卒業式、あなたのもとへ転生する。
「槙田くん、好きです」
槙田くんは、ゆっくりと一度瞬きをした。
奥二重のシュッとした目が、柴犬みたいでとても可愛い。
「実は私は、十年後から転生してきたのです」
今度は短めに二度瞬きをした槙田くんが、
「はい?」
眉を寄せて首を傾げた時、二人きりの廊下に鐘の音が響いた。
高校の卒業式があと五分で始まることを告げる、鐘の音が。
*
私が槙田くんのことを好きになったのはさかのぼること一年と四か月前、高校二年の秋だ。
だけど同じクラスになった春ごろから、密かに彼のことは気になっていた。んだと、思う。今となっては。
犬っぽい顔立ちの、バスケ部のひと。
前髪を立てた黒い短髪で、身長はクラスの中では高めだけど、バスケ部にしたら真ん中くらいらしい。
普段は淡々として、悪ノリしすぎたりむやみに目立つことはしない。女子にちょっかいを出すようなこともないけれど、噂では、バスケ部マネージャーの一年生と付き合っているらしい。
バスケ部には身長180㎝をゆうにこえた人とかバスケで大学推薦の話が来るようなスターみたいな人が他にいるし、みんなでクラスの格好いい人について話題にする時も、必ず名前が挙がる固定メンバーに入っているというわけではない。
そのことが、私にはとても不思議だった。
男子たちといる時に、目を行方不明になるくらい細めた笑顔とか、校庭の掃除で、面倒くさそうにジャージの襟に顎を埋めつつ竹箒を引きずるテンポとか。昼休みの自動販売機の前で、真剣にコーヒー牛乳かバナナオレかで悩んでいる横顔とか、購買で総菜パンを握りしめたまま慌てたようにズボンのポケットを探る仕草とか。
私はいくらでも、槙田くんの印象的な姿を上げることができるのに。
だけどなんだかもったいない気がして、そういうことは、私だけの秘密にしておきたくもある。そういう一連の気持ちに名前を付けてしまうことが、怖くもある。
だって、運動部のレギュラーで、なおかつ彼女がいるような人なんて。
図書委員で手芸部で、教室と図書室と家庭科室の間を行ったり来たりして、女子としか会話をしないで一日を終わらせることがデフォルトなような学校生活を送る私にとっては、十分雲の上のリア充なんだもの。
そんな槙田くんと、クラス展示(手作りジェットコースター)の準備で遅くなった文化祭の前日、帰り道が偶然一緒になった。
「あれ、朝比奈さん歩き?」
すっかり陽が落ちた校門で自転車に跨ろうとしていた槙田くんは、私を見てイヤホンを外した。
「うん。バスがしばらく来ないから、駅まで歩こうかなって」
「そっか。なら送ってく。俺も駅前通るし」
さらりと言ってのける。
準備で遅くなった日は、女子は男子が送ってやれよー。先生はそう言っていたけれど、当たり前のように並んで歩きだした槙田くんに、やはりリア充の人は違うなと、私は動揺を隠そうと口をもごもごさせた。
自転車を引く槙田くんと、私。
ふたり並んでゆっくりと、駅へと続く坂を下りていく。
「朝比奈さんさ、気合い入ってたよな。女子はみんな当日の衣装とか作ってたのに、朝比奈さんだけ床にはいつくばって支柱固定してたし」
くっと笑う。槙田くんの笑顔をこんなに近くで見たのは初めてだ。
「わざわざジャージまで着てさ」
いたたまれない気持ちでセーラー服の袖を引っ張る。この一週間でぐっと肌寒くなった。
「槙田くんだって、出発位置を一センチでも高く出来るようにギリギリまでこだわってたじゃない」
「え、だって俺ああいうの好きだし。それに、少しでも高い方が勢い出るだろ? その方がよくない?」
よくなくなくないと思う。むしろすごく、すごくいいと思う。
そもそも、槙田くんみたいな運動部の人たちは、準備なんか参加しなくてもいいはずなのだ。
準備期間は部活優先で、当日だけ現れてジェットコースターに乗って写真撮って笑いながら去っていって、それでも表彰式ではステージに立って泣いたりしちゃうような、そんな立ち位置でも許されてしまうかもしれないのに。
だから、頭にタオル巻いてジャージのズボンをひざ下までまくり上げて、メジャー片手に細かく木材を切る槙田くんの姿には驚いた。思わずつられて、ひっそり支柱を固定し続けてしまったほどに。
そんな私のことにまで、気付いていてくれていたなんて。
それから私たちは、最近読んだマンガの話を少しした。
槙田くんが好きなマンガ家の、今ではもう絶版になっている初期連載作の単行本が家にあると言うと、すごくうらやましがられた。
