またいっしょに
「直くん知ってる?」
森田直人が玄関で革靴を脱ぎながらネクタイをゆるめていると、迎え入れた母親がそう言った。
「だからさあ、直くんは止めてって」
と、半分諦めながらいつもの抗議をする直人。
「さっきなっちゃんのお母さんと会ったんだけど、なっちゃん膀胱炎になっちゃったみたいよ? 大変ねえ」
「それ、言って良いの?」
返事をしながら直人は考えた。
膀胱炎って、どういうのだったかな?
なっちゃんというのは、直人の高校のクラスメイトの押田奈月のことだ。同じマンションの隣の部屋に住んでいる。直人が小学校に入る頃、奈月の家族が引っ越してきた。
だが、二人は常に仲良く過ごしてきたわけではない。親同士がよく話をするのでお互いの情報は入り続けていたが、ここ数年はほとんどそれだけの関係だった。
直人が親から聞いた情報によると、奈月は中学校で卒業生代表に選ばれたという話で、相当な優等生に成長したようだった。
父の日と母の日のプレゼントも欠かさないらしく、奈月の親と話していた。直人は、母親の「ウチの子なんて家の手伝いすらしないんだから」という言葉を、何回聞かされたか分からない。
親に頻繁に比較され続けてきて、直人はなんとなく最近、奈月の話をされるのをうっとうしく思っていた。
直人は元々人見知りする方ではあったが、高校生になった頃には女の子と話すのがかなり苦手になっていた。共学での高校生活を送るには、なんぎな性格に育ってしまったのである。
直人が高校に入学して、まず驚いたのは奈月の人気だった。最初の体育の授業、方向音痴の直人は体育館が分からず、奈月を頼ろうと隣のクラスに向かった。すると、自分にはまだ一人も新しい友達が出来ていないのに、奈月の周りには人だかりが出来ていたのだ。
中学校の卒業生代表に選ばれるような人物なら、友達付き合いが上手くても不思議はない。だが、小学校も中学校も別々で奈月の学校生活を知らなかった直人は、笑顔で受け答えをしている奈月を見てひどくショックを受けた。声を掛けることが出来ず、チャイムが鳴るまで教室の出入り口で奈月の背中を見つめていた。
――体育の授業には十五分遅刻した。
そのうち直人は、男子がたまに奈月の話をし、奈月をよく見ていることに気付いた。奈月は、男子に噂をされるほどの美少女に成長していたのである。
それを一度気にしてしまうと、直人は他の女子との会話以上に奈月に緊張するようになり、奈月とほとんど話が出来なくなってしまった。
一年後、直人は奈月と同じクラスになったが、それからも並のクラスメイト以下の付き合いしか出来ないまま、春・夏・秋と過ぎていった。
そして今は、高校二年の冬。直人は未だに、奈月と話すのが苦手だった。
その、現状あまり直人と仲が良いとは言えない奈月が、膀胱炎になったというわけである。直人は、膀胱炎という言葉を聞いたことはあるが、具体的にどういうものかは知らなかったので、スマホで検索してみることにした。
直人が調べ始めると、トイレの我慢が主な原因の一つと分かった。しかし、直人にはどうもピンとこなかった。
トイレなんて、そこまで我慢するものなのかな。食生活も偏ってなさそうだし。もしストレスとかが原因なら、治療は大変そうだなあ。
直人は膀胱炎について夢中で調べ続け、ふと気が付くと結構な時間が経っていた。直人は自分の行動を少し不思議に思いながら、大きなあくびをした。そしてベッドに寝転んだときにふと、保健室のベッドを思い出した。
――まさか、先週のあれが原因かな。俺が頭痛で保健室のベッドで寝てた日、何故か俺が起きるまで待っててくれて、念のためっていっしょに帰ってくれたけど、あれがかなりのストレスだったのかな? もしかして、ウチの親に頼まれて嫌々待ってたとかで……。あのとき、気まずくてほとんど何も喋れなかったけど、なんだか顔が赤かったし、実は怒っていたのかもしれない。
