2話:揺れる思い
戦いの激しさが和らいだ夕暮れ、緋色郁姫は静かな夜営地に戻ってきた。彼女の周りには、休息を取る兵士たちの姿がある。彼らは傷を癒し、戦闘で疲れた身体を休めている。焚き火の炎が揺れ、疲労と安堵の表情が入り混じる。
郁姫は、一人離れた場所で腰を下ろし、遠くに輝く星を見上げた。戦いの喧騒が消え去った今、彼女の心には静かな孤独が広がっている。彼女は剣を傍らに置き、その冷たい感触を確かめながら、今日の戦いを振り返った。
「少佐、こちらにいらっしゃいましたか」
副官の声が聞こえ、郁姫は顔を上げた。彼は彼女に向かって敬礼し、軽く頭を下げる。郁姫は微笑を返し、彼を自分の隣に座るよう促した。
「どうした?何か報告でも?」
彼女の穏やかな声に、副官は首を振った。
「いえ、ただ少佐の様子が気になりまして……」
彼の言葉に、郁姫は少し驚いたような顔をした。彼女は普段、部下たちに感情を見せないよう心がけている。冷静で厳しい指揮官としての姿を保つことが、彼女の務めだと信じてきた。
「私のことなら心配いらない。私は大丈夫だ」
彼女は短く答え、再び空を見上げた。だが、副官はその言葉に納得した様子はなかった。彼は焚き火の炎を見つめながら、静かに話し始めた。
「少佐、先日の戦闘で負傷した兵士たちが、少佐に感謝していました。少佐が的確に指揮を取ってくれたおかげで、命を落とさずに済んだと」
郁姫は彼の言葉に耳を傾けながら、わずかに眉をひそめた。彼女にとって、命を守ることは当たり前のことだった。だが、それが兵士たちにとってどれほど重要な意味を持つのか、改めて実感させられた。
「私が彼らを守るのは当然のことだ。だが、感謝されることではない。私は指揮官として、彼らの命を預かっている」
彼女の声はどこか冷たく響いた。だが、副官は微笑を浮かべ、首を横に振った。
「それでも、少佐のおかげで命を救われたことに変わりはありません。兵士たちは、少佐を信頼し、敬愛しています」
その言葉に、郁姫はしばし沈黙した。彼女は心の中で、自分が本当に彼らの信頼に応えるにふさわしい存在なのかを問い続けてきた。過去の罪を背負い、未だに自分を許せないまま、ただ戦い続けている。
「……そうか」
彼女は小さく呟き、優しい笑顔を浮かべた。その笑顔は、彼女が心の中で長い間忘れていた温かさを思い出させるものだった。
「彼らの信頼を裏切らないように、私も精一杯努めるよ」
副官はその言葉に満足したように頷き、立ち上がった。
「少佐、少しお休みになられては?今日の戦闘で疲れたはずです」
彼女はその言葉に感謝を示し、軽く頭を下げた。
「ありがとう。少しここで休むよ」
副官が去った後、郁姫は再び夜空を見上げた。静寂の中で、彼女は心の奥底にある感情に向き合う。かつては、ただ戦いに身を投じることでしか自分を保つことができなかった。だが、今の彼女には、守るべきものがある。
兵士たちの命、そして彼らの未来。その責任を背負いながらも、彼女は少しずつ変わり始めている自分を感じていた。過去の罪に縛られながらも、彼女は今を生き、仲間と共に歩む道を選んだ。
「私は、変わることができるのだろうか……」
彼女の呟きは、夜風に乗って消えていく。だが、その心には、小さな希望の灯がともり始めていた。罪を背負いながらも、彼女は未来に向かって進み続ける。戦姫として、そして人間として――。
郁姫は静かに目を閉じ、深い眠りに落ちていった。彼女の心にある傷はまだ癒えない。だが、彼女はそれでも戦い続ける。守るべき仲間のために、そして自分自身のために。
茜色の空の下で、郁姫の新たな物語が始まろうとしていた。