第一章 弐
夜とは音のない世界だった。見渡す限り広がる地平線には生命の息吹さえ儚いものでしかない。雲のない夜空には満点の星空が広がり、世界は深い濃紺の色合いに包まれる。カインの住まう高台からは、ケルマディックの人工的な光が聖夜のイルミネーションのように輝きを放っていた。
カインはフライト用の軽量で頑丈なツナギを着て、軽量化を済ませた機体に乗り込み、大きな風を待っていた。軽くなった機体は少しの風でも振動を起こしていた。コクピットに座り、簡易的な銅線に繋いだ筒状のスイッチを片手に、カインは眼前に広がる空を見据える。銅線は両翼まで伸び、その下部に取り付けられた極小のダイナマイトに繋がっていた。
無音の世界に一瞬の音が発生する。風が大地を撫でるかのように上空へ道を作り出し、機体は大きく揺れる。操縦桿を引き倒し、両翼が風に逆らわないよう調整をする。徐々に前進を始めるのを確認しながら、カインはさらにタイミングを計る。もう一度、風によって音が世界を支配し機体が揺れた瞬間、カインは握ったスイッチを強く押した。前進する推進力に上昇気流が後押しをし、ダイナマイトの爆風が機体に浮力を与える。
水分を失った空気は抵抗が少なく、機体はスムーズに風に乗って上昇して行く。カインは暗闇の中で笑顔になる。重力から解放された浮遊感はなんともいえない感情をカインに与えていた。このままどこまでも高く昇って行きたいという思いを何とか抑える。操縦桿を操り機体を水平に保つ。
カインは何度もこのグライダーの方法で空を飛んでいた。燃料がほとんど要らず飛べることが一番の理由だった。機体を推進エネルギーもなく自由に飛ばすことは本来高い技術が必要になるが、カインにとっては飛ぶという感覚より飛ばすという、言うなれば凧を揚げている感覚に近いものがあった。下から風の流れを見極めて、風に乗せるイメージこそカインは重要だと考えている。
その風に乗って、機体は岩肌しかないケルマディック海溝から少し離れた森まで飛行する。星々の輝きによってカインの目でも辺りをしっかり辺りを確認することが出来た。それでいてカーボン製の機体は闇にまぎれて地上からでは目視し難いことを何度かのフライト経験からカインは知っている。
徐々に森へと近づき、その全容が確認できた。一帯を囲う大海溝が、何者もの進入を拒む重圧感に包まれている。決して犯してはならない領域のように、静かな木々のざわめきが闇の中に蠢いている。
念には念を入れてカインは機体を上昇させていく。どれだけ上昇しても大海溝の底は見えない。それでもレーダーに、人間に察知されない機体は、風に乗った鳥のように森の領空に侵入した。
夜とはいえ、星の明るさで見える森の広さと瑞々しさにカインは思わず息を呑んだ。土と岩と僅かな水で生活していた人間にとって、豊富な水分を有する森は宝石のように輝いて見えた。
しばらくその森を眺めながら楽しく飛行したが、飛行艇が墜落したと思える痕跡は見当たらなかった。地上から大幅に減少した植物ではあるが、その分厳重に管理された圧倒的な広さを誇る森は、飛行艇の落下など覆い隠すには充分なのだ。
高度を上げて上空からも面で捜索を行っていたカインだったが、どこを見渡しても同じ風景であるようにしか思えず、森の中に存在する違和感は感じられなかった。
我慢強く飛び続けて、漆黒の森をくまなく探し続けたが、ここにきてカインは少し後悔をした。さすがに落下地点さえ分からずに行動を起こすのは無謀であったと。また、森への落下物という話しは決して少ない話では無い事をカインは考える。森は生活を営む上で欠かせない、空気を作る聖域である。色々な噂が立つことはよくあった。火事や落下物に関しての噂は特に多い。そのほとんどは流れ星や、森の管理に必要な、巨大スプリンクラーから放出される水が生み出す霧を見間違えた人間が、尾ひれをつけて話すことから始まるのだ。今回もその噂の一つに過ぎないのかもしれない。
カインは思わず操縦桿を握る両手を離して、頭を抱える。夢の時間は終わったのだと誰かが語りかけているようであった。もう家に帰って眠れ、そして続きは夢の中ででも見ればいいと。
己の無謀さと無力さに思わず力の無い笑みをこぼす。こうやってまた空から地上に戻り、朝を待って穴に潜るのだ。
機体を大回りでターンさせ、進行方向をケルマディック海溝に向ける。
