直人の仕返し
移動しているバスの中。
桜子が、足元を見ながら気をつけて歩く。視界に、奈月の体が目に入った。
「――あれ? 奈月、抱っこから解放されたの?」
奈月は、直人の隣の席で座っている。
桜子が少し飯田といちゃついて、のんびり奈月の元へ向かっている間に、奈月は直人の膝から離れていたのだ。
「なんか窓の外で交通事故っぽいの見付けたらしくて、突然放された。『何かあったら俺が悔やむから、もう良いや。自分の席でシートベルトして』って」
奈月は説明をしつつ、自分のしているシートベルトを照れながら触った。
「森田くんに大切にされてるじゃん」
「まあね。良いでしょ」
「あ、珍しく素直に自慢してきた」
「だって、酔ってる人をいつも通りにからかうわけにはいかないから」
と、直人を横目で見ながら苦笑いをする奈月。
「大丈夫そうなの?」
桜子は奈月に話し掛けたつもりだったが、直人が右手を小さく上げて、ピースサインを作った。
「俺が酔おうが吐こうが、どうってことない。奈月が怪我するくらいなら、我慢する」
と答えた。ただし、相変わらず景色を眺めたままである。
「森田くん、喋って平気なの?」
「問題ないと思う」
直人が言った。
「むしろ、本来は緊張しない範囲で歌ったり喋ったりするべきらしい。
遠くの景色を見ながら、緊張しない相手と顔を見ずに普通の会話をする分には酔い止めになる。
ゲーム見ながらゲームの質問に答えたり、初対面の人と緊張しながら話したり、変に興奮することがマズイだけ」
「そっか。ドキドキしなければ良いんだ」
「そういう意味では奈月の声はダメだね。なんかたまに変な声を出して、俺を酔わそうとしてくる」
「奈月、また発情してんの?」
と、桜子が奈月をからかう。
「違うの! さっきの体勢だと直くんの息が耳とか首にかかるから、くすぐったかったの!」
奈月は反論した。
「本当にー? どうせ、普段と違う感じの森田くんにドキドキしてたんでしょ」
「そんなことないから」
「正直に言わないと、森田くんとの写真撮ってあげないよ?」
「ええー、なんでよ……。
そりゃまあ、何されるか分からないから、ドキドキしますけど」
「何そのエロい理由」
「なんか、変にふざけられないっていうか、断ったりしにくいんだもん。
さっきも抱きしめるときに『奈月、恥ずかしい思いしても平気?』って聞かれたんだけど、何する気なのよこの人って思って。正直、質問したかったんだけど。
でも、今は遠慮させたくないじゃん? 私のことは何も気にしなくて良いよって言っちゃって」
「言っちゃえるんだ」
「言っちゃえた。
そしたら無言で引き寄せられて、ぎゅってされて。『やっぱり、奈月の体が視界の中にたくさんあると安心出来る』ってつぶやいてきて。
もう私ね、恥ずかしい思いってこういうのかよーって思って」
「ん? 奈月はどういうのだと思ってたの?」
「いや、別に変な想像してたわけじゃないけど、何されるか怖かったから。
昨日、例の『仲直りの練習』したんだけど、昨日のケンカの演技より今日の方が怖くて」
「あ! それ気になってたんだけど! どうだったの? ちゃんと仲良くなれた?」
「それが直くん、ケンカのフリってより甘えてくる感じで。『浮気してごめんね、仲直りしよ?』って感じで、全然怖くないの」
「えーかわいい。すぐ許しちゃった?」
「許さないよ。『触らないでよ』とか『そんなにキスしたかったら初美とすれば?』とか言って」
「なんで初美?」
「初美にバレンタインにチョコもらって二股始めた設定でやりたいって、直くんが言ったから」
「気まずくない!?」
「直くん、勝手に頭の中で設定固めてて、本当に浮気してんじゃないかってくらいの謝り方してきて。『キスしてくれたら初美のくれたエッチな画像全部消すから』とか」
「ええー!? そこまでしてる設定なの!?」
「びっくりするでしょ? 他にも、怒りたくなるようなリアリティーあること言いまくってきて。もうね、よくそんなアドリブ出来るなってくらい。奈月が構ってくれなかったから初美に電話したとか、奈月は写真撮らせてくれないとか、言い訳しながら私のせいにしようとしてきて。
