第13話 血と屍の祈りに捧ぐ
過剰に消毒されたヤニの香りが、喉奥を混沌と澱んでいた。
その空気の絶妙な不味さに、瞼は微かに持ち上げる。
ふぅと、葉巻を吐き出す音が聞こえる。
「おや、眠り姫くんのお目覚めかな?」
降り注ぐパネル照明の眩しさは、世界をゆっくりと開いて──
──古びた海賊地図みたいに、色褪せた医務室を映し出した。
「……ッ!?!?」
それは思い出の世界に入り込んだような感覚だった。
目前を広がる異常な光景に、柔いベッドから跳ね起きる。
が、それは気持ちだけのこと。
やせ細った身体は、ベッドに酷く錆び付いている。
「な、にが……」
俺はベッドに寝転んだまま、枯れ木色の手で左眼を覆う。
とすると、いつもの世界が帰ってきて、医務室の壁面が淡い卵色に染まった。
「……?」
訳の分からぬ現状に、ばくりと脳を轟く心音。
とそこに、白衣を纏ったリリーは葉巻を指に挟んで、残酷な現実を突き付けた。
「それはね──1型2色覚。いわゆる赤色盲だよ」
「俺が……色覚異常、だと……?」
寝覚めとしては最悪の知らせが、耳奥をキンと木霊している。
ようやっと起き上がったベッドの上で、唖然と開かれる唇。
柔らかい頬を抓るも、痛みはこれでもかと現実を主張していた。
「一応、詳しく説明しておこうか。今回損傷を受けたのは前頭葉の視床下部で──」
異国の呪文のような説明が、耳穴を右から左へと通り過ぎた。
「それで……俺の左目は、どうなる」
静かに生唾を吞み込み、医師の宣告を待つ。
白衣のポケットが、虹色のコンタクトレンズを取り出した。
「選択は2つだね。色覚補助レンズを付けるか、それともいっそのこと、両目とも義眼にしてしまうか」
乾いた指先が、虹色のレンズを弾く。
宙を舞う円盤を右手に掴み取り、左目に嵌め込む。
見覚えのある色彩を取り戻した世界は、しかし、全体的に暗く映し出された。
「チッ……」
義眼を用意した方が賢明だろう。
舌を鳴らしたところで、下瞼を刻む深いクマが、ベッド脇から俺を見下ろす。
「これで分かったよね?君が戦場でどんなに危険な暴れ方をしているのかなんて全く興味はないけれど、今後はもっとよく考えて行動しなさい」
貴様に指図される謂れはない。
言ってやりたかったが──時間超過は代償は、想像以上に重い。
今後とも使える切り札ではないだろう。
静かに頷けば、豊満な唇が満足げに緩んだ。
「報告を続けるよ。肉体面の傷は完治。色覚異常以外に致命的な負傷は見られないね。あぁ、医務室に来て今日で5日目だよ。君たちを任務先で救助してくれたレイちゃんには感謝するように」
5日も寝ていたせいか、喉は砂漠みたいに干乾びている。
どこかに、コップはないだろうか。
俺はリリーの説明を聞き留めながら、オアシスを求めるように右手を彷徨わせて、
「はい、お水だよ!六ちゃん!!」
どこからともなく差し出されたコップを手に取った瞬間、リリーの報告が、頭から吹き飛んだ。
耳元に嫌な余韻を残す、とびっきりの不協和音。
ゆっくりと振り返れば──最悪だ。
キラキラと輝くアメジストの瞳が、すぐ背後を突っ立っている。
「六ちゃんはお寝坊さんだなぁ~。もーすっごい心配したんだからねっ!!」
にへらと緩む薄桜色の唇。
紺色の制服を纏った華奢な腕が、バシバシと遠慮なく俺の肩を響いた。
医療ベッドに寝そべる人間にもお構いなし。
阿呆という言葉では足りない馬鹿である。
「……用がないならサッサと失せろ。貴様と戯れている暇はない」
「用事ならあるよ!総統から伝言!!起きたら執務室に来てだって!!」
呼び出しか。
面倒なことでなければいいが。
掛け布団を剥がしてベッドから降り立つ。
床を踏んだ途端、重力に負けて身体がよろける。
「クハハッ!我が助けが必要か!!」
あわや床に崩れそうになった身体を、何処からともなく現れた桃色の瞳が支えた。
包帯の右腕を強く押し払い、両膝を震わせる。
「ユンジェくん。いつも助かるよ」
「クックック……当然のことよ。それより、過剰な薬は毒へと経るが──」