年の離れた兄の存在に、生まれて初めて感謝した。
だけど駅前に着いたとき、槙田くんはスマホを出して何か返信していて。
きっと噂のマネージャーの彼女だろう。この後会うのかもしれない。
分かっていたことだからショックなんて受けていないことを自分でも確認するために、私は笑顔を保ったまま、明るい声で言った。
「もう行くね。ありがとう」
「あ、待って」
槙田くんはリュックのポケットから何かを出して、袋をぴりっと破ると中身を両手で揉みこんだ。私の手首を掴み、上向かせた掌の上にそれをぽんと載せる。
「冬から入れっぱのやつで悪いけど」
とっさに何も返せないでいる私に、
「じゃ、明日。俺、気合入れてジェットコースター押すから」
暗がりの中へ滑るように去っていく自転車の背中を見送りながら、私はしばらくそこに立ち尽くしていた。
掌の上の使い捨てカイロから、じんわりした温かさが伝わってくる。
槙田くんの、温かさだ。
掌から、それが全身に広がっていく。
ぐるぐる回って心臓の温度を、ぽんぽんぽんぽんと上げていく。
その日、私は槙田くんを好きになった。
好きにならない理由がないとも言えた。
*
それから、私たちは仲の良い友達になった……わけでは特にない。
ジェットコースターは人気を博し、私たちのクラスは二年生六クラスの中で人気投票一位を取った。
「やっぱりあの一センチが効いたな」
打ち上げの時にボソリとささやかれて顔を上げると、槙田くんが隣に立って、微かにニヤリとしてくれた。
翌日、私は兄の部屋の本棚からマンガをごっそり抜き取ってきて槙田くんに渡し、それを返してくれる時に槙田くんはそのマンガ家の最新連載の、出たばかりの一巻を貸してくれた。
それからその連載の新刊が出るたびに貸してくれるようになって、それは三年生になってクラスが離れてしまってからも続いた。
新刊を槙田くんが渡してくれて、返す時に、私が一言感想を言う。槙田くんはそれを聞いてニヤリとして、自分の考察と次の巻の予想を口にする。私たちの会話は、それでおしまい。
三か月に一度出る単行本は、現在六巻だ。
その六冊だけが、この一年四か月の私たちの、細い細いつながりだった。
マンガは大ヒットとなって、息もつかせぬストーリーが続いている。
だけどここから先の展開を、彼から借りる単行本で私が知ることはないだろう。
今日、私たちは卒業してしまうのだから。
式の直前、胸章を取りに戻った私が教室に入ろうとした時、隣りの教室から槙田くんが一人で出てきた。
私を見て、いつものように軽く首を傾けて挨拶をしてくれた、その一瞬。
好きになってから一年と四か月。何もできなかった。何かしなきゃと思いつつ、いつもその場で足踏みをしながら一人で焦燥とせつなさを募らせるだけだった、そんな私は、自分で思っている以上に片思いをこじらせていたんだろう。
だから、とんでもないことを口走ってしまっていたのだ。
「槙田くん、好きです」
言った瞬間、脳天から切り裂かれたように我に返った。
槙田くんが、きょとんとこちらを見ている。
彼の唇が開いてしまう前に、困った顔をさせてしまう前に、この状況をどうにかしなくてはいけない。
脳みそが零コンマ一秒で熱を帯びるほどに高速回転して、続けてとっさに出てきた言葉が、衝撃のこれだったのだ。
「実は私は、十年後から転生してきたのです」
*
「十年後から、転生」
槙田くんが、慎重な口ぶりで繰り返す。
「てことは、今俺の目の前にいる朝比奈さんの……えと、中身は二十八歳の朝比奈さんってことで合ってる?」
自分の発言に誰よりも呆然としていた私は、彼の表情にかろうじて知性を取り戻した。
崖っぷち・やぶれかぶれ・ひらきなおり。そんな単語が頭の中をバインバインと跳ねている。
だけど、槙田くんは笑いも怒りも気味悪がりもしないで、いつも通りの表情で、私の返事を待ってくれていた。
「じ、実はそうなの。今朝起きたら意識だけが、十八歳の身体に入ってしまっていて」
「よくある、あれか」
「うん、とてもよくある、あれ」
あまりにも話が早いのには理由がある。
私がこの一年半、三か月おきに槙田くんから借りていた例のマンガも、ちょうどそれと同じような設定だったのだ。
なるほど、と答えて槙田くんは、腕を組んで左手の親指と人差し指で顎を触った。
それから慎重な口ぶりで、一語ずつ確かめるように言う。
