絶対に何もしない
「考えてみると初デートか私ー。緊張する、どうしよう」
桜子はすっかり冷めたコーヒーを飲むと、ため息をついた。ドーナツの皿も、既に片付けられている。
「飯田くんの方も、今頃どうしようって悩んでたりして」
奈月は、桜子が話に乗ってくると思って、励ますつもりでそう言った。
「飯田くんはデートだと思ってないでしょ。こいつ便利だな、くらいにしか思ってないんじゃない?」
「あれ、急に弱気になったね。どうしたの?」
「だって飯田くん、あんまり遠慮しなかったじゃん。もしかして、私一人と買いに行くとは思ってないんじゃないの?」
「えーでも、私が聞いてる分には明らかに二人きりで服を選ぶって感じだったけど。飯田くんが服どうしようって言って、桜子が私ならいつでも暇だよって言ったわけでしょ? しかも、一回飯田くん、迷惑かなって言ったわけだし」
奈月は口に出して確認した。
「だけど、勘違いすることってあるじゃん。私だって『タマゴの日』の『卵』を勘違いしたんだし。
――ってかあれ、絶対バカだと思われたよね」
「大丈夫、ああいうのってかわいいって。
飯田くん、桜子のこと気に入ったんじゃないの? 自分の誕生日の予約を、異性一人にオーケーするって相当なことだよ」
「そうかなあ。飯田くんって、橘さんみたいに勉強出来そうな子の方が好きそう……」
「そういえば、直くんは橘さんに世話してもらって好きになったっぽいけど、飯田くんもそんな感じで好きになったのかな?」
「世話焼き系とか、私と真逆だよねー」
「桜子って、女子への面倒見は良くない?」
「女子にはね。私、男子のボタン直してあげたこととか、体操服を畳んであげたこととか、そんなのないもん」
「お好み焼き作ってあげたじゃん」
「あれは頼まれたものだから、ちょっと違うし。橘さんなら多分、言われなくても気付いて、嬉しそうにお好み焼き作ってあげるわけでしょ? 『出来ないなら貸してみ、こうやるんだよ』って感じに。
男子にそんな風に接したことないと思う。そう考えると、私って飯田くんの好みとは違うかなって」
「でも、飯田くんがそういうとこを好きになったのかどうかは分からないしさ」
「森田くんなら知ってるかなあ?」
「そんなに気になるなら、もうメールして全部バラそうか?」
「そだねー……。もし私に全然ない部分を好きになったのなら、ちょっと対策考えなきゃだし」
「じゃあ送るよ?」
「あ、待って。やっぱり小説のこととかが落ち着いてから自分で聞く。多分、飯田くんのことたくさん聞いちゃうだろうから。その方が橘さん的な考え方だし」
奈月は、桜子をいじらしく思った。
「飯田くんの、どんなこと知りたいの?」
「とりあえず、私服デートになった場合に何を着ていけば良いのか」
「直くん、飯田くんが好きな服なんて知らなそう」
「男が好きな服でも良いから聞きたい。奈月、大人になってからの初の私服デートってどんなだった?」
「デートか分からないけど、直くんのバイト先に行ったのが最初かな。
でも私の場合、子供のときにずっと私服で遊んでたし、その後もたまに私服ですれ違ってたから、桜子ほどプレッシャーはなかったかもね。それに、暖かくしてお腹を冷やさないようにって指示されてたから、とにかく暖かそうな服装にすれば良かったし」
「そっか、まだお腹が痛かった時期だもんね」
「そうそう。だから、私の膀胱炎のために料理も全部調整して作ってくれて。とにかく優しくって。態度が昔と全然違うじゃんって思った。あんなの反則」
「昔は優しくなかったの?」
「性格は優しかったけどさあ、前は言葉がまだ足りなかったんだよね。私が指を切ったり熱を出したりしても、オロオロして見てるだけな感じで。心配してくれてるのは分かるんだけど、完治するまでは極端に遊ぶの遠慮するし。治ってきたから遊ぼうとかは、基本的に私から言わないといけなくて。
それなのに、完治しなくても遊んでくれて、でもたくさん心配してくれて。バイト先で料理が作れるようになってて、柚子抜いたり醤油薄くしたり考えてくれて。何も出来なかった頃とのギャップがすごくて。だからもう、最高の初デートだった」
「そういう風に優しくされるの、羨ましいわ。それだとあんまり緊張しなかったでしょ?」
「緊張したよ、行く前からドキドキしてた。でも、失敗するかもとか、嫌な感じの緊張はしてなかったかも。遠足とかの前日当日みたいな感じ。
前日も前々日も優しくしてくれてたから、ちょっと自信取り戻してたし。ほうじ茶とか用意してくれて、もうお姫さま扱いだったもん。また昔みたいに仲良くなれるかもって、ワクワクしてた」
「三日でそんなに仲良くなれるのに、なんで何年も付き合いストップしちゃってたのかねえ」
「やっぱり、私が部屋に行かなくなったからかなあ。直くんが風邪のときとかは仲良く出来たもん。お互いの部屋で二人きりだと、素直になれるんだよね」
「風邪の日みたいに、たまに仲良く出来た日があるんだよね?
