爵位を買った梅の家、華子は寝過ごした。
薫子が弥助に後を任せ部屋に入ると、そこには異国の花の香りが広がっていた。天井には、乳白ガラスと黒い真鍮の飾りの電傘。灯されている室内。
障子いち枚向こうでは、死んだ賊の口に榊の歯を加えさせ、血が止まったのを確認した後、庭師が広げた布地をグルグル巻きつけ蛹の様な形を作っている最中。
「湯殿は既に火を落としております故」
熱い湯が満たされた錫の盥から、湯気と共に立ち昇る香。その側で、しゃんと正座をし右手に閉じた扇子を握りしめ、それを縦に使い、突き刺す様に先端を畳の上に置いている、剣呑な空気を放つ老婆の姿。
「あら、ありがとう。姥や。手数をかけるわね。これは茉莉花の香油かしら、良い香り」
それの前に座ると、先ずは手を洗い、ついで顔を洗う薫子。黙って介添えする姥や。身体を拭う綿タオルを湯に浸し、帯を解くのを手伝う。
シヤッ、シヤッ……、電球の下で音立つ衣擦れ。抜け殻の様な着物を手早く畳む姥や。ちゃぷん……、盥に入り湯を使う薫子。
「寝る前に何か飲みたいわ」
「丑の刻ですよ、お嬢様」
嗜める声。外から、チャリチャリと彼等の玉砂利を踏む音がする。
「動いたからお腹が空いたのよ」
「その様な事は、弥助に任せておけばよろしいのです!」
ピシャリと言い、立ち上がる薫子に阿吽の呼吸でバスタオルを手渡す。
「ありがとう。でもそこの火鉢に有るのは何かしら」
寝間着を着せて貰いつつ、ウキウキとした子供の様な笑顔を、苦虫を噛み潰したような顔をしている老婆に向けて問う彼女。
火鉢の側の畳の上には小さな塗りの盆。上に、花模様が散らされたテーカップと、透き通った金色が入る硝子の容れ物に銀の匙。
「……、牛乳を温めております。蜂蜜をお入れしますよ。温もれば良くお眠りになられます。さっ!髪を漉きます故、それが済んだらお召し上がりくださいませ」
あら、嬉しい。言われるままに螺鈿蒔絵を描かれた、鏡台の前に座る薫子。結っていた髪を解くと、椿油を使い柘植の櫛で丁重に梳く姥や。
「たいそう遅う御座います。学校で船など漕がないで下さいませ」
「大丈夫よ、そんな無様な事は致しません。午前中にお茶のお点前があるから、うんと濃茶を点てるわ」
親子の様な会話のやり取り。外では白い蛹を担ぎ運び出す男達。
やがてチャリチャリと音立て気配を消して行った……。
――「ああ!しまったわ!寝過ごしたじゃない!」
もう!起こしてと言ったのに!どういう事かしら!丑の刻を大きく過ぎ、夜明けが近い頃、目覚める娘が独り。チリリリ!ベルを鳴らし小間使いを呼ぶ。
イライラと待つことしばらく。
「起こして!て言ったのに!ああ、灯りをつけて」
小さなオイルランプを手に持ち入ってきた小間使いに、横柄に命じる彼女は、子爵である如月家の御令嬢、華子。とはいっても、薫子の様な生粋の産まれではない。父親が悪どく稼ぎ財を成し、落ち潰れた貴族の爵位を金で買った、いわば成り上がり貴族のひとつ。
「何度もお声をかけました」
静かに返事をする小間使い。彼女はこの屋敷ごと買われ、新しい主一家に仕えているせいか、何処か華子に対する態度がおざなりである。
「もう!気が利かない!起きるまで起こすのが役目でしょう!もう!役立たずなんだから……、ほら!早く出ていってよ!」
では、失礼します。と電傘から下がる飾り紐のタッセルを握り、引き灯りをつけると、素知らぬ顔をして部屋を下がる小間使いの彼女。
やり甲斐に満ちた以前の暮らしを思い出していた。ここに住んでいた、穏やかで高潔な主一家、それに対して今……、こんな時間に呼びつけられ、電傘をつけろとは……、
「前の旦那様の時は、如月、梅花の家って言われてたのに……、成金に買われた今じゃ『梅の家』だもの、はぁ……」
自身の仕事場に情けなさを感じていた。
「ほん!と!使えないのだから。町のお屋敷の時の召使いの方がマシだったわ!貴族に仕える女中って、なんであんなのばっかりなの」
パタンと閉じられたドア。先の子爵は早くから西洋にかぶれ、白い洋館を金をつぎ込み建てていた。
「ふう。そろそろ来るかしらね……、フフフ。あの女!ちゃんと出来たわよね。高いお金を出してお父様が雇ってる護衛だもん、丑の刻に知らせを送りますって言ってたけど……、私、寝過ごした……、あら?なんか騒がしい……」
廊下をバタバタと走る音。知らせかしら?にしては変。キシリ……、高いベッドから出ると様子を見る為にドアを少しばかり開け、廊下に顔を出した。
苛つく父親の声。
「この時間に……、どういう事だ……」
離れて行く声。執事の声が顔を出している華子に、途切れ途切れに聞こえた。
……、裏の不浄門に……、口に榊を……、どうします……
「とりあえず河原で焼け!」
バタン!父親のソレを聞くと慌ててドアを閉めた。不安な予感が彼女を包む。ドキドキとしてじっとしていられない華子は、部屋の中をグルグル回る。
……、え?何の話なの?失敗しちゃったの?不浄門って、焼けって!そういう事なの?で!でも!
「喋るなって!言付けてたのに……、あ、もしかしたら別の奴の話かもしれないわね。お父様やお兄様、お母様かしら、きっとそう、そうよ!そうに違いないわ」
自分に言い聞かせる華子。不安はどんどん膨れて大きくなる。白いクロスが被せられたテーブルの上の水差しから、グラスに半分程注ぐと一気に煽り飲む。
ふぅ……と吐息をついた彼女。
「……、と、とりあえずは……、寝よう」
くしゃくしゃなベッドに上がり、モゾモゾと潜り込む華子。ポスン、重ねられた羽根枕に頭を落とす。怖いので、朝まで灯りを付けたままにしようと、天井の縁が桃色に波打つ電傘を眺めて思う。
……、学校……。し、知らない顔をしてたら大丈夫よね。何か言われたら……私じゃない!って言い切れば……。
不安がもこもこ頭をもたげてくる。転々と寝返りをうつばかりの華子。眠れないのは分かっていた。じっと柔らかな布団の中にいると、悪い事ばかりを思い浮かべてしまう。
……、そうだ!灯りもついてる事だし。
眠れない彼女は気を紛らわす為に、枕の下からゴソゴソと隠してある雑誌の一冊を取り出した。
「これ、眺めてよぉっと……、うふふ、こんな時間に誰も入って来ないもん、我ながらいい考え、ああ!明日、今日か……『月刊 パパメイアン』の発売日だった!確か特集は……」
うつ伏せに大勢を整え、枕の位置を直す。そして宣伝ページを見ようと、パラパラめくる彼女。手にしているそれは『月刊 ぱぱめひあん』の姉妹誌。
『月刊 ぽひんせちあ』、なのはお約束どおり。