「で、それでなんで俺に……えっと、さっきみたいなことを言ったわけ?」
最後のチャンス・一生の思い出・失うものはなにもない・毒を食らわば皿まで・四面楚歌(?)。
今度はそんな単語たちが、私の背中をぐいぐいと押してくる。
「私、今思うと……あ、二十八歳になった今思うとってことだけどね? あの、ま、槙田くんのことが……す、好き……だったのね? 高校生の時」
言うや否や、私は両手をぶんぶんと振った。
「あ、でもちがくて。十八歳の私にはね、そんな自覚ないの。まったく無自覚なの。そういういやらしい目で見ていたわけじゃないから安心して!!!」
すごい。頭の回転がすごく早くなったというのか、頭がおかしくなったといえばいいのか。
私の意識はものすごく高いところから、高速でまくしたてる私自身を見下ろしているようだ。これも一種の幽体離脱だろうか。いや、転生だった。
「十年後の私はね、ちゃんと恋人もいるんだけれど、こう、マンネリ気味というか、彼との関係に悩んでいるんですよ。連絡もないし放置気味で、もうお終いかもって。そうしたら、二十八歳の今日、卒業から十年だって思ったら、唐突に槙田くんのことを思い出して、で、気付いたら転生……ていうか、意識だけがタイムリープしていたの」
すごい。なにこれ。本当に今、私が作った物語だろうか。
ちゃんとした二十八歳っぽい事情な気がする。ちゃんとした二十八歳なんて知らないけど。
「それで、えっと……だ、だから」
「……だから、俺に告白出来たら満足して、元の身体に戻れるんじゃないかって考えた?」
「そうそれ!! そうなんです!!!!!」
思わず人差し指を突きつけてしまう。すごい、槙田くんは天才ではないだろうか。
だけど槙田くんは、真面目な顔で続けた。
「だけど、戻っていないんだよな? 今もまだ、朝比奈さんの中身は二十八歳なんだろ?」
「えっ……あ、そ、そうかも……」
「戻る条件、他に心当たりない?」
槙田くんは冷静で論理的だ。さすが理系。かっこいい。
あのマンガの考察も、槙田くんはいつも角度が高かった。
そう、この一年半、三か月おきに槙田くんと続きを予想していたあのマンガ。
元の時代に戻るには、条件を満たす必要がある。それは、簡単にはできないことで、時空を歪めてしまうくらいに主人公が求めていることは…………。
「槙田くんに、ぎゅっとハグしてもらいたい……とか?」
槙田くんが、驚いたようにこちらを見ている。
うそ。今私、口に出していた……!?
二人して目を丸くして、言葉なく見つめ合った時。
「おい、何してる!卒業式始まるぞ!!!」
廊下の奥から先生の声が響き渡った。
そちらを振り返った槙田くんは、声を落として言ったのだ。
「分かった。じゃ、式が終わったら、バスケ部の部室で」
*
こういう事情があったから、卒業式のことなんてほとんど記憶に残っていない。
式が終わって、友達と写真撮りまくって、寄せ書きを回しあって、みんなで校門を出た後、忘れ物がとかなんとか言って、一人校内に戻った。
さっきバスケ部グループが制服投げをしているのは目に入っていたけれど、それからは槙田くんの姿を見失ってしまっていた。
足元が、ふわふわしている。
本当に、いるんだろうか。
いるはずがないと思う。でも、槙田くんなら、いる気もする。
もしかして。ひょっとしたら。万が一。
神さま。
体育館の裏に並んだ部室棟。
建てつけの悪い引き戸をガガガと開くと、雑然とした部室の窓際に置かれた低いベンチに、はたして槙田くんは座っていた。
黒い学ラン姿のまま両足をまっすぐ伸ばしてスマホをいじっていた彼が、私の方に目を上げる。
「あ、よかった。さっき返事聞きそびれたし、帰ったかと思った。場所、ここでいい?」
「あ、は、はい……」
私は神妙にうなずいて、とりあえず一歩槙田くんに近づいた。
槙田くんの表情は淡々としている。
元々、あまり感情を表すタイプではない人だけれど、一体今の状況を、なんだと思っているのだろう。
それとももしかしたら、槙田くんにとってはよくあることだったりするのだろうか。
転生してきた女の子に告白されることが……しょっちゅうある……世界線だったり、するのだろうか。
「……いいの?」
「なにが?」
「その、私と……そ、そういうことするのって」
「いや、別に……朝比奈さんがいいなら、俺が断る理由とかって、特にないでしょ」
そういう……もの、なんだ、ろうか???
