安全な寝床。
まるで天国に来たみたいだった。
ただ、一点を除いては。
「職業訓練の、時間だ……」
その言葉を合図に師匠は俺を大自然に放り投げては、圧倒的暴力で捻じ伏せてくるのだ。
「ぐ……ぁ……!」
「醜くても、足掻け……傷は……ナノロボットで、治癒できる……」
季節外れに紅葉した草地。
緑の混じった血生臭い身体を、震わせる。
赤黒く染まった左拳とナイフが、俺の次なる一手を待ち望んでいる。
「理人……こんなもの、だったのか……?」
「ま……まだだッ!」
死にかけた蝉を見るような翡翠の半目に、堪らず啖呵を切って大地を蹴り上げた。
けれど、動きがあまりに直線的だ。
突き出された右脚に顎を砕かれたと思ったら、俺は、柔らかい膝上に寝そべっていた。
ひたすらに、目覚めては打ちのめされを繰り返す。
痛い。苦しい。
それでも、すべては強者になるためだ。
そう思えば、あらゆる訓練は息を吸って吐くようなものだと思えた。
そんな調子で日々が続き、俺は14歳を迎えたらしい。
その夜、俺はいつものように布団へ潜り込もうとしたところ、軽い衝撃が肩を響いた。
「……理人」
振り返ると──溢れ出す蒸気。
滑らかな鎖骨が、白霧の向こうで黒いパジャマに砂浜みたく輝いている。
「師匠、どうした」
端的に聞けば、色白の両手は、バスタオルをぎゅっと握り込んだ。
「……あ、あぁ……その、だな……」
フードの代わりとばかりに、タオルを被って隠れた翡翠の瞳。
桜色の唇はもごもごと、何事かを言い淀む。
師匠が言葉に詰まるのは珍しいことではない。
俺は温かい紅茶を淹れて、ダイニングテーブルにカップを2つ置く。
向かい合った金色の長髪は、整った顔を深く伏せた。
「今まで、黙っていたが……私の仕事は……『世界の秩序を乱す悪人』の抹消、なんだ……」
それは、罪人が告白するような歯切れの悪さだった。
「一目……見た時から、思った……お前には才能があると……」
「だ、だが……もし、この仕事が嫌なら……わ、私は、理人に無理強いは──」
「──師匠」
思わず言葉を割り入る。
恐ろしい判決を待つように、翡翠の半目が、ぎゅっと世界を閉ざす。
「俺にとっての当面の目標は、師匠と同じ景色を見ることだぞ」
刹那、翡翠の半目が、ハッキリと見開いた。
強きに従い、強きを尊び、そして強きを挫く。
あの夜、師匠の放つ輝きに目を焼かれた俺は、今も変わらない。
「そ、そう……か……」
逃れるように、左右へ泳ぐ翡翠の瞳。
細い指先は暫し宙を彷徨って、絹糸のような黄金の毛先を編むに落ち着く。
やがては、カップを手に取って、紅茶を一口。
桜色の唇がむず痒そうに動いて、黄金のまつ毛を緩く伏せた。
「……その……ありが、とう……」
深く深く吐息を鳴らした師匠は、確かに、満足したようだった。
それから1年の間、俺は師匠と共に彼方の楽園……共栄都市での日々を送る。
『仕事』がない日は師匠と訓練。
『仕事』がある日は師匠に付き添って暗殺。
当たり前のように明日がやって来た。
師匠とねぐらへ帰り、飯を喰らっては眠りにつく。
徐々に日常が、翡翠色に染め上げられていく。
やがては、師匠と過ごす明日が来ることを、訳もなく信じ込むようになって、
だからその朝、俺は『1つの結末』を、信じられなかったのだろう。
「……師匠?」
師匠はとある『仕事』に出掛けたきり、二度とねぐらの扉を開かなかった。
次回の投稿日は8月11日の月曜日となります。
それでは、また3話でお会いしましょう!