第二章 壱
ケルマディックを出発してほぼ一日、予定航路の三分の二を進んだ辺りで、キャラバン及び、カインたちはその日の飛行を終了させていた。
かつては浅瀬の海底であった平地に機体を着陸させ、隊の人間は簡易的なキャンプを張った。そこで軽食を取り、明日へ備える。メイは水分を含まない乾燥系の食事を乗せていた皿を布で乾拭きし、丁寧にキャンプキットの食器用ボックスに収納して行く。その横では、組み立て式のテーブルに広げられた地図を中心に、キャラバンのメンバーが明日の航路について話し合いをしていた。
遠巻きにそれら光景を、ライジンのコクピットから眺めていたカインは、覚えのない既視感に襲われていた。
飛行機械に囲まれた、楽しそうな男たち。人工的なランプの光量を、億の星々の輝きが圧倒し抱擁するかのように包み込む。そんな光景。
妙に感傷的なものに思えた。ふと機体の下に視線が行く。シルバが拳でノックをするかのように、機体の下部を叩いていた。
カインは慌てて我に返ると、コクピットを開閉させるボタンを押す。楕円の強化ガラスが、ガスポンプの気圧音と共に上へ開く。シルバは片手に乾燥肉を乗せた皿を持ち、もう片方の腕を器用に使ってコクピットまで梯子を上がってきた。
「拝借してきた。話しながら食べようと思ってな」
それだけ言って日中アカネが座っていた後部の座席へ腰を下ろした。
「ど、どうかした?」
突然の行動に驚いたカインは、思わず率直に回答を求めていた。
「すまない……と思ってね。それと感謝の気持ちを伝えたかった」
「え?」
感謝される自覚のないカインには、何の回答にもなってはいなかった。察したシルバが、カインに合わせるかのように、率直に返答する。
「仕事、あの短期間でレースの参加に必要な休暇が取れたとは思えない。それ所か連絡さえしていなかったのではないか? そんな行動が許されるほど今の世の中が寛大であるとは思えないな」
カインは、シルバの言いたいことがようやく判った。判った上で、笑顔で答える。
「いいんだよ。あそこで働いている人には悪いけど、ずっと仕事をするつもりも無かったから。何も言わず出てきたのはちょっとだけ後悔があるし、悪いなとは思うけど、シルバが気にすることじゃないよ」
シルバは肯定を表す表情で、否定的に顔を横に振る。
「協力をしてもらいたいとは思ったが、ここまで巻き込むべきではなかった。私は汚い人間だ。ARRに参加すると決まった時から、カインの生活を脅かしている事には気がついていた。しかし、言えなかった。言えばアカネは反対をする。あの子は非情にはなれないから」
「……だからシルバは非情だと? 違うよ。決めたのは俺だし、行動を起こしたのも俺。全部自分中心の考えなんだ。なんかさ、楽しいんだ俺。こうやって皆と飛行艇に乗ってさ、世界を飛び回るとかが。話したように、シルバたちの目的は俺にはよくわかんないよ。でも、シルバたちの為に、こうやって何か出来ると思うとうれしいし、それが飛行艇関連ってのは楽しいんだ」
カインは言って笑う。シルバは苦笑いで答える。
「カインは大人だな。立派に生きている。アカネにも歳不相応の力強さを感じるが、それは意思から来るもので、生きる為ではないからな。カインの気持ちはありがたく受け取るよ。ただ、アカネを責めないであげてほしい。あの子はまだ学生で、生きる事と働く事の関係性を未だ知らないんだ。自分が生活の面でどれだけ恵まれているかも理解していない。アカネにしたらカインは学生で、学校に通っているのが普通なんだろう。生きると言う事に働くという感覚がまだ無いんだ。決して今の状況を容認しているわけじゃない事を理解してほしい」
カインは、うん、と一言だけで返す。シルバはそれ以上何も答えなかった。持ってきた乾燥肉は一枚も減らない。空に視線を向けると、隣合せに密集する星々の話し声が聞こえてきそうなほど、静かで、雄大で、美しい空が広がっていた。
何となく、カインは沈黙を破ってみた。同時に肉に手を伸ばす。
「そういえば、アカネは?」
すぐには答えが帰ってこない。薄暗い中で、シルバが申しわけなさそうに、しかし悪戯っぽく笑った。子供のような笑顔だった。
「レンが連れて行ったよ。ほら、あそこの岩陰だ。ランプの光が見えているだろう?」