槙田くんは、バスケ部のマネージャーの後輩と付き合っていたけれど、二年生の三学期に、色々あって別れたらしいという噂を聞いた。
色々あってという部分に、めくるめく大人の世界を感じた気がしたけれど、だからと言って槙田くんにとって私は、やっぱり三か月おきにマンガを貸してくれるだけの関係に過ぎなかったのだけれど。
私がもじもじとしていると、槙田くんは「それにさ」と続ける。
「朝比奈さん、せっかく受験も終わったのに、身体乗っ取られてるままじゃ哀れでしょ。早く、十八歳の朝比奈さんに、身体返してあげてくだサイ」
ちょっとぎこちない敬語で言って、ベンチから立ち上がると私に向かって頭を下げた。
胸がきゅっとなる。
ずっと、槙田くんが好きだった。
きっと何も変わらないと、あきらめと共に始まった片想いだった。
その長い指に触れることも、体温を感じることも、隣に座ることすらも、絶対にないのだと思ってきた。
今日は、高校生活最後の日。
何もかもを、この校舎に置いていっていい日。
「ありがとう。それじゃあえっと……お願いします」
必死で心を落ち着けて、私は槙田くんの前に、一歩近づいた。
槙田くんも、唇をふっと結んで私を見る。
しばらく沈黙が続いた。
「えっと……」
「あ、待って。ハグって色々あるけど、どういうのがいいとかある?」
えっ。
私は動揺して真っ白になってしまう。
ハグに色々あるって何だろう。国によって違ったりとか? 初心者向けとか上級者向けとか、そういうのがあるのだろうか。
「えっと、ほら、たとえば」
青ざめたまま立ち尽くす私を見かねたのか、槙田くんはスマホを取り出してベンチに座ってしまった。
少し迷ったけど、槙田くんがスマホから目を上げないまま「これ見て?」と言ったので、勇気を出して隣に座ることにする。
すごい。槙田くんが、肩がぶつかりそうな位置にいる。
「ほらこれ」
画面を見せてくるものだから、さらに距離が近づいた。
心臓がどきどき言っているのが聞こえてしまうのではないかと意識すればするほどに、もっと心臓がどきどき言う。
「バックハグ、小動物系ハグ、寝っ転がってハグ」
「寝っ転がってハグ!?」
声が裏返ってしまった。
槙田くんも、焦ったような顔になる。
「悪い、そういうのじゃないよな」
「ううん、ごめん。あの、でも本当に、初心者のハグでいいの。本当にごめんね、変なことを頼んで」
その下に「セクシーなハグ」という文字が見えて、ぼんっと顔が熱くなった。もう、ちょっと泣きそうだ。
槙田くんも、さっとスマホを伏せる。
「ごめん、なんか変なもん見せた」
「ううん。全然。男の子とハグとかしたことないから、私も任せっきりでごめん」
早口に返すと、槙田くんが両眉を上げて私を見た。
あ、今のは少し間違えたかもしれない。
「もちろん二十八歳の私はハグしまくりだけどね? もう、朝ハグ昼ハグ夜ハグばっかりなんだけど、でも、この十八歳の私としては、という意味で」
早口に弁解すると、槙田くんは息を吐き出した。
「だな、二十八歳だし彼氏いるんだし」
なんだか顔を上げることができない私の隣で、槙田くんはベンチから立ち上がる。
「それじゃ、さくっとハグりますか」
大真面目な顔で言い、両腕を左右に大きく広げる。
「いいの?」
「いいよ、いいって言っただろ」
私も慌てて立ち上がり、スカートを払うと槙田くんの前に立った。
「普通のハグでいいんだよな? 正面からぎゅってやつ」
「はい、まさにそれで。こう、受験合格やったー!みたいな、試合で優勝―!みたいな」
槙田くんは、ふっと笑った。
「そういうテンション?」
私は曖昧に笑う。
緊張しすぎて、とっくにキャパを超えているのだ。もはや、何と言っていいのかよく分からない。
だけど、他にどんなテンションを求められるというのだろう。
「これ、ハグしたら十八歳の朝比奈さんに戻るんだよな?」
「えっ、あ、うん、そうです!」
油断すると二十八歳であることをすぐに忘れてしまう。
私は精一杯二十八歳らしい(?)余裕のある笑みを作ってみた。
「そうしたら、満足するので十年後の世界に戻れますわ」
槙田くんも、ちょっと笑った。
なんだか、愛おしい。
今までよりももっと、さらに上乗せで、槙田くんのことを愛おしいと思う。
たまらなくなって、叫びだしそうで。
ああ、だめだ。また変なことを口走ってしまう前に、本懐を遂げるべきだろう。
のばした私の指が彼の学ランの横腹あたりに触れる。自分で触れておきながらひどくドキッとして、すぐに引っ込めてしまった。
それからもう一度ゆっくりのばして……今度は触れたまま、動かさないで。
「朝比奈さん、顔真っ赤」
言い当てられて顔を上げると、槙田くんと目が合った。
もう笑っていない。なんだかすごく……真剣な、顔をしている。
槙田くんが、私を見ている。槙田くんの視界に、私だけが入っている。
ゆっくりと、私は槙田くんの開いた両腕の下に自分の両腕を通し、そのままぎゅっと抱き着いた。
槙田くんの腕が、私の背中に回る。
最初はそっと添えるように、でもすぐに、ぎゅっと抱きしめてくれた。
胸に頬をくっつけて、私はそっと目を閉じる。
こうしていると、槙田くんはとっても背が高い。胸が広くて、包み込まれているのが分かる。
女の子同士で抱き着くのと、全然違う。
男の子の胸って、硬いんだな。冷たい制服の生地からは、なんだか女の子とは違う匂いがする。
あの日のことを、思い出した。
頭にタオルを巻いて、ジャージをひざ下までめくり上げた姿。去っていく自転車。使い捨てカイロの、じわじわとした温かさ。
とくん、とくんと鼓動が聞こえる。
槙田くんのものなのかな。すごいな、槙田くんの心臓の音?
