獣の、正体
先程の獣との約束どおり、私は表へ出て辺りを見回した。
不安で汗が止まらない。 心拍数もかなり早い。
とりあえず私は眼鏡を外し、袖で汗を拭った。
全身で『危険だ』と言われてる気がした。
けれど関係ない人達を、自分のせいで巻き込むのだけは、どうしても避けたかった。
すると突然首元を引っ張られ、カシャンと眼鏡が落ちた。
体は草叢へ押し倒され、先程の獣がドサッと私に覆いかぶさった。
【逃げずに来たか。 待ってたよ】
どうやら獣の声は、耳からではなく直接頭の中に届いている様だ。
初めての感覚に戸惑う。
白い獣が欲を孕んだ朱い瞳で、私を上からじっとりと見つめる。
追い詰めるような視線に、私は堪えていた涙と震えが止まらなくなった。
【……そう怖がるな。 やはり俺の事など忘れてしまったのか?】
そう言うと、獣はぺろりと私の涙を優しく舐めた。
何の話? 私と白い獣とは縁が無い筈だ。
でも今、噛まれるのではなく、涙を拭う様に舐められた。
今一体何が起きているのか、訳がわからなくなってきた。
すると突然、獣は何かを察したのか、後ろを振り返り『グルルル……』と低く唸り声を出した。
その視線の先を見ると、弦太くんがこちらに向けて、バチバチと爆ぜる矢をつがえていた。
【貴様、何者だ?】
「それはこちらの台詞ですよ。 まさか狼の姿をしている方に会えるとは思いませんでした」
話しぶりは柔らかいのに、彼の朱い瞳は鋭く、突き刺すようにこちらを見ている。
爆ぜた矢は、彼の憤りを表しているかのように青白い光を放っていた。
【俺の存在がわかっても尚、矢を向けるのか】
「えぇ。 ここは鼠の領地内ですから、ここで人間に手を出すなら、こちらも容赦しませんよ」
【……ならここを出るまでだ】
獣は私の体をぐいっと引っ張り上げると、背中に乗せるようにして、突然走り出した。
「おい! 待て!!」
あっという間に弦太くんから離された。
獣はうまく木々の間をすり抜けて走る。
下手に手を離せば大怪我をしそうな速さだった。
私は獣の背に必死に掴まり、止まる迄目を瞑りぐっと堪えた。
やがて獣は、ゆっくりと走るのをやめ、溜息をついた。
【ここまでくれば、暫くは追っては来れまい】
私は必死に背中にしがみついていたからか、止まった途端に全身の力が抜け、そのまま地面に倒れ込んだ。
【おい、大丈夫か!】
私を襲った獣……いや、狼が私に擦り寄り、ペロペロと頬を舐める。
この仕草は知ってる。
しらたまくんが、私を心配してくれている時にする仕草だ。
もしかしたらこの狼も、どうやら私を食べるつもりでは無さそうだ。
「あ、ありがとうございます……」
口は動くが、体は鉛の様に重く、まだ起き上がれない。
すると狼は、私を包むようにして側に座った。
白い毛並みが想像以上に柔らかくて気持ちいい。
よく見ると白より銀に近い色だ。
風に靡いてキラキラと揺れる光を見て、気持ちが少し和らいだ。
【ヨシノ、調子はどうだ?】
「ヨシノ……?」
聞いたことのない名前に、私は目を開いた。
【あぁ、俺の妻で『"癒やし"の巫女』だった。 お前は、ヨシノの生まれ変わりだろう?】
「いえ、多分違います。 人違いかと……」
そう告げると、狼は目を丸くして私を見つめた。
【そんな……。 お前は『"癒やし"の巫女』ではないのか?】
「確かにそう呼ぶ人もいますが、私の相手はあなたじゃない。 ほら、あなたの巫女なら、こうすればきっとわかる筈です」
私は何とか体を起こし、狼の背中にそっと手を添えたが、やはり何も起こらなかった。
【確かに……】
狼は人違いとようやく理解した様で、寂しげに目を伏せた。
その姿を見て、私は申し訳なくなってきた。
「ごめんなさい……」
【いや、俺の勘違いだ。 こちらこそ、大変失礼した】
そう言って狼は、私の前で頭を下げた。
「もう気にしないでください。 えっと……良ければ、あなたの名を教えてくれませんか?」
【我が名は『太白』。 ここから一つ山を超えた先の、狼を祀る社の神使だ】
それで朱い瞳をしていたのか。
【あんたの名も、教えてくれるか】
「ひなた、柊ひなたです」
【『ひなた』か、よい名だ。 これでお互い名乗ったのだから、もう俺に敬語や遠慮は要らぬ。 楽に話してくれ】
そう言って太白さんは、いや太白は、私に体を擦り寄せ、顔をぺろりと舐めた。
どうやら私に心を開いてくれたようだ。
「太白は……ヨシノさんに会いたくて、領地を超えてここまで?」
【あぁ。 もうこの命も永くないのでね】
「ねぇ、出来たらその話、私に聞かせてくれない? こうして出逢えたのも、何かの縁だと思うの」
私は太白の首元を優しく撫で、寄り添いたい気持ちを伝えた。