ふと、諦めたくない感情からなのか、自暴自棄になっているからなのか、カインは森を水平に見てみたいという感情が襲った。それには高度を限界まで下げ、木々に接触しかねない飛行をせねばならない。とても危険な行動であった。カインも飛行に関しての技術は基本的に身に着けている。それゆえに推進力の無いグライダーで低空飛行をすることは危険であることを知っている。風の力を利用することで浮力を得ているので地面に接するとその風の力が弱まるのだ。水素金属を一部使用していなければすでに墜落している状態である。
わかっている。わかってはいるが、カインは高度を徐々に下げていった。風力が弱まっていくせいで、推進速度が著しく低下してゆく。水素金属の浮力によって、まさに凧のような感じで上空にふわりと浮いているだけの状態になる。
初めて海を見た。黒い海だった。風の流れによって森が波打つかのように蠢いている。木々が擦れあい、ざわざわと穏やかな音色を奏でる森は、まるで獲物を誘い込む蜘蛛の巣のような妖艶さで、不気味さがあった。
どこまでも続く森の波はカインに冒険心から沸き起こる感動を与えていた。世界にはまだ見ぬ光景がいっぱいあるのだと。そしていつか世界中を見て回るのだと。
飛行艇は見つからなかったが、広大な森の海を見れて満足だった。
ところが、ふとした瞬間、その森の海に一部流れの途切れている部分があることに、カインは気がついた。同時に体内で心臓が大きく一度脈打つのを感じる。上空からは見えなかったが。撫でるように一部分だけ森の木々が傾いていた。
カインは森の波に呼応するかのような心臓の鼓動を感じながら、墜落を避ける場合に、いかにして速度を軽減させることが重要であるかを思い出す。もし墜落は避けられない事態になった場合、そのまま落下するのが普通ではある。避けることの出来ない死を迎えるだけだ。だが木々の先端を機体の腹に撫でさせて、クッションのように活用すれば、あるいは助かる可能性を少しだけ引き上げる事は出来る。少なくとも自分ならそうすると考えた。
カインは少しだけ高度を上げ、違和感の中心へと向かった。
あった。予想通り木々をクッションにしたのであろう痕跡が。木々は同じ方向に倒れ、道しるべのように墜落した飛行艇の方向をさしていた。木々が倒れ、一部地面が露出していた。
「よっし! 着陸できそうだ!」
カインは着陸が出来そうな状態の森を見て思わず声を上げた。でこぼこの地面では本来着陸など不可能なのだが、水素金属の浮力を持つ機体は地面に接地することが無いのだ。常に浮いた状態をキープできる。あとは着陸の技術だけが必要だが、何度も着陸をした事のあるカインには簡単な操作だった。
自信の通り、着陸は枯れ葉が地面に落ちるかのように、スムーズに風の流れを利用する形で成功した。すぐにコクピットから降りたカインは、地面の感触を確かめるかのように何度かその場で足踏みをする。それだけで地面に一定の水分が含まれていることに気がつく。体にまとわり付くような暑さを感じるのも初めてのことだった。目的が無ければ木々に触れてみたかったが、今は別のことに興味があった。おおよそ五十メートルは木々が傾いていた。周辺には折れた枝が散乱している。カインは落ちている枝を道しるべにし、墜落痕と思える箇所を進んでいった。
すぐに墜落の痕跡は見つかった。上空より辺りは暗く、視界はあまり良くはなかったが、自然の森の中に人工的な飛行艇の残骸があるのはすぐに分かった。所々に金属片や部品と思われるものが折れた枝と共に散乱している。
異常な光景がそこにはあった。近づかなければ分からなかったが、残骸であると思われる金属類や部品類、そのすべてが僅かではあるが空中に浮いていた。
部品の一つを拾い上げてよく観察をしてみる。カインは、それが水素金属である事をすぐに理解し、驚愕した。拾い上げたのは飛行艇の内部に使用されている機械部を固定する部品の一部だったのだ。
「これ、もしかして全部水素金属で出来てるのか?」
通常ではないとカインは思った。水素金属は現代社会では貴重なものだ。大量の水から抽出された水素をさらに圧縮することによって、ごく僅かに生成できる水素金属は驚くほど高価で取引される。水は現代経済そのものと言ってもよい。水素経済とまで言われているのだ。ましてや水を金属化したことによってその価値は不変のものとされている。室内超伝導の性質もあり、別名浮遊金属とも言われている。それが外部の板金に使用されているのであれば、カインの乗る飛行艇のように浮力の補助として役立つのだが、この墜落した機体は内部の部品にまで水素金属が使用されていることになるのだ。ただ事ではなかった。