あ、でもなんだかペースが速いから、やっぱり私のものなのかな。
ドキドキが、だんだん心地よさに変わっていく。
すごい……すごいすごいすごい。ハグって、なんだか生まれなおしていくみたい……。
「朝比奈さんの、恋人って」
槙田くんの声に、私はハッと我に返る。
「はい?」
「二十八歳の朝比奈さんの恋人って、ムカつく奴だな」
なんだかやけに早口だ。
「えっ……な、なんで?」
「だって、朝比奈さんを異世界に魂飛ばさせるくらい不安にさせてるんだろ? だめじゃん、そいつ。すげーだめ」
驚いて顔を上げると、槙田くんはムスリとした顔で私を見下ろしていた。
「そ、そんなこと……ないよ。えっと、困ったひとだけど、いいところもあるっていうか……」
一体私は、誰のことを庇っているのか。
脳内彼氏それも十年後の、という、意味の分からない存在を擁護する言葉を、必死で探す。
「好きなの?」
「す、好き、なんだと、思う……」
「ふーん」
いつの間にか肩に置かれていた槙田くんの両手が、私の身体を自分から不意に引きはがした。
「……俺のことは?」
怖い顔だ。まっすぐに私を見て、怒ったように。
「え?」
「二十八歳の朝比奈さんは、俺のことはもう、好きじゃないわけ?」
その時。
不意に部室の扉の持ち手が、がちゃがちゃと勢いよく回された。
「あれ? 鍵かかってる?」
「誰か持ってねーの?」
「部長じゃね? 俺呼び行ってくるわ」
扉の曇りガラスの向こう、バスケ部の青いジャージの影が数人。
「二年だ」
槙田くんがつぶやいた。
心臓がばくばくと鳴っている。慌てて槙田くんの腕から離れた。
「ごめん。今日は部活ないはずなんだけど。あいつら熱心だな」
槙田くんが私に鞄を渡しながら、扉を背にするように立つ。
「裏側にも扉あるから、そこから出て」
早口に、囁いた。
「すぐ追いかける。校門のとこで待ってて」
槙田くんが示してくれたロッカー裏の扉に、段ボールをまたいで辿り着く。
そっと扉を開いた。眩しい光が目を打つ。
次の瞬間、ガチャガチャと鍵が開く音と、
「あれー? 槙田さん、昼寝でもしてたんすかー?」
「卒業おめでとうございまーす!!」
にぎやかな声と足音を背後に聴きながら、私は息を殺してその場所を離れた。
*
その翌日、私は自宅の自分の部屋の床に正座していた。
したことがないけれど座禅のつもりだ。
悟りの境地とかいうものを開くには、どうすればいいのだろうか。
あのマンガでも、仲間の復讐のために修行を続けた主人公がそういった領域にたどり着いたエピソードがあった。あやかりたい。
昨日部室の裏口から脱出した私は、魔法が解けたように我に返ってしまった。
その結果、とても正門でのんきに槙田くんを待つことなんてできやしなくて、一心不乱に坂を駆け下り、電車に飛び込み帰宅すると、それからずっと、一晩中、一睡もせずにこうやって、無我の境地を模索し続けているのである。
私の異様な様子を、両親も不気味がっていた。
だって、仕方ないと思う。
私は昨日、本来なら高校生活にそのままそっと置き去りにしてこれたはずの一方的な片思いを、無理やりに舞台の上に引っ張り上げて、被害者でしかない槙田くんの優しさに付け込んで一緒に無理やり躍らせて、そしてそれを放置したまま、一人で逃げて帰ってきたのだ。
「平・常・心!!」
油断すると、すぐに感情に飲み込まれそうになる。
制服の匂い、胸の硬さ、思っていたよりずっと上から聞こえる声。囁かれた時に、耳にかかった息の熱さ。
そんなものに心を羽交い絞めにされるようで、息をすることもおぼつかなくなる。
――実は私は、十年後から転生してきたのです。
「ああああ、だめ、思い出しちゃだめ!!」
いっそ、本当に転生してきたんだったらよかった。
本当に中身が二十八歳だったら、きっと上手に飲み込めたのだろう。
やらずに後悔するよりはよかった、なんて笑ってすますことができたはずだ。
だけど、十八歳の私には、とても無理だ。
よかったなんて、到底思えそうにない。
「澪、ちょっと」
「ご飯ならいらない!」
「違うわよ、男の子が来ているの。槙田くんって子、知ってる?」
ひうぅぅぅ、と喉の奥から変な声が漏れた。
*
「バスケ部の加藤がこの近くに住んでて、前にここ通りかかった時、朝比奈さんの家だって教えてもらったことあって。って、キモいよな。いきなりごめん」
上がってもらいなさいよとソワソワしているお母さんの目から逃れて、家の近所の公園まで来た。
古ぼけたブランコと滑り台しかない、とても小さな公園だ。平日の昼間なので、他に人影はない。
