嫌わないで
その日の放課後、奈月から直人に連絡があり、奈月は制服のまま直人の家に作戦会議に来た。
まさか奈月が家に来ると言うとは思っていなかった直人。大急ぎでパジャマから制服に着替え直して玄関に向かうと、奈月が直人の母親に丁寧に挨拶をしていた。
「――はい、大丈夫です。ありがとうございます。お世話になります」
直人の母親は、久しぶりに我が家を訪れた奈月に大喜びだ。
「なっちゃん見るたび大人っぽくなってー、おばさん嬉しくなっちゃう。
直くんで良かったら、遠慮しないでバンバン使って頂戴ね。言わないと何もしないから命令してあげて。
直くんもいつまでも恥ずかしがってないで、なっちゃんに優しくしてあげなさいよ? もう直くんも昔みたいにかわいくないんだから、そろそろ仲直りしないといい加減に愛想を尽かされ――」
直人は、母親の話を最後まで聞かずに、自分の部屋に逃げ帰った。
ある出来事を思い出してしまった直人は、罪悪感に襲われた。直人は、枕に顔を押し付けて、声が漏れないように泣いた。
押田さんが部屋に来るまでに泣き止まないと。早く。今すぐに涙を止めないと。押田さんが心配するから……。
直人の涙は二分後に止まった。
さらに数分後。
奈月は直人の部屋に入って扉を閉めるなり
「何なの今日のあれ! もうちょっと自然にしてよ!」
と喚いた。
「えっ? 学校でのこと?」
直人はやや呆気に取られながら聞き返す。
「そう。もう全然ダメ!」
奈月はそう言うと、直人の背中のベッドに腰掛けた。
「地べたに座らない方が体が冷えなくて良いみたいだから、ここに座るね」
「なんか、そこに座られると目の前が足って感じなんだけど」
振り向いた直人は、まぶしいものでも見るように目を手でおおった。
「森田くんってまだ足が好きなの?」
奈月はそう言いながら、あぐらをかいている直人の足をツンツンと踏んだ。
「まあ……」
「じゃあ良いじゃん」
「押田さんが平気なら俺は良いけどさ……」
「なんなら、また足のマッサージさせてあげるよ? 血行促進したいんだけど、自分で足を触ったらお腹に力が入りやすくて、痛くて出来ないの」
「あっ、触って良いなら俺やるよ。なんだっけ、ふくらはぎが良いんだっけ?」
直人はそう言うと、スマホをいじり始めた。情報を検索しているのである。
「忘れちゃった。でもふくらはぎだったよね」
「やっぱりふくらはぎとかだね」
直人は、スマホを見ながら奈月の足を揉み始める。
「……森田くん、無理してない?」
「何で? まあ、緊張してるから変かもね。気持ち悪かったらごめん」
「そうじゃなくて、今の私って森田くんにとって重荷かなって。
面倒くさいことになったなとか、思ってない? 嫌なら言ってね?」
「ううん、全然嫌じゃないよ。俺たち男と女でさ、しかも俺は相変わらず足が好きな変態で。それなのに信頼してマッサージを頼んでくれるって、むしろ嬉しいことだよ。
それに、俺の話をちゃんと聞いてくれて、なるべく早く治す決心をしてくれたのも嬉しかった。俺を信じてメールとかも教えてくれたし」
「そうそれ、メールの話!
それを怒りに来たのに忘れてた。さっきも言ったけど、アレ全然ダメ!」
奈月は思い出して、器用にも再び怒り出した。
「いや、細かい打ち合わせしてなかったし。仕方ないじゃん」
返事をしながら、微かに微笑んだ直人。
直人は、一連の奈月の様子に懐かしさを感じていた。まるで昔に戻ったかのように、奈月が遠慮なく怒っているからだ。学校にいるときとは別人のような、気取っていない自然な奈月の態度が、直人には心地よかった。
奈月がこんな風に文句を言ってくれるの、何年ぶりだろ。もしかして、家の親の言うことに従って、本当に遠慮するのを止めてくれたのだろうか。足のマッサージは続けさせてくれてるから、まだ本気で怒ってはいないだろうし。とにかくこの感じだと、さっき俺が泣いていたことには気付いてないみたいだ。
直人はそう考えると安心してきて、少し心に余裕が生まれた。
奈月の苦情は続く。
「いきなり女子に割って入って『押田さん、一人でちょっと来てくれませんか?』って、そんなの変に思われるに決まってるじゃん。教室がザワザワしたよ?」
「少し考えたんだけど、良い引っ張り出し方が全く思い浮かばなくてさあ。大丈夫だった?」
「一応ね。『家がマンションで隣だから、お母さん同士のマンションの連絡とかがあって、それを教室で話して他の男子とかに勘違いされたり、何か言われたら嫌で』って感じで、説明しておいたけど。
みんなあれで納得したかなあ。ニヤニヤしてる子も多かったし」
「でも、その説明かなり賢いね」
直人は感心した。
「トイレで必死に考えたの! もう勘弁してよ次から。
……そっちは大丈夫だったの?」
「何が?」
直人はドキッとした。
――まさか、泣いていたのがバレている?
