朧月夜のドラ猫退治
今宵はいい夜。朧月が薄らと照らしている。
さらす頬をピリリとさすよな寒気が抜けた、ふうわりとした春の夜。庭に面した縁側にてひとり、父親から監修を頼まれた『月刊 ぽひんせちあ』の頁をめくっている娘が独り。
目を通すそこには、はやりの洋装を着込んだ見目麗しい男の写真の数々、しかも女物である。
来月号の下刷りが出来たからと目を通してくれ、と作家並びに編集長を兼ねた父親が執筆している、やんごとなきお話やらをゆるりと楽しみつつ待つ彼女。
手渡されたそれを時間潰しに使い、きっとあの女なら……。来るだろうと、網を張り巡らし待っていた。そして、月が中天にあと少しという頃、彼女の読みが当たった。
「……、大人しくしろ……、少しばかり怪我を負わせるだけゆえ……」
ザッ!若芽吹く松の木を揺らし降り立つ男。くぐもった声。
黒い布で顔を覆った賊が、手薄を装う築地の塀を越えて来た。来たわ!ほくそ笑む彼女。手にしていたそれを置き、代わりに傍らに寝かせて置いていた錦の包を手に取り、立ち上がるとハラリと布を振り落とした。
そこには……
手に覚えのある薙刀がひとふり。朧月の光を浴び、煌めく光をちららと放つ研がれた刃。
揃えて置かれた草履を履かず、淡い光に照らされる庭に、タッ……。しなやかな子猫の様に降り立ち構える彼女。鷹揚に微笑み賊を誘う。小癪な!令嬢如きに何が出来る!賊はスルリと背から刀を抜くと、楽な仕事と面の下で嗤いつつ上段に構えたのだが……。
――、「他愛のないドラ猫だこと!その程度で、わたくしに怪我を負わせる気でいらしたの?ちゃんちゃら可笑しくてよ!へそで茶が沸かせそうですわ!おーほほほほ、弥助!」
普段着であるお召の袂を翻し、煌めく一閃の舞で男を捉えた彼女は高らかに笑う。主の命に従い、障子一枚隔てた陰で潜んでいた護衛を担う使用人が、荒縄を手に姿を出す。
「く……、女だと思って油断した……」
「ほーほほほ、生憎、わたくしは家でもそれなりに、手ほどきは叩き込まれておりますの。お遊びみたいな授業で手ほどきしか受けていない、貴方の仕える主と一緒にしないで、ああ、ありがとう」
夜風に高笑いが乗る。仕事を終えた弥助が靴脱石の上に置かれていた草履を手に取ると、主の前にひざまずく。
「足袋がお汚れになられましたな」
「あら……、姥やに怒られるわ」
柔らかい月光が白い玉砂利の上に降る。手足をキツく縛られうつ伏せにし砂利の上に転がした弥助。仕事を終えると懐から手拭いを出し、取り敢えずは……。白絹の裏を拭う。
空には紗に覆われた月がひとつ。庭木を揺らし風が吹く。ざわり……。音が抜ける。花の香りが漂う。
夜の庭で捕物帳を繰り広げ、弥助の手を借り茜色の鼻緒を履く彼女は、榊宮薫子、父親は伯爵の位についているれっきとした御令嬢である。
「さて……、わたくしに戯れて来たドラ猫のお話を聞かなくては……」
だんまりを決め込む賊の背に、裾をはだけ赤いはっかけと白い太腿をちらりと表に出しながら、片足を高く上げドン!と畳敷きの段重ねを下ろす。ヴッ!声が上がる。
桃色の地に、季節の花模様を染め抜いた鼻緒が結わえてある草履の下の男。その首元に手にした薙刀の切っ先を押し付ける。
「答えなくても貴方の主はわかっていますから、よろしいのですけど、言質を取りたいの。ああ、喋っては駄目と言いつけられてるでしょうから、そう……、素直に頷けば貴方の大切な『……』の、命は助けてあげてよ」
キリリ、少しばかり力を込める。ジワリと皮膚が切れ血が滲む様に顔を出す。ヴッ!噛みしめる賊、ぬるりとしたモノが流れるのを感じた。
「わたくしが名前を上げますから、首を縦に動かせば良いだけでしてよ、話したことにはならなくてよ」
ジワジワと手に力を入れているのが分かる男は、ギリリと歯を食いしばった。しかし女に気まぐれに込められでもしたら……、命が風前の灯火に、さらされている事を次第に多く流れるそれで実感をしていた。
ゆるりとゆるりと悪魔の囁きの様に、雅な女の名前が次々に聞こえる賊の男。どれもこれも薫子が通う女学校の面々。やんごとなき令嬢達の名前。
……、ありすのみやゆりこ……、たからはらかおるこ……、まつざぎゆきこ……、かわつがわまつこ……、きさらぎは……、
「あら、こくん、きさらぎ、きさらぎはなこ様、そうならもう一度……」
切っ先を首筋から一度離すと、薙刀を持ち上げた彼女。ほっと息を漏らし安堵した男。次にガッ!頬を押し付ける転がる鼻先を掠める様に、鋭く研がれている刃を地に突き刺した薫子。殺気を感じ取り、ヒッ!再び声が小さく上がる。
「如月、華子様、でよろしくて?」
死の女神の様な冷たく透き通る声が、上から降りてくる。ガクガク、軋むように大きく頷き同意を送る賊の男。ザクッ、勢い良く抜かれる切っ先。スレスレに通る鼻先。
……、ふう。これで命は助かった……、とそれを目でちろりと追いつつ、ここから出たら……、ここを離れよう、田舎に帰って……、ひと心地ついた賊は早、逃げる算段を考え始めている。
――、女は言った。上手く聞き取り難かったが、貴方の大切な『……』の、命は助けてやると。教えたら助けてやると、確かにそう言った!名をハッキリと明かして……、情報を流しら……、頼めば逃げる金ぐらいはくれるやもしれん。
刃先がこぼれたわ。そう呟く薫子。そして男の背から足を下ろすと、弥助に薙刀を手渡しにべなく言う。
「そう。ありがとう、やっぱりね。弥助が調べ上げた通り……。裏は取れたわ。約束してたわね。貴方の『大切な者』の命は助けてあげてよ、ご苦労様。弥助、何時ものように、そこな猫を美しく包装し、送り届けておきなさい」
踵を返し、しゃなりとしとやかに濡れ縁に上がり、部屋へと戻る彼女。命をうけた弥助が、シャッ!と軽い音立て刀を抜く。ヒィィ!や、約束が違う!大きな声を上げた賊。
「な!知ってたなら……、助けてくれ、助けて、里には家族がいるんだ!な、な!た、助けて!後生だから、な!な!」
泣き言を喚き散らし、まるで大きな芋虫の様に身をよじらせチャリチャリ。月の光を浴びる玉砂利の音を立てウゴウゴと逃げようとする賊の息の根をグサリと刺し、止めた。
ぴゅぅう……軽く口笛の音……、弥助様、と庭木の陰から現れる庭師の男の姿。
抜き去る際、ワッと玉砂利に散った鮮血が、点々と花弁の様に彩り淡い光を浴び、鈍くてらてら光る。それを浴びぬ様、かわした弥助は主の命を果たす為に、手下の者を呼び寄せた。