「すげ。こういうチェーンタイプのブランコ久しぶりに見た」
ブランコを片手でひと揺らししてから、槙田くんは私を振り返る。
「えっと、今は、中身は?」
「あ、えっと、えっとですね!!」
この公園まで歩いてくる間にものすごい勢いで考えていたことを、早口に説明する。
「あの、今は、十八歳です。昨日は迷惑をかけてごめんなさい」
「別に迷惑とかじゃないけど……二十八歳の朝比奈さんは、もう元の場所に戻っていったってこと?」
恐る恐る、槙田くんの様子を伺う。
笑ってもいない、馬鹿にした表情なんかでももちろんない。
とても素の顔で、私を見ている。
「……あの、二十八歳の私とは、ちゃんと話し合うことができまして……だからもう、納得して、十年後に帰ってくれたので、大丈夫だと思います」
「どこで話し合ったの?」
「え」
「いや、普通に、両方朝比奈さんなんだよな? どんなふうに話すのか興味があって」
どこか遠くで、鶯が鳴いている。ホーホケキョ。ケキョ。
「……せ、精神世界的な、あそこ……ですね。彼女も、納得して……いい顔、してました」
セイシンセカイ……。
「そっか。それじゃ、えっと……十八歳の朝比奈さんは、昨日のことって記憶あんの?」
「じ、実は、ほとんど覚えていないんです……二十八歳の私が何をしたのか、十八歳の私は、本当に、記憶がなくて……」
ああ、卑怯だ。
ここに至っても、私は往生際悪く自分を守ってしまう。
槙田くんは、黙ったままにゆっくりとブランコを揺らした。
カチャ、カチャ。ホー、ホケキョ、ケキョ。
沈黙に不安を覚え始めた頃、
「そっか」
顔を上げた槙田くんは、くしゃりと笑顔を浮かべていた。
「よかった。やっぱりさ、自分とはいえ、勝手に体動かされたりするの気持ち悪いもんな」
それから、あ、そうだ、とリュックの中をまさぐって、カバーが掛かった本を取り出す。
「これ、新刊出てたから」
「えっ……いいよ、だって、今借りたら……」
もう、返すことできないし。
のどの奥に言葉を飲み込んで見上げると、槙田くんは、首の後ろに片手を当てて俯いていた。
「これ、買ってきたばかりで俺もまだ読んでないんだよな」
「え。だったらなおさら」
「だからさ」
槙田くんが、顔を上げた。
「だから、連絡先教えてよ。読み終わったら俺、取りに行くから」
見上げると、槙田くんは唇を引き結んで、ちょっと緊張したような顔で私を見ている。
少しだけ……頬が赤い、気がする。
「槙田くん」
時間がひどくゆっくり流れるみたいな、不思議な感覚。
春の風が、ざあっと吹いた。
「その次の巻も、貸してくれる?」
槙田くんは、ふっと笑った。
「もちろん。一緒に結末まで見届けよう」
マンガを受け取ろうと伸ばした手が、指を絡めるように繋がれる。
その次の巻が出た時に、私と槙田くんは恋人同士になった。
そうして、十年の時が流れた。
*
振り返れば十年とは、なんてあっという間なのだろう。
あの頃あんなに遠くだと思っていた未来は、立ってみるとただの日常の連続のその先にすぎなかった。
二十八歳になった私は、狭いマンションの小さなベッドの上で目を覚ました。
握りしめたままのスマホを見る。もう夕方だ。
昼前にベッドに寝ころんで、スマホをいじっているうちに寝落ちしてしまったのか。
いくら日曜日だからって、ちょっと自堕落すぎるだろう。
そしてやっぱり、槙田くんからの連絡はない。
十年前のあの春、私は予定通り関西の、槙田くんは東京の大学に進学した。
最初から遠距離だったけど、槙田くんは定期的に連絡をくれたし、休みが合う時はお互い相談して中間地点で会えるように工夫したりして、そういうやり取りすらも、とっても楽しく感じられたのだ。
そうは言っても、十年の間にやっぱり何度か危機はあった。
槙田くんは院に進んだので、就職活動の時期もずれていた。
インターンや面接が続いていた時はやっぱり大忙しで、会える時間が減ってしまったこともある。通話をしながら寝落ちすることもしょっちゅうだった。
だけどいつも、槙田くんは
「澪の寝息聞いてると、俺も眠くなれて悪くない」
「澪が頑張ってると思うと、負けられないって思える」
とか、当たり前みたいな顔で言ってくれて。
私はやっぱりそのたびに、槙田くんが大好きだなあ、と噛み締めてきたのだ。
私が東京の小さな教育系出版社に就職して、ついに遠距離恋愛が終了したのが六年前。
四年前、槙田くんが大学院を卒業してメーカーに就職したのを機に、私たちは一緒に暮らし始めた。