仲良く出来た次の日から、またイチャイチャ出来ても良いと思うんだけど」
「用事もないのにお互いの部屋に行くには、もうハードルが高くなっちゃって。気軽に遊びに行くって感じじゃなくなってたのよ」
「私も小学校・中学校の友達とほとんど遊んでないから、なんとなく分かるけどさあ。マンションで隣でも、そこまで疎遠になっちゃうのかな」
「しばらく会ってないとダメなんだよね。直くんも、エレベーターでいっしょになるだけで緊張したって」
「なんで?」
「なんか、私がかわいく見えて仕方なかったって。肩を見ると抱きしめたことを思い出して、口を見るとキスしたことを思い出して、頭を見ると撫でたことを思い出して……って感じ」
奈月は直人の言葉を思い出しながら話したが、さすがに「胸を見ると健康ランドを思い出して」の部分は言えなかった。
「奈月のことすごくかわいいって言ってるもんね、森田くん。一回離れたことで、かわいさを意識しちゃったのかね。
奈月、しばらくつらかった?」
「中学の頃はそうでもないんだよね。そもそもほとんど会わなかったし。会えるのに構ってくれなかったって意味で、高一の頃が一番つらかったかも。どうしてもたまに顔を合わせちゃうから」
「高二じゃないんだ?」
「高二は同じクラスだから、たまに話せたもん。ちょっと何かで不安になっても、短い会話をすると、嫌われてるわけじゃないかもって嬉しくて。
ああ友達がいるんだなとか、今も体育が苦手で国語と数学が得意なんだなとか、色々知れたし。彼女いなそうだなとか」
「えっ、ずっと狙ってたの? 失恋状態っていうか、森田くんへの気持ちが落ち着いてた時期、みたいな言い方してなかった?」
「落ち着いてたけど、直くんを見張ってたの。変な女の子に騙されて貢いだりしないように」
「全然落ち着いてないじゃん」
「落ち着いてたよー。少なくとも高一と比べたら」
「高一はどんだけひどかったの?」
「高一はね、滅多に話せないのに近くに存在してるから、安心感が足りなかった。直くんに友達が出来たかどうかとか、分からないままだから。廊下で目が合って無視されると、すぐに心配になるんだよね」
「無視されたんだ?」
「無視っていうと言い過ぎかもしれないけど、ひどいよね」
「ひどくはないけど、私も飯田くんに廊下で無視されたら自信なくしちゃうなあ」
「そうでしょ。自信なくなるよ。部屋に遊びになんて行けないよ」
「そうだね、無理かも。私も失恋モード入る」
「大失恋モードよ私も。心臓に優しくないよー」
「長いこと優しくしてもらえなかったんだ?」
「高一はきつかった。今日、帰ったら高一の話で直くんいじめようかな。
あっ、でも私が家の鍵を忘れたときは、すごく優しくしてくれたよ。ものすごい女の子扱いしてくれて。ああいうの初めてだったかも」
「えーなになに!? 初めてってなに!?」
桜子が前のめりになった。
桜子が強い興味を示したので、奈月はぎょっとした。
「べ、別にたいした話じゃないんだけど」
「良いから教えなさい」
桜子は、興奮しながら催促した。
「えっと、私がウチのお母さんに鍵を忘れたことを電話して、ウチのお母さんから直くんのお母さんへ電話してって流れで、直くんに伝わっちゃって。直くん、お母さんと買い物してたのに、スーパーの荷物持ちながら走って帰って来てくれて。走るの嫌いなのに、全速力で。
それでね、直くんおかしいんだよ。エレベーターから出てきたときは落ち着いてるフリをしてゆっくり歩いてきたんだけど、すごいハアハア言ってて。もし見てなくても、走ってたのバレバレ状態なの。
私が『走ってくれてたの、窓のところから見てたよ』って言ったら『なんで見てるんだよ』って恥ずかしそうに笑ってね。
荷物を勝手に片方持ちながら『別に走って来なくても良いのに』って笑ったら『今、女の子がここのマンションの廊下に一人でいたら、すごく危ないよ。この前、エレベーター付近で痴漢があったらしいから。ウチにも警察が聞きに来て、寝てたのに起こされたんだよ。チビだからこいつじゃないなってなったけど』って言ってくれて」
「森田くん、心配して走ってくれたんだ」
「私もそう思って『私のこと心配してくれたの?』って聞いたら『俺なんかに心配されたら、逆に気持ち悪いかな』って言うから『そんなことない、すごく嬉しいよ』って」
「良い感じじゃん」
「それで直くん、焦って鍵の向き間違えながら『ウチも危険って感じるかもしれないけど、絶対に何もしないから安心して。すぐに母親も戻ってくるしさ』って、一生懸命な言い方で、家に入れてくれて。きっと走りながら、私が緊張しない誘いかたを考えてくれてたんだろうなって思って。ニヤニヤしそうになっちゃった」
「私そういうの大好き」
「だよね、私も大好き」
「でも、奈月的にはちょっと残念な感じ? 二人きりになれる時間短いの」
奈月は微笑みながら否定した。
「ううん。直くんのお母さん、結局なかなか帰って来なかったの。だからたくさん話せちゃった。そのときはコーヒーじゃなくて紅茶だったけど、ちょうど今の私たちみたいに向き合って飲んでて――」




