平凡な事務員、天使さまとパンを食む
今日が休みで本当によかった。
カーテンの隙間から差し込む太陽の光に目を細め、俺はため息をつき、心からそう思った。
目が覚めるとベッドの上で、案の定、目の周りは涙の跡でパリパリだった。
ウィリアムの姿はなかったが、ご丁寧にも、俺が急に倒れたことと、ベッドに魔法で移動したことが書かれた書置きが机の上に置かれていた。
弱みを握られたようで気分が悪かったが、夢の中まで見られたわけではないのだから、単純に彼の優しさと判断して少しだけ感謝した。
シャワーを浴びに行き、身支度を整え、椅子にかける。
夢のことは驚くほど鮮明に覚えていて、その間幾度も反芻した。
ショックもあったが、幾年ぶりに流した涙は自浄作用があったようで。
俺のもやもやが取れるには十分だったようだ。
「・・・大人にならないといけないな。」
無意識とはいえ、自分の人生を他責にしていたことを恥じてつぶやく。
大人になるの意味を初めて知った気分だ。
「グレルは十分オトナだと思うけど?」
背後からの唐突な声に、びくっと反応してしまう。
振り返ると、そこには馬鹿に長いフランスパンが顔を出す大きな紙袋を抱えた、
同居人、もといウィリアムの姿があった。
「朝ごはんなんだけど、一緒に食べない?」
フランスパン越しに顔をのぞかせ、晴れやかに笑う。
「それ、一人で食べるつもりだったのか?」
「いんや?昨日グレルが急に倒れるからさ。お腹空いてるかもって思って」
「俺は子供か!?」
反射的に回答するが、腹の虫も一緒になってしまった。
「ほら?やっぱり」
「いや、これは。夜を食べてないからで」
そんなやり取りの中で、ウィリアムは紙袋から、チーズやらバターやらトマトやらを取り出し、パンとともに慣れた手つきで切り分け木皿に並べていく。
「手際、いいな」
「そお?ありがと」
あっという間に整えられた朝食に、俺は飲み物を食堂からもらってこようと立ち上がった。
「ああ、いいからいいから」
「何かいるだろ?」
「僕を誰だと思っているんだい?」
俺を制止し、その手でカップを机に2つ並べた。
「はい、わんつーすりー」
なんとも間の抜けた声で、これまた、意味があるのかないのか分からない、かすかな音がなる指パッチンで、カップの中には湯気が立ち上るコーヒーが現れた。
「このコーヒー、食堂のやつ」
「はぁ?窃盗じゃないか」
「大丈夫、ちゃんと月額払っているから」
サブスク、サブスク、と訳の分からないことを言いながら、ウィリアムはカップの中身をちびちび飲む。
「転移魔法をコーヒーの為にわざわざ使うんだな」
「うん、僕、これしか使えないから」
こんなしょうもないことにわざわざ高度な転移魔法を使うなんて、という少し嫌味が入った俺の言葉に、耳を疑うような回答が返ってきた。
「これしか使えない?」
「うん、僕、基礎的な四元素魔法も、治癒魔法も、生活魔法も、全然ダメダメだよ?」
「なんだそれ?」
「なんだろね?僕も分かんない」
初耳だった。「王宮の天使さま」が転移魔法しか使えない。そんなことがあるわけないだろう。
魔法省の仕事を転移魔法一本で捌いているとでもいうのか。
「まぁ、無い物ねだりしてもしょうがないしねぇ」
パンにチーズを挟み、口いっぱいに頬張りながら、事も無げに言ってのける。
「それは・・・、学生時代とか、大変だったんじゃないのか?」
言ってしまって、俺はしまったと思う。踏み込んでしまったと。
「大変だったよぉ。自分に期待して、絶望して、諦めて」
踏み込まれたことを気にする様子もなく、気だるそうに天使は語った。
食べなよ、と雑にバターを塗ったパンを俺に押し付けてくる。
「でも諦めて、出来ない自分を許したらさ、不思議と希望が見えてきて。そしたらまた自分に期待ができるようになったんだよね」
押し付けられたパンを俺は頬張った。
自分を諦める。自分を許す。
そんな言葉がウィリアムの口から出てくるとは思わなかった。
「自分が自分を一番見てあげないと」
つぶやくように、彼はそう言った。
それから、俺たちは無言でウィリアムが買ってきたものを食べつくした。
俺は礼を言い、おおよその金額を払おうとしたが、彼は今度奢ってくれと言って笑った。