最初の一年間は、本当に楽しかった。
おままごとみたいな二人だけの生活。毎日、槙田くんが帰ってくるのが嬉しくて、足音が聞こえるとすぐにドアを開けてしまって、危ないだろなんて怒られたっけ。
日々の生活がくすぐったい感動であふれていて、すべての季節の一日一日、二人で眠る小さなベッドで目を覚ますたびに幸せを感じた一年だった。
一緒に暮らした、あの眩しすぎる一年間があったから、今が余計に寂しいのかもしれない。
幸せな記憶が寂しさを生む。なんて理不尽な錬金術。
*
もう一度、スマホを見る。
槙田くんからの返事はない。
【今日は話せそう?】
昨日の夜中、私から送ったそのメッセージはとっくに既読になっているのに。
ため息をついて、ベッドから降りた。
お腹がぐるると鳴ったので、冷蔵庫を開ける。
空っぽだ。
買い物行こうかな。たけのこご飯が食べたいかも。今なら、水煮が売られているはずだ。薄く切って、出汁と一緒に炊くのだ。簡単なのに槙田くんはすごく感動して、どんどんお代わりをしてくれたっけ……。
「……やっぱりデリバリーでいいや」
ぱたんと冷蔵庫を閉めた。
槙田くんが、ヨーロッパのとある国への勤務のため日本を発ってから、もう三年が過ぎていた。
最初の一年は、「私たち遠距離恋愛のプロだもんね」なんて笑いながら。
その次の一年は、「大丈夫だよ、平気だから」とごく当たり前の顔をして。
そして三年が過ぎようとしている今、私はどんな顔をしているのだろう。
最初のうちは、楽しいことだけを、笑顔で伝えたいと思った。
だけど、槙田くんがいない毎日には小さな「楽しいこと以外」がいっぱいで。
そしてヨーロッパはなんだかんだ、やっぱり遠い。
時差が昼と夜を分けてしまい、寝落ち通話もままらない。
毎日必ず一度はしていたビデオ通話が、一日おき、三日おきとなって、そして一週間に一度になって。
最後の一時帰国は半年前だ。ううん。人のことは言えない。私があっちに行けたのだって、去年の夏が最後なんだし。
どうしてそばにいないのだろうと考えてしまって、そんなことを考えていると知られたくなくて、また連絡の頻度が開く。そんな悪循環。
一度ズレてしまったボタンは、ズレたその先でどんなに必死で留めていっても決して正しいところに収まることはない。どこまで外せば元に戻せるのかも、もう分からない。
「あ」
何となくニュースサイトをスクロールしていた目に、見慣れたキャラクーが飛び込んできた。
槙田くんに高校時代からずっと借りていたあのマンガがついに最終回、完結巻は来月発売。十年分のデータを詰めた特装版も、同時発売。
「予約しなきゃ」
この三年間だって、新刊が出るたびに私は単行本を買っていた。
テレビの下の棚には既に十二冊が並んでいるけれど、私はそれをまだ読んでいない。読むなら槙田くんと一緒に、感想や展開の考察をしながらじゃなきゃ、と思っていたからだ。
だから。
「こっちで電子書籍で読んでるよ」
ついこの間そんなふうに言われた時、私はひどくショックだったのだ。
槙田くんが先に読んでいたことも、感想を私に特に言わないでいたことも。
思わず声が冷たくなってしまって、通話は気まずいままに終わった。
「十年、か」
始まりは十年前、私が突拍子もない告白をしたあの瞬間だ。
もしも今、本当にもう一度、あの日に戻ったなら、私は、今度は…………。
「え」
スマホをスクロールした。
「うそ」
三月十二日。
私たちが高校を卒業したあの日から、今日でちょうど十年―――。
ポーン、と部屋のチャイムが鳴った。
デリバリーだ、と思って、いやまだ頼んでいなかったぞ? と思い直し、amazon何か来るのあったかなと思いながら玄関の扉を開いて……私は固まった。
「やっぱり、また確認しないで開けた。せめてオートロックのとこに引っ越して」
ここにいるはずのない……槙田くんが、立っていたから。
*
「うそ。なんで」
「ごめん、返事返さなくて。搭乗直前だったし、こっち着いてからはとにかく一刻も早くここに来ようと思って」
「仕事? 言っていてくれれば、明日休みにしたのに」
靴を脱いで入ってきた槙田くんは、暑そうにジャケットを脱いだ。
荷物はリュックひとつだけだ。
「俺も、決めたの昨日だから。あっち立て込んでて、帰るの無理かもと思ったけど、今乗らなきゃ今日着かないって思ったら、思わず飛行機乗り込んでた」
「何かあったの?」
そんなに追い立てられるように帰国しないといけないような事情が、何かあったのだろうか。
もしかして、家族に何かあったとか?