「何か聞かれなかった? さっきのなんだよとか」
奈月の問いかけに、直人は胸をなで下ろした。
「ああ、なんだそういうことか。
二宮くんに聞かれたけど、なんでもないって言ったから大丈夫」
「全然大丈夫じゃないじゃん。こんなの繰り返したら怪しすぎるでしょ」
「でも、そうするしかないような。人だかりから一人だけを呼び出して、残り全員を教室に待機させるわけだから」
「今日みたいなことを毎日してたら、すぐに噂になっちゃうよ? ……私は良いけど」
「俺も別に構わないけど」
「本当?」
「もちろん。だって、何よりもまず押田さんの健康でしょ?
あ、でも俺なんかと変な噂になったら、押田さんのストレスになって気持ち悪くなっちゃうか。やっぱり目立ったらダメだね」
「多分、私は大丈夫だけど……?」
奈月はそう言って、直人の顔色をうかがった。
「多分じゃダメだよ。世の中、噂がやけに盛り上がることはよくあるからね。男子なんて、人気のない所に連れて行って何してるんだろうとか、変なことを言い出してもおかしくないから。
あいつは押せばチョロいんだなとか勘違いする奴が出て、押田さんが痴漢とかされたら俺、すごく嫌だよ。押田さんに危険な目にあってほしくない」
直人はそう言いながら、真剣な顔で奈月の足を揉み続ける。
「そっか……」
奈月は、直人の言葉と手の温もりに、直人からの思いやりを感じていた。
「――そうだ、授業が終わる前から俺が準備しておけば良いんじゃないかな。例えば、休み時間の五分前から消しゴムを立てて置いてるときは、トイレに行きたいの合図とかさ。
休み時間になったらすぐに俺が話し掛けて、そのまま二人で話しながら自然に教室から出る。完全に囲まれる前に教室から引っ張り出すわけ」
「それすごく良いと思うけど、森田くん教室で上手く話しながら出るなんて出来る?」
「が、頑張ってみる……。学校でも今みたいに話せるようになりたいし」
「分かった、いっしょに頑張ろ」
奈月が元気良く笑った。
「他にも自然な誘い出し方、考えてみる。俺、なるべく迷惑かけないようにする。
だからもう一回、チャンス下さい」
「こちらこそ、お願いします」
「あれ、押田さん敬語に戻った」
「ええ!? だって森田くんが『チャンス下さい』って言ったから。偉そうに『あげるよ』とは言えないじゃん」
はにかむ奈月。
「そっかごめん。朝も言ったけど、俺たちが敬語ってなんか笑っちゃうね」
直人は照れ笑いを浮かべた。
「言っとくけど、森田くんが先に『押田さん』って言い出したんだからね!?」
「だ、だって奈月呼ばわりはヤバイでしょ。それこそ噂が一瞬で広がるよ。どういう関係だあいつらってなるし、迷惑かけちゃうよ」
「それにしたって、私に相談もなしに『押田さん』って言うことないじゃん。結構ショックだったんだけど」
「それは……そうだよね、ごめんなさい。俺、押田さんに嫌われたくなかったから」
「嫌われたくなかったんだ?」
「うん」
「じゃあ嫌わないであげる。嬉しい?」
「うん」
「森田くん、なんか今日は素直だね? 今までそういうこと説明してくれなかったじゃん」
「朝、たまたま会えて。今なら俺でも押田さんの役に立てるのかもしれないって思うと、怖がってる場合じゃないから」
「私、そんなに怖い?」
「いや、押田さんに嫌われることが怖くて。
女子の気持ちなんて、分からないし」
「私は嫌わないよ? 絶対に嫌わない」
「絶対?」
「絶対。約束」
「……ありがとう」
「なんかさ、前にもこういうことあったよね?」
「あったっけ?」
「クラスの男子に信じてもらえなかった森田くんが、帰ってくるなりランドセルも置かずに、泣きながら『絶対に結婚してくれるんだよね。本当だよね。絶対だよね』って」