言われた先を注視する。確かに、暗闇の中、岩の輪郭が浮き出るように、ランプの光が視線の先では漏れ出していた。
「なにしてんのさ二人で」
一拍置いて、シルバは答えた。
「分からない。ただ、レンが“カインを操る十の方法その二”というメモを大事そうに持ってはいたな」
「あいつ! て言うかその二って、その一があるのかよ! アカネに何教えてんだよ。明日が怖すぎる!」
シルバが声に出して笑う。
「くっく。明日は注意が必要だな。まあアカネは器用なようで不器用だ。心配はないよ」
「はぁ……」
ため息をつきながら、カインは明日のことを考える。アカネとの飛行のこと、オーストラリア大砂漠大陸までの航路のこと、少しだけこの世界のこと。
夜の闇の中、ぼんやりと世界に灯るキャラバンの光を下に、雄大な星々の光を上に。まっすぐ視線を向けた先、レースの舞台である大陸の、巨大な大陸棚が薄っすらと見えていた。
日差しが正面からコクピットへ差し込んでくる。日の出を迎えてすぐ離陸をしたカインたちは、迂回しながら大陸へと向かっていた。ウインドシールドを遮光モードに切り替えてはいるものの、薄っすらと側前に広がる大陸棚を日差しに阻まれ、カインは細目でしか確認できず、少しだけ苛立ちを覚えていた。
後部座席からアカネが声を掛ける。
「航路から少し外れかかっています。機体前面を少しだけ持ち上げるように操縦してみてください。直射日光を軽減できます」
「わかった、やってみるよ」
カインは操縦桿を少しだけ引き、同時にエンジンの噴射口を水平で保てるよう操作をした。アカネの指示通り、前面部が太陽を少しだけ隠し、眩しさが軽減された。視界は悪くなるが、全体が見え辛かったことを考えれば、かなりましだった。
同時にオーストラリア大砂漠大陸の大陸棚が、側面へ広がった。思わず声を漏らし、カインはアカネへ話しかけていた。
「うあー。 見て! 壁だよ壁、空の下に巨大な壁があるみたいだよ。アカネ見えてる?」
意気揚々としているカインに対し、アカネは思わず笑ってしまう。
「ふふっ、見えてますよ。でも私は何度も見た事がありますから。カインは去年なんかも見ているんじゃないんですか?」
指摘を受けてカインは顔を赤くする。確かに大陸に渡るのは初めてではない。去年も同じ航路を使っているのだ。だが、カインは前回も、前々回も自身の飛行艇を飛ばしていたわけではなかった。シンセイの指示で、単機での長距離飛行は禁止されていたのだ。なので、シンセイたちの乗る大型の飛行艇にドッキングする形で飛行艇を運んでもらった。よって小さな窓からでしか大陸棚を見ていない。だからこそ、視界の開けた状況での絶景につい感動してしまう自分が恥ずかしかった。
「そ、そうだね去年も見てるしね別に――」
言い訳のように平静を装うとしたとき、オンにしたままの通信機から声が漏れ出す。
『カイン見てるか? すっげーな! 壁だよ壁、空の下に巨大な壁があるみたいだよ。どっちがあれ先に上りきるか勝負しない? ねーしようよ!』
先ほどの自身と同じようなテンションで話しかけてくるレンだった。カインは余計恥ずかしくなった。
『レン、これ以上追い詰めてくれるなよな……』
言って、外部通信をオフにする。
「遠くから見る大陸棚も凄いけど、あれを上るときの感覚はもっと凄いですよ? 楽しみにしていてください」
アカネが優しく語り掛けてくる。
絶対に声は上げて喜ぶまい。そうカインは誓った。
「うっわ! 高度を上げても全然陸との距離が離れない!」
カインは感嘆の声を上げて、大陸棚上りの醍醐味を味わっていた。
急斜面で広がる大陸棚に沿う形で、機体を上昇させている為、計器での上昇率と目視での感覚にズレが生じる。
「速度に注意が必要だから気をつけてください。計器では確実に上昇していますから。目視だけに頼らない方がいいです」
「了解!」
甲高い声で反応するカインの後姿を見て、アカネは歳相応のカインをようやく見れた気がした。同時に、折角の気分を崩して欲しくないと思い、警告を控える事にする。
その影響で、徐々に速度を上げて上昇していくライジン。すると横を、凄まじい加速で抜き去っていく銀色の機体がカインの目に飛び込んでくる。通信が入った。
『勝負だ! ついてこれるかな僕?』
『ついてこれるかじゃなく、追い抜けるかだけどな!』
