不安と、秘め事
『鈴屋』でバイトを始めて、一ヶ月程経ったある日。
仕事の内容は、基本は掃除や品出し、商品の並び替えが主だが、何せ物が沢山あるので、場所を覚えること、それらを短時間でこなすのに結構苦労した。
けれど辞めたくない一心で、教わった通りに必死に業務をこなしていった。 (学校の勉強もこれ位必死になったら、更に道が拓ける気がするが……)
その甲斐があってか、無事に最終試験まで辿り着く事ができたのだ。
「この一ヶ月、よく頑張ってくれたね。 やはり僕が見込んだだけある。 じゃあ最終試験といこうか」
そう言うと、李月さんは私に一枚の紙を渡した。
「今度の土曜日に、そこまで行って、櫛を預かって来てほしいんだ」
紙には、住所と目的地らしい地図が書いてあった。
「櫛、ですか?」
「前から約束してはいたんだが、急遽妻の実家に行かなきゃならなくなってね。 僕の代わりに行ってきてくれないか?」
「これが、最終試験……」
「うん。 質問はあるかい?」
「……コレ、なんて書いてあるんでしょうか」
「え? 何って、住所と地図だけど?」
どうやら本人は自覚がないようだ。
本人曰く住所と目的地らしい地図を書いたらしいが、乱筆で読めない箇所が多い。
地図に関しては大雑把過ぎて、地図の役目を殆ど果たしていなかった。
私は試験どころか、試験場に辿り着けるのかすら不安になってきた。
◇
試験当日。
私は作務衣と伊達メガネを身に着けて、目的地に向かった。
目的地までは電車で一時間、後はタクシーを使っての移動だ。
着いた先には、少し山に入った場所に建つ大きな旅館。
その周りにはサツキの花が沢山咲いていた。
ここで『今西結花』さんに会って、櫛を預かってくるという簡単な仕事だが、その今西さんがどんな人かは教えてくれなかった。
このおつかいが最終試験だなんて、どういうつもりなのだろう。
しかも『終わった後は、夜まで観光しておいで』と言われ、李月さんの意図が全く解らなかった。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」
玄関からフロントの方を覗いたのだが、人が見当たらない。
奥の方からはバタバタと何やら騒がしい気配がしていた。
「ちょっと君! こんな所で何やってるの! 早くこっちに来て手伝って!」
すると旅館の関係者らしき人が現れたかと思うと、いきなり私の手を引き中へ通された。
「もうすぐ団体さんが来るから、これを『桐の間』に運んどいて!」
通されたのは、座布団が沢山置かれた部屋だ。
桐の間へ、ということは、私はどうやら従業員と間違われているらしい。
作務衣を着ていたら間違えられたのか。
「あの……私は人を探しに……」
振り向くと、先程の人も誰も居ない。
もう別の仕事に向かったのだろうか。
時計を確認すると、櫛の受け取りまではまだ時間もある。
私は人を探すのを一先ず諦めて、座布団運びを手伝うことにした。
しかし、『桐の間』とは何処なのだろう……。
重ねた座布団をもって、私は一度フロントに戻ることにした。
座布団を運んでいる途中、廊下からは中庭が目に入った。
この庭にも色鮮やかなサツキが咲き、手入れの行き届いた美しい庭だ。
『こんなステキな庭が中にあるなんて……』
私は足を止め暫し庭を眺めていると、そこに男の人が出てきた。
それはまさかの弦太くんだった。
中庭にやってきた彼は、洋服ではなく着物姿で、髪もあげているからか、雰囲気がまるで違う。
あれが仕事をしている時の姿なのだろうか。
偶然にも、仕事でこの旅館に来ていたのかもしれない。
思いがけずに出くわした彼に、私はつい見惚れてしまっていた。
すると弦太くんの後から、綺麗な着物を召した、長髪の美しい女性がやってきた。
ここから庭までは離れている為、会話は聞こえないが、二人はとても親しげに話している。
そんな二人が纏う空気も、まるで恋人同士のように見える。
誰? その女の人と、どんな関係なの?
仕事の話を聞かせてくれないのは、彼女といるからなのだろうか。
私に気を遣って……?
見間違いだったら良かったのに。
足を止めなかったら知らなくて済んだのに。
偶然見てしまった光景に、私は泣きそうになりながら、この場を去った。