不安に眉を寄せた私を見て、槙田くんはふう、と息を吐きだすと……おもむろに、私の両肩を掴んだ。
「――転生、してないよな?」
真剣な目で、顔を覗き込んでくる。
「転生っていうかタイムリープだと思うけど、意識だけがタイムリープしている間って、こっちの身体は意識がなくなるのがデフォルトだけど、起きてるもんな。間に合ったよな? 俺」
「槙田くん……?」
「あとさ、転生ってよく考えたらこっちで事故とか遭ってってのがほとんどだろ。大丈夫だよな、怪我してないよな」
まさか。
まさか、槙田くんは、私が……二十八歳になった私が、本当に、十八歳の身体に、転生……タイムリープしてしまったとでも、思ったのだろうか。
実は今に至るまでこの十年間、あの卒業式の日の話を私たちはほとんどしたことがなかった。
年を重ねて冷静になるほど、あの日の私の告白はやっぱりあり得ないと思ったし、何年たっても思い出すとそれなりに居たたまれなかったりで、あの時「記憶がない」と誤魔化したのをいいことに、私から話題を出すことは決してなかったのだ。
槙田くんが話題に出さないのも暗黙の了解というか、そんな私の気持ちをおもんばかってくれているのだとばかり思っていたけれど。まさか。
「怪我してないし、事故もないし……転生、してないよ……?」
私の言葉に、槙田くんは、はあ~~~っと息を吐きだして、そのまましゃがみこんでいく。
小さな部屋の狭い玄関で、私もつられてかがみこむ。
「……いや、ちがくて」
沈黙の後、槙田くんが、ぽつりと言った。
「頭がおかしくなったとかじゃないから。俺だって、別にあれが……本当に、二十八歳の澪なわけじゃないってことくらい、ちゃんと分かってる、つもり……なんだけど」
奥二重の目、細くて可愛い目。
眼鏡をかけているのは、飛行機の中でコンタクトを外したままだからだ。
「だけど、ああ、もうすぐあの日から十年か、と思ったら……あの時言ってた、澪を不安にさせるムカつく恋人って、俺のことじゃんって」
片手で口元を覆うようにして隠しているけど、顔が赤くなっている。
「あの時の俺、必死で平気なふりしてたんだけどさ、でも、もしかしたら今度の十八歳の俺は、構わず手、出しちゃうかもしれないから。十八歳まじで止まらないから」
大真面目な顔で言われて、思わず笑ってしまった。
笑ったはずなのに、なんだか槙田くんが少し滲んで見えている。
「なにそれ。あの時の槙田くん、ものすごく紳士だったから大丈夫だよ」
「いや、言っとくけどハグしてる時だってすっげー葛藤してたからな? 後輩が来るのがあと三秒遅かったらやばかった。今どきの若者は理解できないところあるし、油断したら駄目だ」
「変なの。中身は同じ槙田くんなのに」
「――だって、中身は同じ、澪だろ。いくら十八の俺でも取られてたまるか」
拗ねたような表情が可愛くてまた笑ってしまったら、浮かんだ涙をそっとぬぐってくれた。
槙田くん、私も急いで読むからさ、あの連載の最終巻の内容、予想しようよ。いっぱい考察、聞きたいよ。
お昼寝と夜寝を組み合わせた寝落ち通話って、やってみない?
ゴールデンウィークには、そっちに遊びに行ってもいい? 特装版を持っていくから。
「槙田くん」
ああ。
十年前の私は、もしかしたら本当に転生してきたのかもしれない。
だって今の私に必要なのは、あの瞬間の勢いなのだ。
ただただ、その瞬間の想いを口にすること。
たくさんたくさん高速回転していった先、熱く火照った喉からこぼれた言葉。
それを大切にして、後先なんて考えず、ちゃんと素直に伝えること。
ややこしいことなんて、後からゆっくり考えればいい。
「好きです」
あの頃、二十八歳の自分だったら、なんでもスマートにこなせる気がした。
でも実際はそんなことちっともなくて、相変わらず小さなことで躓いてばかり。
不安になるし、情けないし、余裕なんてまったくないよ。
十八歳の私が今の私を見たら、あまりのしょぼさにがっかりするに違いない。
だけど、だけどね。
今はもう、私は知っている。
少し体力が落ちて、一晩中寝ずに思い悩むことすらできない。世間を知ってしまった分、余計なことだって考えるし、怖いことだってたくさんある。
だけど、その分二人でちゃんと、いっぱいいっぱい乗り越えてきた。
十八歳の時のままの顔で笑った槙田くんが、私の身体を抱き寄せた。
「俺も好きだ、朝比奈さん。十八歳の時から、二十八歳の今も、百八歳になってもさ」
ねえ、十八歳の私。
あなたが黒歴史だと思っているあの瞬間の私自身に、今の私は喝采を捧げたい。
今私たちが、こうしている。
それはきっと、あの時のあなたが起こした行動の続き。
「セクシーなハグしていい?」
「まずは普通のハグからで」
それこそが、転生するよりかけがえのない、永遠に続く私たちの奇跡なのだから。