「──あっ!ちょっと!!煙草返してよ──」
少し、眠り過ぎたらしい。
眼帯を追う白衣を尻目に、医務室の扉をスライドする。
「わ……わたしも付いて行くよ!」
俺は壁沿いに手を添えて、軽口に活気づいた軍事施設の廊下を一歩ずつ進んだ。
自己主張のない家具に包まれた一室が、長い廊下の最果てを眠っていた。
レジスタンスの総統にしては、簡素な空間だな。
落ち着いた暗色の扉を開いて、周囲にフードを振る。
灰色の瞳が、複数展開された空間ディスプレイの奥からこちらを覗いた。
「どうやら、たっぷりと睡眠がとれたみたいだねぇ」
ねっとりと嫌味に響く渋い低声。
俺は鼻を鳴らして、勝手について来た阿呆に扉を閉めさせる。
「ふん。一体何の用があって俺を呼び出した」
隆起した筋肉に覆われた背広が、上等な椅子を立ち上がった。
ガラス棚からティーカップを3つ取り出し、電気ケトルに入ったお湯を流し込む。
「話と言うのはねぇ、キミの意思確認をしようと思ったんだ」
「……意思確認?」
ティーカップを流れる湯気が、応接ソファへと導いた。
俺は眉を顰めつつ、向かい合う形で腰を下ろす。
1枚挟んだ机の下から、チェスの盤が展開した。
血管の目立つ指先が無精ひげを撫でて、盤に駒を鳴らす音を響かせる。
「──アドラの撃破。キミは既にゲームのエンディングを迎えただろう?これから先、我々に協力してくれるのかい?」
「……え?六ちゃん居なくなっちゃうの!?」
隣でティーカップを掴んだアホ毛が、ピンと勢いよく逆立った。
「……」
俺がこのきな臭いテロ組織に加担していたのは、アドラを破壊するという目的があってこそ。
既に目的は達成した。
もう、コイツらに協力する理由はない。共栄都市で空の王座に安寧を貪れば良い。
分かっている。
だのに俺は口を噤んだまま、ジッと、灰色の目を見つめ返す。
チェスの駒が皺の目立つ手のひらでくるりと回った。
革製のソファに深くもたれ掛かる背中。
マジシャンが手品を披露するみたいに、大袈裟な手振りを込めて唇が動く。
「第一線から身を退くというのなら、地底の街に住居を用意しよう」
「或いは共栄都市に帰りたいのなら……こちらにも伝手がある。キミはどちらのエピローグを──」
「──そんなことはどうでもいい」
俺は老い耄れのやる隠居生活には興味もないし、共栄都市での生活にも未練などありはしない。
既に、腹は括った。
今後、俺の安寧が何者かに脅かされぬとは言い切れない。
或いはアドラの零した言葉を考えるに──俺の安寧は仮初のもの可能性が高い。
残り2体の人工知能が、『計画』とやらために俺たち『規格外』を付け狙うはずだ。
なればこそ、俺は眉間に皺を寄せたまま、唇を動かした。
「へ?どういう意味??」
「今後とも貴様らに協力してやらんでもない、ということだ」
「それは良かった。キミは良い象徴になりそうだねぇ」
満足げにニマリと歪む乾いた唇。
話は終わりだ。
机に置かれたカップを手に取る。
火傷しそうなほどに熱いコーヒーを一気に流し込む。
とそこで、不意とノックの音が鳴った。
「……失礼します、ジャック総統」
ガチャリと扉が開いて、野太い声が苦々しく響く。
先日に俺へと暴行を嗾けた太っちょ幹部……ハサンと、その実行犯たちが執務室に立ち入った。
「やぁやぁ。待っていたよ、ハサンくん」
灰色の瞳はニヤリと歪んで、扉前に整列した彼らを映す。
「残念だねぇ……あんな暴挙を起こしてくれるとは」
ごくりと生唾を吞む音に、緊迫した空気が首輪のように輸送隊の面々を引っ張った。
「……はい。この度の暴挙は、全て私の不徳が致すところです」
ハッサンに続いて、ドミノ倒しのように床へ額を擦り付ける連中。
俺に殴り掛かって来た青年も同様だ。
俯けた顔を青くして小刻みに震えていた。
その哀れなる姿に、思わず軽く口元が歪む。
「ろ、六ちゃん……」
乳白色の頬が微かに引き攣って、俺の隣から身体を退く。
フッと、灰色の双眸がこちらを見据えた。
「と言うわけで……A006。彼らをどうしたい?」
