奈月について考える時間
「ふう、マッサージ効果すごいかも。なんか汗かいたし、喉渇く」
奈月はそう言いながら、鞄からタンブラーを出して口を付ける。
「それ、温かいやつ?」
直人は、ついつい奈月の唇を見てしまいながら、奈月に質問した。
「うん、ほうじ茶だけど。飲みたい?」
「いやいや、温かいのかなって思って。昨日少し調べて、温かいのオススメみたいだったから」
「まずとにかく水分補給なんだけど、体を冷やさないようにした方が良くて。だから正直、放課後は早く帰りたいんだよね」
直人は、放課後に奈月の周りに人が集まっていたのを思い出して、
「学校や行き帰りって、ペットボトルとかは自由に買いに行けてるの?」
と聞いた。
「行けなかった。みんなといっしょに帰ったし」
「水筒的な物を持っていくってのはどう? 冷めにくいやつ」
「明日からしばらくそうしようかな。でも、今お母さんに家事の手伝いとか禁止にされてるから、多分水筒の用意ももやらせてくれないんだよね。またお母さんの仕事増えちゃうなあ」
「それくらい良いじゃん。むしろお母さん、押田さんが持ち帰ってきた空っぽの水筒を見れば、安心出来ると思うよ」
「なんか森田くんに言われると、お母さんにもっと頼っても良いのかなって気がしてくる」
「頼って良いに決まってるよ。親にも、俺にも。
だからお腹を治すことだけを考えようよ。今は家事なんかより、お母さんを早く安心させてあげることが一番の親孝行だよ」
「うん、そうだよね。ありがとう。森田くんがいてくれて良かった」
「それにしても、トイレに行けないってのは予想外だったなあ。押田さんを見てたら、本当に休み時間になったらすぐに人に囲まれちゃってるもんね」
「そうだよ、本当だったでしょ?」
「今まではタイミングまでは注目してなかったから、気付かなかったよ。大げさじゃなく、休み時間になると十秒で人が集まる感じだったね。あれなら確かにトイレに行きにくいかもなあ」
「分かるでしょ? 何か聞かれて答えてる間に、休み時間終わっちゃったりしてさー。もうやだ私」
奈月は、愚痴をこぼした。
自分が思っていたよりも、ずっと解決が難しい問題なのかもしれないと、直人は学校で感じていた。
「結構、完治まで時間かかりそう?」
「分からないけど、今とか結構痛い……」
「今!?」
「昨日はわりと痛くなかったのに、なんか今はダメかも。周期的なのかなあ、治りかけかなって思うとまた痛くなるの。今は痛いタイミングで、横になりたい」
「ごめん俺、気付かなかった。バカな話をしてる場合じゃなかったね。
暖かくして寝た方が良いんじゃ……?」
「寝ちゃって良いの?」
「え? 別に良いけど」
「じゃあ寝る」
奈月はそう言うと、直人の眼前で靴下とブレザーを脱いだ。奈月が何をしているか分からず、直人は呆気に取られている。
ブレザーをたたんだ奈月は、そのままベッドに潜り込んだ。
「ええっ、俺のベッドで寝るってことなの!?」
「寝て良いよって言ってくれたじゃん」
布団から顔だけ出して、嬉しそうに奈月は言った。
「いや、俺のベッドにっていうのは考えてなかったよ」
「久しぶりのお姫様ベッド」
「お姫様ベッド?」
直人は聞き返した。
――このベッドのどこにお姫様要素があるんだ?
