最初の結婚の約束と最初の結婚の約束
「飯田くん、良かったらおごりで何か食べてほしいって電話してくれた感じ。けど、私が関係ないこと聞いちゃったから、あと十分くらいで戻れるみたい。森田くんに任せるって」
桜子は、スマホを直人に返しながら、飯田の言葉を伝えた。
「お、良いじゃん。お腹空いたし、何か食べようか?」
直人は喜んだ。直人はファミレスで一番多く食べていたので、追加注文を遠慮していたのだ。
「まだそんなに食べられないかも」
「食べようとすれば少しは入るけど、なんかもったいないよね」
亜紀と奈月は、尻込みした。
「お腹空いてないんだ?」
二人の反応を見て、直人は考え込んだ。
「小腹が空いたって感じだと……」
駅前の飲食店を見渡して、直人はテイクアウト可能な店を見付けた。
「飯田ってさ、骨なしフライドチキン好きなんだよ。飯田に遠慮したい人が多ければ、あそこでお持ち帰りパックでも買って、広場でゆっくり食べとくとか。
そうすると飲み物が買えないけどね。みんな、ペットボトルまだ残ってる?」
「あるある。ファミレスで飲みまくったし」
「コンビニでコーヒー買っても良いしね」
「じゃあ、チキン持ち帰りパックにしようか?
余ったら飯田に食わせれば良いし。俺らが遠慮しても飯田はどうせ帰りに牛丼買うだろうから、とりあえずチキンを買っておいて、腹減ってる飯田がすぐ食べられる状態にした方が良いと思う。待ち時間なしで骨なしチキン食えれば、性格的に飯田は喜ぶはず。もし飯田がイマイチな反応なら俺が謝るから、チキン買ってみない?」
直人の提案に、みんな納得した。
「――うわ、美味しい」
「お腹が空いてなくても、こういうの食べれちゃうよね」
「でも体重計が怖いよね、しばらく」
女子三人は、骨付きチキンを食べながら嬉しそうに笑っている。
直人は、この笑顔を見れば飯田も大喜びだろうと思って、安心した。
「健康ランドの館内着ってやつ、着るの怖いわ。ああいうの着ると絶対お腹が出ちゃうの私」
と、桜子が不安がる。
「もし昔と同じタイプの布なら、広瀬さんの体型だったらお腹は出ないと思うよ」
猫舌の直人は、ジューシーなチキンをチビチビかじりながら、桜子に言った。
「そうなの?」
「説明すると、多少セクハラになっちゃうんだけど」
「良いよ良いよ」
直人は、広場の椅子から立ち上がって、
「女子の服の名前よく知らないから説明しにくいけど、なんかワンピース的っていうの?
こう、胸の膨らみの頂点からストーンってまっすぐ下がる感じで。絞る部分がないワンピースタイプ? イメージとしては大きめのレインコートみたいな」
と、身振り手振りで説明する。
「あー、お腹んとこスカスカなんだ?」
「そうそう。男からすると、目線に困るやつ」
「直くんはさー、昔からそんなことばかり覚えてるんだよね」
奈月にからかわれた直人は、不機嫌な顔をして、
「俺が服の構造を覚えてるのは、奈月と一つの服に入れたからだよ?」
と、奈月に理由を言った。
「何その遊び」
奈月は思いあたることがなく、直人に聞いた。
「健康ランドの仮眠室で、二人で毛布に入って抱き合ってたら、奈月が勝手に俺の服の中に入ってイタズラしてきた」
「そういうの聞くたびに、イタズラの内容がすごい気になるんだけど」
と、桜子。
「奈月に誘惑されて、結婚の約束させられたんだよ」
「昔の奈月って、すごい情熱的だよね」
と、亜紀が微笑んだ。
「えっでも、私エッチなことはしてないよね?」
奈月は直人を見る。
「うん、俺が誘惑に負けただけだね。詳しく言った方が奈月の名誉のために良いかな?」
「聞きたい」
桜子は、奈月のためというよりは、興味本位でそう言った。
「まず『お母さんが寝るまでお話して起きてようね』って、一つのベッドに二人で入って、ずっと小声で会話してて。
隣にいる二人の母親が寝たら、奈月が毛布をかぶって乗ってきて、毛布二枚の中に二人の体を隠して。そのまま俺の服に潜り込んで、服から頭を出して抱きしめてきてさ。小声で『すべすべで気持ちいいね』って言いながら、背中を嬉しそうに触って。お互いお風呂上がりだから、奈月の手がしっとり温かくて、俺の背中もまだベトベトしてないわけ。