最初は怒る演技なんて出来そうにないと思ってたんだけど、私もだんだん頭にきて。
『キスしたかったら昔みたいに勝手に押し倒してやれば? 浮気しようが押し倒そうが、後で謝れば済むと思ってるんでしょ? 浮気したってことはそういうことなんでしょ?』って、わりと普通に怒っちゃって」
「奈月こっわ!」
「そしたら直くん、キスしてこなくて」
「出来ないでしょそりゃ」
「直くんが『まだ俺のこと好きでいてくれてるよね?』って聞いてきたから無視したら、直くん涙目でオロオロしてさあ」
「かわいそうだよー」
「『このまま別れたりしないよね?』って聞いてきたから『うるさいなもー、いつまで私の部屋にいるの? 他人なんだから早く帰ってよ』って言ったら、直くん泣いちゃったんだよね」
「いや、それは私も泣くかも。奈月やりすぎでしょ」
「泣きながら『奈月が俺のこと嫌いになっても、俺はずっと好きだから。一生かけて信頼取り戻すから、俺のこと見捨てないで』って言うから、一度だけ許してあげようかなって気になってきたんだけどさあ」
「泣いてるんだからもう許しなよ! そもそも演技なんでしょ?」
「だけど、絶対に手抜きしないで本気で怒ってねって言われてたから。
浮気された私が妥協してキスしてあげるのって、流れ的におかしいじゃん。直くんがキスしてくれないから話が進まなくて」
「森田くんからは無理だよ。森田くんの性格で、怒ってる奈月にキス出来るわけないでしょ」
「してくれたもん!」
「ウソ!? どういう流れで?」
「んーとね……ちょっと言うの恥ずかしいんだけど」
と、奈月はしぶった。
「それ完全にエロいやつじゃん」
「ち、違くて!
最終的に『高校卒業したら結婚して、浮気出来ないように同じ部屋で毎日見張っててほしい。ご飯もお風呂も寝るときもいっしょにいたい』って、言ってくれて」
「え!? プロポーズじゃん!」
「ただの演技だからね?」
「ただの演技でも、嬉しくない?」
「まあね。おままごとだから、現実的なプレッシャーとかないし」
「じゃあ、奈月が許してキスさせてあげた形なんだ?」
「いや、私は黙ってた。わりと無理矢理キスされた。
直くん、耳にキスしてから『奈月、俺のプロポーズ断らないの? 奈月がイヤって言わなかったら、このまま口にもキスするよ。キスをしたら、奈月はもう俺の女だからね。奈月の心も体も俺のだよ? 良いの?』って、耳元で言ってくるわけ。
私、イヤって言えなくて。とうとうキスされちゃった」
「なにそれ、奈月が大好きなやつじゃん」
「勝手に決めないでよ!」
「それでそれで!? 森田くんの女にされて、どうなったの?」
「そこでおしまいだけど」
「はあ!? そんなわけないでしょ」
「そんなわけないって言ったって、実際そうなんだから仕方ないじゃん。
やっとキス出来たと思ったら私まで泣いちゃって、仲直りに時間かかっちゃったねーって、二人で泣きながら笑って」
「笑って、その後に押し倒されて?」
「いや、本当に何もしてないから。ね?」
奈月は、直人に助けを求めた。
直人は面倒くさそうに
「……睡眠不足だと今日のバスで酔うからね。そしたら奈月は、自分の責任だと思うだろうから。泣く泣く我慢したよ。
もう俺の女なんだから、焦る必要なかったしね」
と答えた。
「まあ、昨日のは演技だから『俺の女』ではないですけどね」
と、奈月が訂正する。
「いや、もう俺の女にするって決めた。俺が奈月にしたいこと、全部するから」
「バカ! 私、させないからね!?」
慌てる奈月。
「冗談だよ」
直人は、景色を見ながらかすかに微笑んで、奈月の手を握った。
「昨日、なかなかキスさせてもらえなかったから、ちょっと仕返ししたくなって。ごめんね。
――怒った?」
「ううん、大丈夫」
答えながら、奈月はうつむく。
桜子は奈月の顔を覗き込み、こう言った。
「森田くん、奈月は喜んでるから安心して」