みんなに遅れて
「今ね、食堂の話をしてたトコ」
桜子が、戻ったばかりの奈月に状況を解説した。
「奈月がヤケドした話を聞いてた」
「何それ?」
と、心当たりのない奈月が聞き返す。
「ほら、奈月がチーズポテト冷ましてくれて、お皿に触っちゃってヤケドしたときだよ。
仮眠室に行った後、奈月が『もしヤケドのアトが残ったら結婚してくれる?』って――」
「あー、あれね!」
思い出した奈月は、ムッとした顔をした。
「あれは本当に頭きたからね!」
予想外の言葉が返ってきたので、直人は驚いた。
「なんで?」
「だって直くん、ひどいんだもん!
嫌そうな感じで『チューをたくさんしたら、絶対に結婚しないとダメなの?』って聞いてきたじゃん。
仮眠室だからケンカするわけにもいかないし、もし泣いたら親に理由を聞かれるし。仕方ないから、泣くの我慢して『じゃあもうチューしない』って」
「いや、それは当時も説明したじゃんか。
こんなに気軽にキスして良いのかなって、心配になってて。
ちょうど良いやと思って、ちょっと聞いてみたんだよ」
直人は大慌てになり、恥ずかしさに顔を真っ赤にして、弁解した。
「この年で奈月と結婚して平気なのかな、みたいな感じで。だから、すぐ仲直りしたじゃん」
「すぐではなかったけどね。大体、最初は私がショック受けてるの気付いてなかったし」
「そ、そうだっけ?」
「直くん、私を勝手に抱きしめて、無理矢理キスしてきたんだから。
で、どういうつもりなんだろうって思って『なんでチューするの?』って言ったら『なっちゃんとチューするの好きだから』って。
それで私が『好きな人としかチューしちゃいけないんだよ?』って聞いたら『なっちゃん大好きだもん』って、平気な顔して――顔は暗くて見えないけど、平気な顔をしてそうな声で言ったよね?」
「俺、そこ覚えてない」
「言ったの!
それで私、さらに頭にきて『大好きって言うけど、結婚したくないんでしょ?』って文句言って。そしたら、ようやく私が怒ってるって気付いたみたいで。
それから『ずっとチューして良いなら結婚したい』とか『なっちゃんといっしょに寝るの大好きだから、結婚は嬉しいよ?』とか、散々その場しのぎっぽいこと言って、私の機嫌取ろうとして。
私が返事しないでいたら『じゃあ、ヤケドのアトが残ったら絶対に結婚しよ。約束!』って、勝手に指切りして、耳元で小声で指切りげんまん唱えるわけよ。強引過ぎるでしょ」
「でも奈月、指切り終わるまで指を離さないでくれてたよね?」
「それは直くんが『なっちゃん大好きだよ』とか『嫌いになっちゃヤダ』とか言って、仲直りのキスを無理矢理しまくってきた後なの!」
「そうだっけ。なんか、俺の記憶だと無理矢理じゃないんだけど……」
「絶対に無理矢理だったから!
だから私、直くんを困らせてやろうと思って『結婚の約束してくれたこと、お母さんに言っちゃうよ?』って、意地悪を言ってみたの。どうせ嫌がると思って。
そしたら『良いよ、本当だから。ヤケドが残ったら、絶対絶対結婚するもん』って言ってくれて。そこでやっと許したんだから」
「へえー、そうだったんだ」
直人は、他人事のように相づちをうった。
「あの約束、実際どこまで本気だったの?」
「俺が覚えてないんだから、本気だと思うよ。別に俺、その後オドオドしてなかったんでしょ?」
「んー? どうだったかなあ……」
奈月はそう言って、左手を眺めた。
「その日の内にすぐヒリヒリしなくなっちゃったから、結局お母さんに言わなかったし……」
「ヤケドしたの、どこ?」
「この辺。直くんが絆創膏を付けてくれたから覚えてる」
奈月は、そう言って薬指の根本をつまんだ。
「あ、そうそう。
私、左手の薬指だから絆創膏の婚約指輪じゃんって思って、すごく幸せな気分で仮眠室に行ったのよ。そしたら直くんも、毛布の中で絆創膏を触りながら心配してくれて。
だから嬉しくなって『もしヤケドのアトが残ったら結婚してくれる?』ってつい試しに聞いちゃったんだよね。そしたら『チューをたくさんしたら、絶対に結婚しないとダメなの?』って返されて、一気に台無しにされたわけ。だから天国から地獄で、なんかすごい頭にきちゃって」
「俺は、奈月とイチャイチャした辺りしか記憶にない。なんか『結婚したら奈月って呼ばないといけなくなるから、言う練習しないと』って練習させられて。
すごくドキドキしちゃったよ」
「あー、あの日がその日なの!? そっか、それで仲直りしたんだ」
「そうだよ。奈月が怒ってたの、多分ほんの短い間なんじゃないかな?」
「いや、私は絶対に長い時間怒ってたからね。離婚するみたいなこと言ったから」
「離婚!?」
「結婚するのを止めるのが離婚だと思ってたの」
「ああ、婚約解消みたいな意味で?」
「そう」
「それで俺、離婚するって言われたとき、なんて言ったの?」
「なんかビックリしたみたいで、それでさっき言った『嫌いになっちゃヤダ』ってやつ。無理矢理抱きしめられた」
「俺、よっぽどショックだったんだろうな。ひどいなあ」
直人は照れ隠しに、奈月にそう返した。
すると奈月は、直人をキッと睨んだ。
「ひどいのは直くんだから! 離婚するんだから離してって言ってるのに、勝手にキスして。
あのときの直くんって、怒られたらキスしとけば良いって思ってたでしょ?」
「そうじゃないよ。本当に怒ってたら仮眠室から出て逃げると思って。毛布の中から逃げないから、そこまで怒ってないんだなって安心して」
「違うから! 状況的に逃げられなかっただけ。
あそこで私が逃げて隠れたら、どうせ直くん適当に探して、方向音痴なんだからすぐに迷子になっちゃうでしょ」
「俺が迷子になっても、奈月は気にしなくて良いだろ。
むしろ、心細い思いをさせて反省させるチャンスだったような」
「やっぱり分かってない!
そんな反省の仕方じゃ、根本的な解決にならないから!」
奈月の怒鳴り声に、通行人が振り向く。
「ちょっとちょっと、何年前のことで言い合いしてんのよ」
そう言って桜子が冷やかすと、友人たちが笑った。
直人と奈月はふと我に返ると、お互いに顔を見合わせて、みんなに遅れて笑い出した。
「――奈月、ごめんね。俺、もっと奈月のことを思いやれるように頑張るから」
「今は、すごく優しくしてもらってるよ。大丈夫。
大好きだからね」