墜落したと思える機体はさらに奥にあった。カインは機体に近づくのを少しためらった。全て水素金属で建造された飛行艇ならば、墜落しても搭乗者は生きている可能性があると思った。
機体は酷く損傷し、両翼は折れて歪んでいた。おそらくは修復不可能であるとカインに思わせる。形状はカインの乗る旧時代の飛行艇とは違った。所々損傷はしているが、全体的に薄く、中心部だけが人が乗れるよう膨らみを帯びている。カインは比喩として具を詰めて生地を上下に挟んで合わせたパンを想像した。もしカインが海を良く知り、そこに住まう生物を知っていたのであれば、きっとマンタの形状に似ていると表現出来たろう。
カインは恐る恐る剥がれかかった板金部分を足場にし、コクピットに上ってみた。中には誰の姿もない。だが、まるで幽霊船のように人がいたと思わせる気配が漂ってはいた。カインは背筋に冷たい何かが走るのを感じ、すぐに機体から降りた。遺体がない。この事実が何を意味するのか、考えるだけでカインは不安になった。もしこの機体が単なる輸送機の類ならば、生きているであろう乗員を助けるべきだと判断できた。だが、水素金属で建造された飛行艇の乗員など、普通であるはずが無いのだ。
辺りを警戒するカインの手は濡れていた。水素金属が水へと変化しているのだ。その部分に触れた箇所が全て湿っている。カインとしては全身から汗が噴出しているような錯覚がして嫌な気分になった。
早めにここを離れたほうがいい。そう思って、足早に自分の乗ってきた機体に戻った。暗闇に散乱した小枝を踏み荒らす音を響かせながら思った以上に警戒しつつである。顔から血の気が引いているのが分かる。きっと鏡を見れば仮面のように真っ白になっているだろうと思った。後悔もした。軽率すぎたのだと。せめて武器になるものでも持ってきていれば、そう思った。僅か五十メートルの距離ではあったが、機体が見えて触れられる距離まで来ると酷くほっとした。
こういう気分のときはすぐに家に帰って服を脱ぎ、エアーバスに入る。そして風に当たりながらケルマディック海溝の人工的な光を眺めるに限る。
そう思ってすぐに機体に乗り込んだカインは再び離陸する為の風を待った。
機体の側面に陰が一つ存在している事には気がつかなかった。
気が、つけなかった。
風を待ち、機体が振動する事と、風の音だけに集中していたから。
そして大きな風が機体を強く撫でた瞬間、影は動き出した。
カインは風による振動で影の動きには気がつかず。浮力を与える為のボタンを握り締める。
影は機体の振動に合わせるかのように死角へ移動をしていく。
機体は不安定に揺れるが、一瞬の水平をカインは見逃さない。右腕は操縦桿を強く握り、左腕でボタンを押そうとする。
影は不安定に揺れる機体を物ともしない。影の右腕が腰にぶら下げた鋭利な金属を握り締める。
カインは空を直視し、凧が舞い上がる様をイメージする。
影が身に着けている鋭利な金属が光り、一瞬で背後に回り、コクピットに入り込もうとする。
気配はしない。だが幸運にも月明かりは空を直視しているカインの目に、一瞬だけ光の反射を察知させた。
カインは心臓が一気に大量の血液を体に循環させたことで気がつく。まるで無意識の危機感が体を動かせと命令しているかのようだった。影は右手のナイフをためらうことなく、カインの首筋に下ろした。しかし寸前のところで振り返ったおかげでカインの首にナイフは当たらない。操縦席の肩口が大きくナイフによって裂かれただけだ。
影を見た。驚愕だった。カインには眼前の影が物の怪の類にしか見えず、影は異常な形容で次の一撃を繰り出そうとする。胴体は太く、腕のようなものが四本も見えた。目の錯覚でなければ、顔があるべき場所に二つの顔が見える気がする。眼は月明かりで鋭く光る。
カインは慌てて足元に設置してある工具箱から小ぶりのスパナを取り出し、影へ向かって力いっぱいに投げつけた。必死さの中に、化け物へこんなものを投げても意味はないだろう、などと考えている自分に驚いた。
だが、思いのほか効果があった。スパナは回転しながら化け物の胴体部分に向かって飛んでいたが、化け物はまるで胴体に当たれば致命傷な、銀の弾丸でも飛んできたかのような反応を見せ、コクピット内部から飛行艇の右翼へと跳び退いた。