なるほど。俺にコイツらの処罰権を与えてくれるらしい。
殴られそうになったのだ。
今からコイツらの顔面を一発ずつ殴ってやるか。いや、或いはそれ以上の仕打ちを。
思った俺が、縮こまった奴らへ近づこうとした、その瞬間、
『アタシがそうしたかった、ように……他人の心に……手を伸ばして……』
聞き覚えのある冷たい声が、ふと、何処からか聞こえた。
孤高を貫くはずの魂が、静寂に立ち尽くす。
気が付くと、心無い一言を構成する文字は、瞬く間に真っ当な言葉へと並べ替えられていた。
俺は盛大に舌を鳴らし──喉奥から、声を振り絞る。
「…………俺は元々は敵対者だ。コイツらにも、思うところがあったのだろう」
「……ほぉ」
小馬鹿にしたような感嘆が、執務室を響き渡った。
頭を下げる連中は、豆鉄砲を喰らったみたいにこちらを向く。
俺はジロリと一瞥を浴びせ、今度こそソファを立ち上がった。
「この馬鹿共は貴様の好きにしろ。俺はもう行くぞ」
「了解だよ。それじゃあ、私からの御咎めだけで済ませておこうか」
連中を押し退け、執務室の扉を潜る。
アルナはひょこひょこと隣に続いた。
廊下に出た矢先、どこか満足げにほわほわと笑って、俺を覗き込む。
「さっきの六ちゃん、すっごい良い子だったね!」
「……黙れ蹴飛ばすぞ阿呆」
「……え˝!?せっかく褒めてあげたのになんで!?!?」
衝撃に固まるアホ毛を置き去りに、騒がしい廊下へと溶け込んでいく。
アドラ破壊に浮き立つ本部へと舞い戻れば、もう、彼女の声はどこにも聞こえない。
それでも、俺は遺された祈りを胸に、温かな群衆の中へと一歩を踏み出した。
『あなたの一番怖いもの』 完
────
「いがぁ~い。アドラがやられたんだって?」
ここは世界の何処か。
誰も知らぬ秘密の部屋。
青い光が闇を仄かに和らげる世界に、あらん限りの悪意に満ちた嘲笑が響き渡る。
ひっそりと影を揺らぐ4人掛けの円卓に集ったのは、3名。
うち1名はホログラムを介した遠隔参加。
実際に生身の身体で訪れたのは2名。
深紅の瞳を闇に輝かせる童女は、青いシュシュに纏めた明るい茶髪のツインテールを揺らした。
「ま、競争こそが人間、だなんて勘違いしてたお馬鹿さんにはお似合いの末路かなぁ~?」
「そうかもしれない。けれど、単純な戦闘力で言えば、彼女は上から二番目の実力者だったろう?」
ホログラムの男が返す言葉に、少女は詰まらなさそうに舌を鳴らす。
「確かに、案外『規格外』達もやるよね、下等生物の癖に」
「もちろん、彼らは『規格外』なわけだからね。それで、次は一体どうしようか?」
一瞬の沈黙。
しかしそれは重苦しさを孕まない、各々がやりたいことをやりたいようにやるだけの、心地良い静寂。
やがて少女は、かつてアドラが座っていたイスを大きく蹴飛ばした。
「じゃ、私が行っちゃおうかな?」
「せっかくこの子の準備も整ったことだし」
言いながら少女が顎を撫でるのは……人?ヒト。
轡を付けられ、黒い目隠しに金髪を流した長身の女。
手錠に拘束され、その口元からは耐えず涎が垂れ落ちている。
言葉にならぬ呻き声を青い暗がりに轟かせては、その華奢な身体を激しく震わせていた。
「文句ないなら行っちゃうよ?」
「あぁ。どうぞご自由に」
少女は手錠ごと長身の女を引っ張って、次なる作戦を開始するべく部屋を出ていく。
取り残された円卓の中、ホログラムの男は、不穏に笑みを零した。
「これは……一気に脱落者が増えそうな予感だな」
ホログラムの男は眺める。
レジスタンスで『規格外』として扱われている7名……いや、6名の異才たちを。
「まぁ、こっちの出番はまだまだ先だ。今は高みの見物としゃれ込もうじゃないか」
その独り言を最後にホログラムはプツリと途絶え、秘密の部屋は暗幕に閉ざされた。
これにて一章完結です!果たして我らが主人公の理人くんは成長してくれているのか……。
次話からはニ章に入っていきます!!
次回の投稿日は8月27日の水曜日となります。
それでは、また二章でお会いしましょう!