部屋が暗い上に毛布を二重で被ってるから、真っ暗で視覚が封じられてるんだよね。そんな状態で密着されて、指先で背中を触られたらさ、もうビクビクしちゃって。
俺は声が出そうになって『お母さんたちにバレちゃうよ』って拒んだんだけど、そしたら口をふさぐためにキスしてきて。それがまた、泣きそうになるくらい気持ち良くて。
なぜかというと、健康ランドの脱衣所に置いてある使い捨て歯ブラシって、中身は大人の歯みがき粉で、その大人っぽい香りと、口の中がスースーする感じが、まだお互いの口にかなり残ってて。いつものキスとは口の匂いが違って、すごいドキドキして。ちょっと唾液も甘く感じて、ガムみたいですごく美味しくて、キスに夢中になっちゃってさ。
シャンプーの匂い・リンスの匂い・ボディソープの匂い・牛乳風呂の匂い・歯みがき粉の匂いと、毛布の中にとにかくいい匂いが充満してて。奈月の髪の毛も当然サラサラで、触るといつもと違うシャンプーの匂いが巻き散って。暗い中で触ると、触り慣れた奈月の髪じゃなくて、別物の触り心地と香りなんだよ。もう女の子の髪で。小声で耳元で喋るから、吐息が混じって声まで違って聞こえる。視覚が目隠し状態な中で、味覚・嗅覚・触覚・聴覚にものすごく訴えてきて、ゾクゾクが止まらなかった。
しかも、子供ながらに『ここでなっちゃんを脱がしてバレたら、なっちゃんが恥ずかしい思いをする。今だけは絶対に我慢しないといけない』ってのは分かってて、エロいことはやれない。抱き合うこととキスしか出来ない。キスしか出来ないと思うと味覚にますます集中して、美味しい唾液がたくさんほしくて『もっとちゅーして』って頼んじゃって。
奈月に『もっとちゅーしてあげたら結婚してくれる?』って言われて、俺は『したいけどまだ出来ないよ』って、いつも通り逃げて。奈月は、牛乳風呂ですべすべになったほっぺたを俺のほっぺたに当てながら『好きなときで良いよ。約束したらちゅーしてあげる。奈月と毎日ずっとちゅーしよ?』って、俺の耳元で囁いて。俺はキスがしてほしくて、つい『なっちゃんと結婚するから、ちゅーして』って言っちゃって。
……それが最初の結婚の約束だよね?」
「それ違うって!」
奈月は、顔を真っ赤にして否定した。
「俺の記憶違い?」
「絶対そう!
だって最初の結婚の約束って、冬に何かでケンカした後だもん。
理由覚えてないけど、ウチに泊まりで寝てたらケンカになって。前にも言ったけど、当時は直くんって、言葉では謝ってくれない人で。直くん、手を繋ごうとしたり、態度で謝りたい気持ちを教えてくれたんだけど、怒ってたから何度触られても手を払いのけちゃって。それでもすぐ近くに居ようとしたから、私ベッドに入って『ベッドに上がってきたらお母さんに言うから』って言って。そしたら、ずっとベッドのそばの冷たいフローリングに座って、ずっと見てきて。私が『見ないでよ』って言って、ベッドのぬいぐるみを全部投げても、部屋の隅まで飛んでったぬいぐるみを拾ってきてベッドの上に置いてくれるだけで、こっちを見るの止めないから、私、もう布団かぶったんだけどさ。
すごく怒ってたのに、布団をかぶったら暗さと暇さで、いつの間にか寝ちゃってたんだよね。直くんの連続くしゃみの音で起きたら、直くん床で寝転がってて、元気ない顔をしてて。
私、飛び起きた。直くんの手を触ったらものすごく冷たくて、すぐにベッドに入れて、必死で抱きしめて暖めながら『ごめんなさい』ってずっと泣いて。でも直くん、全然怒ってなくて、笑いながら『良いよ』って、抱きしめてくれて。『許してくれるの?』って聞いたら『結婚してくれたら』って言ってくれて、それが最初の結婚の約束じゃないの?」
「ちょっと待って。奈月って、俺らの母親になっちゃんって呼ばれてて、俺も当然なっちゃんって言ってたはずだよね?