化け物の跳躍により、機体が小さく揺れた。しかし化け物はすぐにこちらへ向かって動き出す。カインには時間が無かった。次、攻撃を受けたら殺されてしまうとさえ思った。背中に冷たい汗が流れ、血の気が引いた顔からさらに血の気が引いていくのがわかる。
偶然だったのかもしれない。恐怖により体が小刻みに震えていたから。あるいは、力いっぱいに拳を握り締めていたからかもしれない。
カインは左手に握り締めていた、浮力を得る為の起爆スイッチを押していた。
木々の揺れる音が一瞬でかき消される。大きな爆発音と共に、機体は前部だけが浮遊し、右へ傾きながら地面を大きくバウンドした。風力を得られず、異物が右翼に乗っていた為離陸までは出来なかった。だが不安定な右翼にいた化け物を機体から振り落とすには充分な振動だった。
化け物は落下した。おかしな落下だった。背中から落ちた化け物は、まるで弱点である背中を庇うかのように空中で回転し、うつぶせのような形で地面に衝突した。
すぐに森には木々のこすれる音だけの静寂が訪れる。コクピットから恐るおそる下を覗いていたカインは、化け物が地面から一切動かないことを確認し、大きく息を吐いて座席へ崩れ落ちた。
「た、たすかった……」
一瞬気持ちが緩んだが、カインは一度両腕で顔面を叩き、もう一度気を引き締めた。化け物に止めを刺さねばいけない。そう思った。座席から立ち上がり、すぐに工具縛から一番威力がありそうなハンマーを取り出し、ゆっくりコクピットから降りた。
警戒しながらカインは化け物に近づいた。襲われているときは見えなかった影の正体が、月明かりによって露になっていた。その姿をみて、カインは唖然とした。
影の正体は二人の人間に過ぎなかった。大きな胴体は、ロープで括り付けられた二人の男女が合わさったもので、四本あると思っていた手も、二人のものだった。
カインは混乱した。男は地面に落ちた衝撃で気絶している。その背中に覆いかぶさる形で少女が気絶している。化け物だと思っていた男は確かに背中が弱点だったのだ。少女を背負って戦っていたに過ぎなかったのだ。その事実は、なぜか化け物の存在が否定されたことよりカインを安心させた。落下の際、背中を庇って見えた事にも納得できた。
もう少し近づいて様子を見た。男の方は短めに刈り揃えられた短髪で黄金色の髪の毛が月明かりで輝いて見えた。顔は大人びてはいるものの若く、力強い眉が意志の強そうな印象を与えている。格好はパリッとした新調のスーツのように、しっかりとした作りの制服を思わせる。色などは暗闇で判断できないが、少なくともケルマデックで働くような格好ではないなと思った。おそらくどこかに所属する軍人だろうとカインは当たりをつけた。
背中の少女はカインの着ているツナギに似た、軽量化されたフライトスーツを着ていた。体は小さく、身長はカインと同じか少しだけ高いくらいに見えた。顔も幼く、小さな唇と筋の通った鼻は計算された造形のように整って見えた。薄い眉と瞑っていてもわかる目の大きさのせいで、気絶している顔は赤ん坊のような愛らしさを携えていた。少なくとも大人には見えない。
ふとした瞬間キラリと光る物が視線に入った。どうやら男が使っていた刃物のようであった。カインはその刃物を地面から拾い上げ、ゆっくりと月へと掲げてみた。この光るナイフが先ほどまで自分の命を奪おうとしていたかと思うと、酷くぞっとした。
「う……んっ」
足元で少女のほうが少しうめき、カインは思わす叫びだしそうになるのを堪えるのに必死だった。
よく見ると男の胴と括られているロープが食い込んでいて、苦しそうな様子である。それが可哀想に思えたカインは、ゆっくり腰を下ろし手に取ったナイフでロープを切断してやった。固定された状態から解放された少女は男の背中から崩れ落ちるかのように地面へ転がった。
その瞬間ナイフを握るカインの手を、気絶していると思っていた男が勢いよく掴んできた。カインは余りに一瞬の事で何の反応も出来ない。
「そ、そのナイフをどうする……気だ」
男はうつぶせの状態から腕だけはしっかりと握り締め言った。落下のダメージが大きいのか体を動かそうとする気配は無かった。しかし顔だけはしっかりカインのほうを向いていた。カインは慌てて男の腕を振り払おうとするが、
「は、放せっ!」
しっかりと手首を握り締めた男の腕は、まるで万力で締め付けられた拘束具のように微動だにしない。
