新婚病
翌朝、直人の町には雪が積もっていた。
寒さというのは、もちろん膀胱炎の大敵だ。しかも、身体が痛い時に足もとの雪に気を付けながら、全身に力を入れて道を歩くというのは、なかなかつらいことである。
それに、膀胱が腫れている時に腹部を強くぶつけると危険なので、雪で滑った時に大怪我になりかねない。
直人と奈月は二人で相談して、学校まで割り勘でタクシーに乗ることになった。
出発して少し経ったとき、直人がくしゃみをした。
運転手は、
「寒いですよね」
と話を振った。その運転手は女性だった。
「そうですよねー」
と、答えたのは奈月である。どうせ直人は慣れるまでまともに話せないと思った奈月が、直人の代わりに返事をしたのだ。
「この時期は静電気もすごいし。今朝なんか私、静電気バチッてなって一発で目が冴えちゃいましたよ」
と、奈月は話を続ける。
「あれは嫌ですよねー」
寒い日によくある嫌なことの話になっていき、二人の会話は弾んでいた。
直人は、奈月の横顔を見ながら、初対面の大人の人とよくこんなにスムーズに話せるもんだと思った。
……押田さんの周りに人が集まる理由の一つは、こういう部分なのかな。
「たしかに、今日は歩きだと大変でしょうね」
話題は、交通手段に変わっていた。
「でも私、わりと迷ったんですよ。この人、昔から乗り物酔いするので、心配で」
奈月が直人を見る。
「だから、距離的に大丈夫だって。俺の心配してる場合じゃないでしょ」
「安全運転の範囲で、急ぎますね」
その後も、奈月は直人をからかいつつ、楽しそうに喋り続けた。
直人は運転手のそれまでの雰囲気を見ていて、年上の女性ならではの知的さを感じた。
運転手さんなら、俺なんかじゃ気付かないアドバイスをくれるかもしれない。
勇気を出して聞いてみることにした直人。
「この人、トイレの我慢のしすぎで膀胱炎になっちゃったんですよ。それなのに今日も俺の乗り物酔いの心配ばかりして、最初タクシーじゃなくても良いって言って。もしあなたが雪で転んだりしたら俺の心臓が止まりますからって言って、ようやくタクシーにしてもらえたんですよ。
そういう遠慮をしてたらなかなか治らないって言ってるんですけど、いまいち聞いてくれなくて。何か良い膀胱炎対策ってないんですかね?」
「そうですねー、膀胱炎は新婚病とも言われてしまうくらいで、デリケートな問題ですからね。なかなか難しいですよね」
「新婚病、ですか?」
初めて聞く言葉だった。直人は思わず聞き返した。
「新婚旅行先で、なかなかトイレに行くと言いにくくて、それでトイレを我慢しちゃって、膀胱炎になっちゃうんですよね。特に女性の方は」
直人は驚いた。これから二人で一生を過ごそうという仲になっても、トイレをそこまで我慢するなんて。直人は新婚旅行でそんなことが起こるなんて、今まで考えたこともなかった。
「結婚している間柄でも、そこまでトイレを我慢してしまうものなんですかね?」
「やはりその場のムードもあるでしょうし、夫婦とは言えなかなか言い出せないのでしょうね。昔はお見合い結婚も多かったので、今以上に新婚病になりやすかったと聞きますよ」
「夫婦でも……」
直人はすっかり意気消沈してしまった。
新婚旅行に行くような人たちでも起きてしまう繊細な問題に、俺なんかが口を出して良いのだろうか。もしかしたらただのセクハラなんじゃないだろうか。
直人は、自分の行動がとんだおせっかいかもしれないと思うと、なんだか悔しいような悲しいような、複雑な気持ちになった。
「――あの!