健康ランドの次の日に『もう夫婦なんだから、お母さんがいないときは奈月って呼んで』って奈月が言って、それから呼び捨てになったんじゃないの?
ケンカした日って、もう奈月って言ってたわけだよね。だから『結婚してくれたら』じゃなくて『結婚してくれるから』って言ったんじゃないの? もしくは、感極まってた俺の滑舌が悪くて、そう聞こえたとか」
「ええ!? 直くんが勝手に奈月って言い出したんじゃないの!?」
「俺が奈月って言い出せるわけないと思うんだけど。
それに、その日のケンカの原因って、俺が嘘をついてたからでしょ? お子様ランチか何かでもらったおもちゃの結婚指輪を、俺が失くして、怒られるのが怖くて隠してて。
プロポーズ前にしては距離が近いと思う」
「指輪って、プラスチックのお花のアレ?」
「そこまでは覚えてないけど」
「私、なんとなく奈月が忘れてる気がする」
「私も」
桜子と亜紀は、直人を支持した。
「とにかく、プロポーズをそこでしたかしないかはともかく、時系列的には絶対に健康ランドの方が先。
冷たい床で寝た日に足の指がしもやけになって、でも親に言ったら奈月が怒られると思って、隠しててさ。薬とか塗れなくて、なかなか完治しなくて。奈月が俺のしもやけに足の指先を絡めてくると、しもやけがやたらくすぐったくて、もっとしてって頼んで。それで俺、奈月の足がすごく好きになったんだから。
健康ランドのときって、まだ奈月の足が大好きじゃなかったから、全然足を触ってなかった。だから健康ランドの方が先。しもやけが先だったら、健康ランドで足を触りまくってるはず。
実際、お医者さんごっこのときも、スカート側っていうか足からだったじゃん」
「やっぱ、森田くんの話の方が説得力あるね」
「絶対しもやけの日が後じゃん」
「えー、じゃあ私のプロポーズしてもらった思い出は嘘? 私が無理矢理プロポーズさせたの?」
奈月は、残念そうに直人を見た。
「それはどうか分からない。奈月が合ってるかもしれないし、二人とも合ってたり、二人とも違ってるかもしれない。ただ、しもやけになったのが健康ランドの後なのは、かなり自信がある。
まあ奈月の思い出の方が良い思い出だし、帰ったらアルバムで指輪してる写真とか探して、日付けを確認――そういや、俺ら駅前でチキン食べながらプロポーズだの足が好きだの、何の話してるんだ?
外で変な質問するのやめてよ広瀬さん」
直人はふと我に返って、桜子を見ながら笑った。
「私のせい!? 健康ランドでそんな、本格的なイタズラしてると思わないじゃん。奈月がエロいせいでしょ」
「私エロくないもん! 多分、本当は直くんが私を服の中に無理矢理入れてきたんだと思う」
「それは無理があるでしょ! 大喜びで抱きついてる奈月が目に浮かぶもん」
と、桜子は奈月の言い分を笑い飛ばす。
そのとき飯田が戻ってきて、
「良かった、食べててくれたんだ」
と言い、桜子の隣に座って、チキンの入った持ち帰りボックスを覗いた。
「あ、飯田くんお帰り! チキン先に食べてるよ、ありがとう」
桜子は、姿勢を正して慌てて取り繕ったが、内心恥ずかしくてたまらなかった。
今のバカ笑い、飯田くんに聞かれちゃってたよね? 嫌われたかなあ。
桜子はチラチラと飯田を見ながら、そんなことを本気で心配していた。