「そんなこともあったね……」
直人は恥ずかしさのあまり、消え入りそうな声で返事をした。
「私が『絶対だよ、約束だよ』って言ったら森田くん、私のこと思いっきり抱きしめながら『奈月大好き』って言ってくれて。かわいかったー」
奈月は、身を捩りながら笑った。
「スカートなんだから足をあんまり動かさないでよ……」
「あ、昔は夏にうちわでスカートを重点的にあおいできた森田くんが、すごい紳士的になってる」
「紳士的にもなるよそりゃ。今もし俺が下心見せて押田さんに気持ち悪がられがられたら、押田さんの足をマッサージして温められる人が一人減るわけで。体が治るまではふざけてられないよ」
「一人減るっていうか、森田くんしか頼める人いないけどね。
友達に頼んだら何様って感じだし、お父さんお母さんにもなるべく負担かけたくないし」
「そっか」
返事をしながら、直人は苦悩していた。
友達に頼めないことを俺にやらせてるってことは、俺はやっぱり押田さんの友達に戻れてないってことなのかな。今は手伝いが必要だから仕方なく俺にマッサージさせてるだけで、完治したらまた会話が出来なくなるのかな。
……でも、嫌いじゃないって言ってくれたし、頑張れば……。
直人は涙をこらえながら、奈月の顔を見上げた。
「じゃあ俺、頑張るから」
奈月は直人を見つめて次の言葉を待っていたが、直人は笑顔を見せただけで、再びうつむいて奈月の足を揉み始めた。
続く言葉を待っていた奈月は、
「――えっ? 頑張るから、何?」
と直人に聞いた。
「いや、頑張るからねって感じで」
「頑張るからこうしてほしいとか、ないの?」
「見返りとかは要らないよ」
「んー? もっかい顔を上げてみて。私の目を見て。五秒ね」
奈月はそう言うと、直人の目をじっと見つめた。
直人は心まで見透かされているようで、つい
「ご、ごめんなさい」
と謝ってしまった。
「森田くんが隠し事をしても、わりと分かるんだよ?
格好つけてないで、言ってみ?」
「……強いて言うならだけど」
「うん、強いて言って」
「会話をしてもらえることが、そもそもありがたすぎて。
あとは押田さんが元気になってくれれば、俺はそれで十分で。だから、元気になって下さいっていうのがお願いなのかな。
それと、押田さんも押田さんのお母さんに素直になってほしいです。押田さんの家で押田さんを一番助けてあげられるのは、押田さんのお母さんだから」
「じゃあ森田くん、私が元気になるまでずっと優しくしてくれる?」
「俺なんかで良ければ」
「やった。約束ね」
奈月は、足をバタバタと揺らして全身で喜びを表現した。
「だ、だからさあ! スカートが危ないって!」
「森田くんがそんなこと言うと、なんかおかしい。
昔はわざと足をくすぐってスカート揺らしにきてたのに」
「あの頃の俺の頭の方がおかしかったんだよ。これが正常。正しい男女の在り方」
「でも、すっごいチラチラ見てるよね。今もスカート大好き人間なの?」
「そうです、ごめんなさい。膝が動くとどうしてもたまに、反射的に……。
信用してマッサージさせてもらってるのに、変な目で見たらダメだよね」
「そうだよ。罰として明日もマッサージね」
「明日もやらせてくれるの?」
「なにその嬉しそうな顔。明日は警戒して、森田くんに目隠ししながらマッサージ頼むかもしれないよ?」
「それでも嬉しいよ」
「森田くん、変態だもんね」
「じゃなくて! 嬉しいってのは、そういう意味じゃないよ!」
直人がそう抗議をすると、奈月は大笑いをした。
奈月がもぞもぞ動かす太ももを見ないように、直人が顔を真っ赤にしてうつむく。それに気付いた奈月は、ますますおかしくなってしばらく笑い続けた。