僕は、この人に今はなるべくトイレを我慢しないでほしいんですけど、知り合いごときにそんなこと言われても、女性からすれば無理というか迷惑なんですかね?」
「いきなりなんでもオープンな関係にはなれないかもしれませんけど、その気持ちは大事なんじゃないですかね。心配していることを伝えることについては、とても大切だと思いますよ。」
運転手が優しく言った。
「そっ、そうですよね! 気持ちだけは伝えるようにします!」
運転手の言葉を聞いて、直人は今度はとたんに勇気が出てきた。
「あと、女性のファッションに触れるのってどうなんですかね? 例えば、タイツの方が暖かいんじゃないのかとか、聞きたくなったんですけど。服装の選び方って、別に寒い暖かいだけじゃないじゃないですか。実際、冬でもミニスカートが好きな女性もいて。
スカートの長さとか、口を出さない方が良いですかね?」
「それは人によりますけど、やっぱり学生の女の子はかわいい格好をしたい人が多いですからね。聞き方も大事かもしれませんね。
今の服装を否定する言い方より、相手の選択肢が増えるような言い方ですかね。
例えば、俺はタイツとか見てて暖かそうで好きなんだけど、タイツって人気ないのかなとか、あくまで一つの提案としてなら――」
運転手は、直人の質問に嫌な顔せずに答えていく。
直人が隣で勝手に一喜一憂しているのを見ながら、奈月は密かに笑っている。
奈月は、じんわりと自分の周りが暖かくなった気がした。
もしかしたら、運転手さんが車内の暖房を強くしてくれたのかな? それとも……。
二人は、学校の少し手前で降ろしてもらうことにした。クラスメイトに見られでもしたら、変にからかわれる可能性があるからだ。
「足元に気を付けてお降り下さいね」
タクシーから降りる時、運転手が注意を促した。
「良かったら掴まって」
乗り物酔いの心配をされて先に降りていた直人が、奈月の前に手を出した。
「ありがと」
素直に受け入れ、直人の手を握る奈月。
奈月と手を繋いだ直人は、なんだか心臓が苦しくなって、後ろめたさのようなものを感じた。
「ご乗車ありがとうございました。それでは、お大事になさって下さい」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
車がゆっくりと走り去っていった。
「これ、名刺ティッシュもらっといた」
といって、奈月はティッシュを、一つ直人に渡して、もう一つはポケットにしまった。
「ああ、良い人だったもんね」
「あれ? これ、あの人に電話が繋がるわけじゃないみたい。センターに繋がるのかな」
「女性の運転手なんてまだまだ珍しいだろうから、見た目の年齢や特徴とか言えば誰か分かるんじゃないかな?」
「そっか。頭良い」
「いや、分かるか分からないけどな」
と、直人が、真面目な顔でややこしいことを言う。
「それ言い方変だよ」
奈月は、思わず吹き出した。
その晩、直人は奈月を自分の部屋に呼びだした。
「電話やメールだとちょっと。変に伝えて勘違いされたくないから」
と、直人に意味深に言われた奈月。前回とは違い、かなり緊張しながら直人の部屋に向かった。
ついでに言うと、服のコーディネートも散々迷って、結局制服をわざわざ着直した。
直人は、奈月が部屋に来るなり、
「あの、これはセクハラだと思ったら答えなくて良いけど、押田さんは彼氏いるの?」
と深刻そうに尋ねた。
「森田君の場合は理由があって聞いてるんだろうから、セクハラなんて思わないけど。どうしたの?」
どう返事したものか迷い、奈月は直人に質問を返した。
「運転手さんが新婚病について教えてくれたでしょ。あれネットでちょっと検索したんだけどさ。結構理由が深刻だったんだよ。調べてみた?」
「あ、私も検索しようと思ってたんだけど忘れてた。なんだって?」
「多分あの人は、気まずくならないよう、詳しいことは言わないでおいてくれたんだろうけど、昔の人はハネムーンの時に初めてセックスをするパターンも多かったとかで、自分の持ってない細菌をハネムーンで初めて交換したりしてさ。
それに、初めてとまではいかなくても、お互いそういうことに慣れてなければ、苦戦して長引くこともあるし、ずっと裸じゃトイレにも行きにくいよね。それらの要素も、ハネムーンでの膀胱炎が新婚病って呼ばれる理由の一つなんだって」
「へえ」
奈月は納得した。なるほどなるほど、それはそうなるだろう。
「だから、その……。
あの、押田さんに、もし付き合いはじめたばかりの彼氏がいたりするなら、しばらくそういったことは控えた方が良いかも、と思って。
……それで呼んだんだけど」
直人は、とても言いにくそうに話しながら、心配そうに奈月の目を見た。
奈月は、ここで私が変に恥ずかしがったら、さらに申し訳なさそうな顔をされてしまうと思った。
「彼氏なんていないから大丈夫だよ」
と、あっさりと伝えた。なるべく平静を装いたかったのだ。
「そうなんだ? じゃあ良かった。呼んだ理由はそれだけなんだ。電話とかで伝えて、変な風に思われたら嫌だったからさ」
直人はほっとして、笑顔を見せた。
極度に緊張していた直人は、奈月が少し残念そうにしていることは見抜けなかった。