「こ、殺すなら私を殺せ……! あの子は何もしてはいない。実行者は私一人……だっ!」
「な、なに言ってるのか分からないって! いいから放せよ!」
男はダメージで喋るのもきつそうだったが、それでも喋り続けた。自分以外の者を対象にした命乞いだった。
「イズモに差し出すのは私の死体だけで……充分だと言っている!」
カインは困惑しながらも男の言葉を理解するのに務めた。
「イズ……モ? 何のことだよ。俺はイズモの関係者じゃないし、君たちを差し出すことなんかしないよ。もちろん殺したりもしないって。だから手を放してくれよ」
少しだけ男の握力が弱まった気がした。だが放しはしない。
「本当、か?」
カインは慌てて何度も頭を縦に振る。
「本当だって。俺は近くの鉱山で働いている鉱夫でイズモの人間なんかじゃないんだよ。ここにきたのだって何かが森に落ちたって噂を聞いて来ただけなんだ」
「…………」
男とカインの間に緊迫した長い沈黙が訪れる。先に喋ったのは男の方だった。
「イズモの関係者じゃないなら……頼みがある」
何を言っているんだと思ったが、今の告白で少しだけ雲行きが変わったのを感じる。男は目を閉じたままの少女に危害を加えるのを防ぐ為に握っていた腕を、今度は思いを伝えるために握り締めてきたのがカインにはわかった。
「あの、子を連れて、ここから少しでも早く逃げ……てくれっ!」
「逃げる? どういうことだよ。誰かに追われてるのか?」
男の声にはさっきまでは無かった凄みがあった。
「あの子を失えば……もう、終わりだ。だから早く行ってくれ。逃げてくれればそれでいい」
既に会話になってはいなかった。男は思いを伝えるのに精一杯の様子で、まるで今にも事切れそうにさえ思えた。カインとしても襲われた恐怖は既になく、男の必死さは自身の行動を『協力』に向かわせるのに充分だった。ただ、
「と、とにかく聞いてくれよ。俺の乗って来た飛行艇は一人乗りなんだ。エンジンでも積んでいれば飛ぶことぐらいできるんだけど……三人は無理だよ。救助を呼んでもいいけど、ここはイズモの管理下にある森だし、それだと君たち困るだろ。つれて逃げろなんて言われても俺どうしたらいいか……」
カインの知る事実は顔をしかめざる終えないものだった。
「…………」
男との間に今度は一瞬の沈黙が訪れる。
「私の、胸ポケットに入っている物を……」
カインは少しためらい、男の胸ポケットに手を入れる。長方形の透明なケースが入っていた。ケースの中には楕円形の金属が入っている。鈍く銀色に輝くそれは、カインの決して大きくはない掌に収まるサイズであるにもかかわらず、かなりの重量で、まるで一杯に水を入れてあるバケツのような手ごたえがあった。カインは驚きながら聞いた。
「な、なんだこれ。金属なのか?」
「そいつは純度九十九、九九九パーセントの水素金属だ。特殊なケースの重量で浮力は抑えてあるが、開ければ一人分くらいの……浮力になる、はずだ」
高純度の水素金属。見るのも触るのも初めてだったが、普通の水素金属さえ高価なのだから、今手にあるそれの価値は凄まじいものに違いない。そう思った。
カインは困惑気味に楕円形の金属と男の顔を交互に見たが、男はもう目を開けていなかった。ゆっくりとカインの手首から腕が離れる。男はうつぶせのまま力なく頭をたれる。
「そいつを持って早く行け……。私はここに置いていってかまわない。たいした怪我じゃないからな……一人でも……逃げ……きる、さ」
そのまま男は何も喋らなくなった。カインは男が死んだのではないかと思って焦ったが、離れた腕には確かに生命の鼓動があった。
少しほっとしたカインは、これからの行動について考えねばならなかった。一人乗りの飛行艇しかないこと。横で眠るように目を瞑る少女。足元で死んだように頭をたれた男。手の中の水素金属。とにかく問題は山済みだった。木々の海ともいえる森は相変わらず波間のような音を発し続けている。空がいつも通りの満天の星空である事が唯一の救いのように思えてならなかった。
だが、自分の中で何かが始まった気もした。少なくとも目が覚めて、暗澹たる鉱山の作業に赴く明日はやってこないだろう予感はある。
それは喜びだったかもしれないし、あるいは不安だったのかもしれない。しかし、今のカインに出来ることは、これからどうやって一人乗りの飛行艇で『三人』を運ぶかを、精一杯考えることだけだった。