3話:かつての面影
翌朝、冷たい朝露が草葉を濡らす中、緋色郁姫は早朝の訓練場に立っていた。彼女は目の前で汗を流す兵士たちの姿を見守りながら、自らも剣を握りしめる。日々の鍛錬を欠かさないのは、彼女自身にとっても欠かせないルーティンとなっていた。
「少佐、お疲れ様です」
訓練を終えた兵士たちが次々と彼女に声をかけていく。彼女は軽く頷き、彼らの労をねぎらった。郁姫は、彼らの信頼を感じながらも、どこか心の奥で違和感を抱いていた。
「私は本当に、彼らにとってふさわしい指揮官なのだろうか……」
そんな思いが、ふと頭をよぎる。彼女の心に残る罪悪感は、過去に家族を守れなかったという事実から来ていた。あの日、力を求めたばかりに操られ、家族を失った。そして、その罪を償うために彼女は戦場を渡り歩いてきた。
だが今、彼女は他国の軍に身を置き、別の兵士たちを守ろうとしている。自らの過去を捨てきれないまま、彼女は新しい場所で生きている。そんな彼女の前に、一人の兵士が現れた。
「少佐、お時間を少しいただけますか?」
その声に、郁姫は顔を上げた。彼女の目の前に立っていたのは、まだ若い新兵だった。彼は緊張した面持ちで、郁姫を見つめている。
「どうした?」
郁姫は少し微笑んで、彼を落ち着かせるように優しく問いかけた。新兵はしばらく言葉を詰まらせていたが、やがて決意を固めたように口を開いた。
「少佐は、どうしてこの軍に……いえ、どうして戦うことを選んだのですか?」
その問いに、郁姫は驚いた。彼女は思わず息を飲み、しばらくの間、言葉を失った。新兵の目には、純粋な疑問と、彼女に対する尊敬の念が浮かんでいた。
「どうして、戦うことを選んだのか……」
彼女は自問するようにその言葉を繰り返した。かつて、自分が戦いの道を選んだ理由は、贖罪のためだった。過去の罪を償い、力を正しいものとして使うために。しかし、今はどうだろうか。彼女は、今の自分の行動に、どんな意味を見出しているのかを考え始めた。
「……私は、かつて大切な人たちを守ることができなかった。だから、今度は誰かを守りたいと、そう思っているんだ」
彼女は静かに答えた。その言葉は、自分自身への誓いでもあった。新兵は彼女の言葉に耳を傾け、ゆっくりと頷いた。
「少佐のように強くなりたいです。自分の大切なものを守るために」
その言葉に、郁姫は胸が熱くなるのを感じた。彼女は新兵に向かって微笑み、力強く頷いた。
「君も、守るべきものを見つけたのなら、その思いを胸に抱き続けるんだ。戦う理由は人それぞれだ。だが、自分の信念を忘れずにいれば、どんな困難にも立ち向かえる」
彼女の言葉に、新兵は感激した様子で深く頭を下げた。そして、その背筋を伸ばして敬礼する姿は、彼女の心にかすかな希望をもたらした。
「ありがとうございます、少佐。自分も頑張ります!」
新兵が去った後、郁姫は静かにその場に立ち尽くしていた。彼の言葉が、彼女の心の中に何かを呼び覚ましたようだった。かつて、自分にも守るべき家族がいた。彼女は彼らの笑顔を思い浮かべながら、ふと涙がこぼれそうになるのを感じた。
「私は、まだ彼らを忘れていない……」
彼女はそう自分に言い聞かせる。過去の傷は決して癒えることはない。だが、彼女の中には確かに、失われた家族の面影が残っている。そして、その面影が彼女を強くし、戦い続ける力を与えてくれているのだ。
郁姫は剣を握りしめ、深呼吸をした。彼女の中で何かが少しずつ変わり始めていることに気づいた。戦いの中で見つけた守るべきもの、仲間たちの信頼、そして新兵のような若い命を守りたいという思い。
「私は、もっと強くならなければならない」
彼女は自らにそう誓った。自分の罪を乗り越え、未来を切り開くために。茜色の戦姫として、そして一人の人間として、彼女は成長し続ける。
その時、遠くから慌ただしい足音が聞こえてきた。副官が彼女のもとに駆け寄り、息を切らしながら報告する。
「少佐、急報です!敵軍の偵察部隊がこちらに接近中です!」
郁姫は瞬時に表情を引き締めた。休息はここまでだ。彼女は剣を腰に差し、迅速に命令を出す。
「全軍、即時に迎撃態勢を取れ。敵を近づけさせるな!」
彼女の指示に、兵士たちは素早く動き出した。郁姫もまた、その中に加わり、先頭に立って敵を迎え撃つ準備を整えた。彼女の中には、再び戦いの炎が燃え上がっていた。
「私は、誰一人として失わせない……」
郁姫は決意を胸に、戦場へと足を踏み出した。茜色の空の下、彼女の戦いは続いていく。過去を超え、未来を掴むために。戦姫として、そして人間として、彼女は歩みを止めない。