「私が頭痛いときとかは、私が起き上がろうとすると何をしたいか聞いてくれて。言ったら、森田くんが飲み物とかアイスとか持ってきてくれて。だから、こういう時だけお姫様ベッド」
「あっ、何か要る? ちょうどアイスあるよ」
「ううん。アイスとかあんまり良くないの」
「そっか、冷えちゃうもんね。俺なんでも買ってくるから、欲しい物があったら言ってね」
「森田くん、もう一人でお買い物行けるんだもんね」
「そ、そりゃそうだよ。何年経ってるんだよ」
「私を抱きしめて『なっちゃんといっしょじゃなきゃ行きたくない』って泣いてた森田くんが、一人前になっちゃったね」
「一人前ではないけど、前より出来ることは少し増えたから、何でも言ってみて」
「あ、じゃあそれ飲ませてみて!」
「え? タンブラーのこと?」
「うん」
「前に、寝てる押田さんに飲み物を飲ませようとして、盛大に溢したことなかった?」
「だから、飲ませ方が成長したかチェック」
「成長してるわけないよ」
「森田くん優しいから、寝てる彼女に飲ませてあげたりしてるんじゃないの?」
「彼女なんて出来るわけないから。俺みたいなの、女子にすごく嫌われるんだよ」
「……ふーん。
まあ良いや、飲ませてもらえば分かるし」
「いやいや、いくらなんでも起き上がった方が」
「でも、起きるときお腹痛いし。本当に溢しても良いから、飲ませてよ」
「今の押田さんの年齢で胸元ビチョビチョになったら、マズイんじゃないの?」
「何がマズイの?」
奈月は笑顔で、直人をじっと見つめる。
「いや……」
直人は顔を赤くして口ごもり、奈月の視線に妙なものを感じ取り、考え込んだ。
ああこれ、昔のアレだ。この人がイタズラとかしてるときの……。
直人はようやく、自分がからかわれていることに気が付いた。
「目をそらさないでよ。何がマズイの?」
「だから、シャツが濡れちゃうのは……」
「そしたら森田くん、すごく喜んじゃう?」
「いや、見ないから俺には関係ないけど、服が濡れたら体が冷えちゃうから」
「本当? あのときみたいにわざと溢すんじゃないの?」
奈月は思い出し笑いをしている。
「あのときは普通に溢れただけだよ。あの時期の押田さん、まだ胸なんて一切なかったじゃん」
直人が、からかわれた仕返しに、ちょっと小バカにしたような口ぶりで反撃した。
「あったし!」
「ないって」
「絶対あった! かろうじてあった」
「まだなかったよ」
「私が濡れた体を拭いてるとき、背中向けてる森田くんの耳が真っ赤だったの見たもん!」
「それはその、あれだよ。胸の有無なんて関係なく、胸が透けたり後ろで体を拭かれたらさあ」
「あ、そっか。森田くんあの頃からもう、ものすごいエッチだったもんね」
「……すみません」
「謝る暇あったら飲ませてよー。飲ませるまでずっといじめるよ?」
「飲ませるのは良いけど、濡れても知らないからね」
直人は、タンブラーを手に取った。
「良いよ。今日の森田くん優しかったし、飲み物わざと溢しても一回だけ許してあげる。二回目はお母さんに報告するけど」
「変なこと言うと、動揺して手が震えるんだけど」
直人は愛想笑いを返す余裕すらなく、真剣な表情で奈月の口に飲み物を注ぐ。
奈月はすぐに「んむんむ」と言いながら直人の腕をポンポンと触った。
「もう良いの?」
「ふふ、チビチビ飲んであげる。だからまだ何回かチャンスあるよ。良かったね?」
「良くないよ」
「溢したいくせに。顔が真っ赤だよ? 次あたり、手が滑っちゃう予定?」
「滑らないよ!」
「あー楽しい。なんかこのベッド落ち着くねえ。気を抜いたら寝ちゃいそう」
「俺は全然落ち着かないんだけど……」
直人は情けない顔で、情けない声を出した。
奈月はそれを見て笑ってしまい、
「ちょっとさあ、お腹が痛いんだからあんまり笑わせないでよ」
と文句を言う。
「知らないよ。何がそんなに楽しいんだか」
「森田くんが心配してくれるから幸せ」
「そういうことばっかり言ってると、勘違いされるよ?」
「勘違いしても良いよ?」