二機が一気に加速する。レン機は挑発するように、大陸棚の岩肌に接触するかしないかの瀬戸際を飛行した。カインも負けじと追随する。スピードでは勝るライジンだが、その分機動性はレンの乗る機体の方が優れていた。岩が不均等に隆起している為、右に左に縫う形で飛行して行く。完全にレンに優位なフィールドだった。だが、大陸棚を離れてスピード勝負に持ち込むほど、カインのプライドは低くは無い。離されないように最短のルートを通ってゆく。だが、追いつけない。
『へーい! 森に迷い込んだ子羊みたいな飛び方だねー。ビビッて機体が離れていってるぞ!』
『くっ!』
スピードを上げれば接触しそうになり、レンの言う通り機体を大陸棚から離さざる負えない状況が続いた。負けるのは悔しいが、手立てはない。カインは少し諦めかけて、操縦桿を握り絞める。
アカネから声を掛けられる。
「陸に対して水平飛行より、翼を陸に対して垂直に飛行した方が効率がいいかも……」
つぶやきの様な、そんなアドバイスだった。
言われるがまま、すぐにカインは操縦桿を右に倒す。機体も大陸棚に対して垂直になってゆく。翼が接触しないようギリギリを保つ。重力が傾いた機体の影響で右寄りに掛かってくる。かなりきつい操作だった。
だが、カインの眼前には、先ほどまで見えていなかった視界が飛び込んできていた。機体を縦にしながら飛ぶ事により、隆起した岩に沿って、最短でのコースが見えていた。左右に振ってかわしていた障害物を、今度は機体を上下させる事でかわしていける。
負荷はかかるが、その分スピードが出せた。
「スピード勝負ならこっちのもんだ!」
直進。
急旋回からスクロールターン。
視界が開けてまた直進。
澄んだ空と隆起した岩陰に、銀色の機体が見え隠れする。
さらに操縦桿を倒す。
「見えた! もうこっちのもんだ!」
徐々に距離が縮まり、機体の輪郭がはっきりと見える。
百五十メートル。
五十メートル。
十メートル。
「行った!」
カインが叫び、後一押しでレンの乗る機体をかわせるとなった際の際、外部通信からコクピット内で怒号が響き渡る。
『バカ野郎ども! レースは明日からだ! こんな所で競ってるんじゃねえ! すぐ上昇してこんかい!』
『了解……』
『空気読めよなー。つまんなーい』
残念、純粋にそう思った。乗っているのが一人であったのであれば、叫びたい気分だった。カインは操縦桿を引き、機体をもう一度、大陸棚に対して水平となるように操縦する。そしてかなり上空にいるキャラバンの大型機に視線を向けた。
アカネが背後から声を掛ける。
「高度を三百メートルまであげてください……残念でしたね。もう少しで追いつけたのに。レースでは絶対勝ちましょうね!」
意志の入った力強い言葉だった。カインは少し意外に思う。自分一人が熱くなっていたと、そう思っていたから。
思わず後ろを振り返る。
アカネは力強い視線をカインに送り、笑みと小さく突き出した拳で意志を伝えてくる。
カインは、同じように力のこもった笑みで返事を返す。事ができなかった。
勝とうの一言が言えぬ理由。アカネは忘れているが、この機体に乗るのはカインではないのだ。それではARRで勝てない。必要なのはシルバの操作技術と経験値である。当然の事と思っていたが、アカネとの飛行のせいで、的確なアドバイスのおかげで、ここに来て悔しいと思う感情が芽生え始めていた。
自分と飛んで欲しい。その感情を押し殺し、苦笑いをアカネに返す。そして前を向き、機体を上昇させた。
キャラバンの大きな機体が眼前に広がるよう、後ろに付く。遅れてレンの乗る機体が横に寄せて飛行してくる。
通信を告げるランプが、カインの手元で点滅する。
『あっぶねえ、あっぶねえ。油断してたわ。腕上げたねカイン。シルバが褒めちぎってるよ。たいしたものだとさ! 勝負はARRでな。コクピットの整備には気をつけろよ!』
『この卑怯者! 絶対お前を近づかせないからな!』
当然のやり取りを返し、シルバが褒めていたという言葉に、少しだけ顔を崩す。ほんの少しの悔しさと、喜びを心に押し込み、機体の操縦に集中した。
上昇し続けた機体が、大陸から飛び出すかのように、大陸棚を越えてゆく。
眼前の光景には、海溝群には無い圧倒的な砂漠が地平線まで広がっていた。