「いや、冗談抜きで。俺、中学のときも勘違いで周りの人を困らせて。バイト先でも言われたことあるけど、冗談とか社交辞令とかあまり分からないんだと思う。だから、本当のことしか言わない方が良いです。これだけはお願いします」
「分かった、本当のことね。
……えっと、今日は本当にありがとうございました。森田くんが心配してくれて、すごく嬉しかったです。
最初、なかなか治療の決心が出来なくてごめんなさい。森田くんが言ってくれなかったら、この先もトイレになかなか行けないままだったと思います。
今後はもっと、お母さんにもなるべく協力してもらいます。だから、あんまり心配しないで下さい。
森田くんの優しさに甘え過ぎちゃうかもしれないので、調子に乗ってるときは叱って下さい。
明日からも今日みたいに森田くんと仲良くお話が出来たら、私は幸せです」
「……それが本当だとすると」
「うん」
「俺、困る」
「なんで?」
「また、朝みたいに緊張してきちゃった。まだ慣れてないのかな、我に返るとなんか……」
「朝、緊張してたの?」
「うん。膀胱炎なんて聞いて良いのかなって、怖くて怖くて。なんとか聞けた」
「いきなり本題に入るからだよ。普通、世間話とかしてからでしょ」
「膀胱炎のことで頭がいっぱいで」
「なんでそんなことになったの?」
「俺にもまだよく分からないんだけど、エレベーターに乗ってきたときの押田さんがいつも通りだったからなのかも。エレベーターで会えるなんて思わなかったから、なんかすごく焦ったんだよね。
たまたま間近で押田さんが見れて、本当は苦しんでるのに、普段と変わらない笑顔で。俺が声を掛けなかったらそのまま学校行くわけで、そしたら押田さんは学校でもずっと平気な顔をするよね。その時点で泣きそうになって、軽いパニックで。授業中に俺、一人で我慢する押田さんを見るのが辛くて泣いちゃう気がして。
だからもう、一か八かみたいな感じで、嫌われても良いって覚悟で話し掛けることが出来たのかな」
「そんなに心配してくれてたんだ?」
「なんだろ、元気になってほしくて。やっぱちょっと分からないや」
「元気になったかも。なんか全身ポカポカ」
「でも、お腹痛いんでしょ?」
「そう。だからくすぐったりしないでね」
「言われなくてもやらないよ」
「ごめんね。治ったらね」
「なんで、治ったらくすぐって良いみたいな言い方するんだよ」
「だって、くすぐるの大好きでしょ?」
「好きだったけどさあ……」
「あ、つまり今なら反撃されないから、一方的にくすぐり放題なんだね。もっと近くおいで、森田くん。良いことしてあげる」
と、笑顔で誘う少女。
「やだよ、行かないよ」
直人は、奈月の希望に答えたい気持ちをおさえ、そう答えた。
「じゃあ、喉がカラカラだから飲ませて」
「じゃあってなんだよ。怪しいんだけど」
「本当に喉渇いたの。早く飲ませてくれないと、すごくお腹痛くなっちゃう」
「わ、分かったよ」
直人は慌ててタンブラーを握りしめた。
奈月は布団で口元を隠しながら、ニヤリと笑っていた。
この後、奈月の口から飲み物が溢れてしまったのは、決して直人が故意に溢したわけではない。奈月が直人をくすぐって、直人の手が滑ったのである。
奈月が体を拭いている間、直人は部屋の外で待機していた。
直人は奈月の透けた胸元をどうしても思い浮かべてしまい、部屋に戻ってもまだ顔が赤いままだった。
奈月はそれを見て笑い、お腹が痛いとまた文句を言った。その後もイタズラやからかいを何度か繰り返して、奈月は大満足して帰っていった。
直人はその夜、なかなか寝つけなかった。耳に奈月の笑い声が残っていて、目を閉じても奈月の笑顔が浮かんだ。奈月の髪の匂いが残った枕を抱きしめて、夢中で嗅いだ。
こんなことをしてるってバレたら、また嫌われちゃうかな。そう思いながら、直人は止められなかった。
何度も行き帰りする罪悪感と幸福感のはざまで、直人はようやく眠りについた。
直人と奈月の距離が昔のように近くなったこの日。
直人の中で、奈月について考える時間が一気に増えたのは、まさにこの日からだった。