せめて一度、誰もいない場所で話が聞けたら良いんだけどな。そう都合良くはいかないだろうし……。
そんなことを考えながら、直人は眠りについた。
意外にもチャンスはすぐに訪れた。
「おっと」
翌朝、直人がマンションのエレベーターを閉めようとしたら、奈月がドアから出てくるのが見えた。直人は慌てて扉を開け直した。
奈月は、いつも通り驚きながら微笑んで「おはよう」と小走りで駆け込んでくる。その度、この辺が優等生の仕草だよなと直人は思っていた。なんだか直人は、奈月を走らせてしまって悪いことをしているみたいに感じてしまうのだった。
同じ高校に通い始めてから現在――高校二年の十二月になる――まで、同じエレベーターに乗っても、ろくに会話もしない間柄だったが、直人はどうしても奈月に体調を聞きたかった。
直人は深呼吸をし、聞くぞ、聞くぞ、と二回心の中で準備をしてから、
「膀胱炎って聞いたけど、大丈夫なの?」
と、やっとの思いで口を開いた。
「もう、お母さんなんでも喋っちゃうんだから」
と、奈月はこぼした。
「いやいや、そうじゃない。それを男である俺に言ったうちの母親が悪いんだよ。押田さん家のお母さんは良い人だよ」
直人は慌ててフォローする。
「そうかなあ」
そう言って奈月が微笑んだので、直人は少しだけ落ち着いた。
直人は話を戻し
「それで、膀胱炎って痛いの?」
と改めて聞き直した。
「ちょっとさあ、言い方ないの!? 膀胱炎、膀胱炎、って……」
奈月が恥ずかしそうな顔をする。
「膀胱炎は膀胱炎だし。なんて言うの?」
「体の調子はどうですかとか、お腹の具合はどうなんですかとか、なんかあるでしょ」
「それって、俺みたいな奴が言ったら余計怪しい感じになるような。妙にセクハラっぽいっていうか」
直人はなんだか気が進まなかった。
「そんなことないから」
「じゃあその、んん……。お腹の具合はどうなんで……ぶはっ!」
一度も奈月に敬語なんて使ったことがなかった直人は、おかしくなって吹き出してしまった。
「あー笑った、もうやだ! 笑い事じゃないのに!」
自分が笑われたと思った奈月が、文句を言う。
「違う、言い回しがおかしくて。ちゃんと心配してるんだよ。これ本当!」
直人は慌てて謝ったが、奈月はしばらく愚痴を続けていた。
しかし三分後、奈月はあることに気付いた。よく考えると、直人が自分と同じペースで歩いていたのだ。
普段は早足で、すぐに背中が小さくなる直人。その直人が、常に隣を歩いているのである。
それに気付いてしまった奈月は、急激に顔の体温が上がったのが自分でも分かった。もう、愚痴を言える心境ではなかった。
奈月が急に何も言わなくなったので、直人は奈月の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 話してるの辛い感じなら、俺ちょっと離れる?」
「喋るのは大丈夫だから。……もう怒ってないし、そばにいて」
なんとかそれだけ答えた奈月。
奈月は、直人の顔がしばらく見られなかった。
「それで、どうなの? 膀胱の方は」
再び仕切り直して、直人が聞いた。
もう奈月も諦め、話を進めることにした。
「学校では膀胱って言わないでよ?
まだ軽いから、たくさん水をたくさん飲んでたくさんトイレ行けば治るみたい」
「なんだ、簡単だ」
軽症と聞いて、直人は気楽に言った。
「簡単じゃないよ」
「なんで?」
「だって、休み時間になったらすぐに友達が集まって来て。トイレに行こうと思ってるのに、休み時間が終わっちゃうんだよね」
「そんなことある?」
休み時間になると人が集まってしまうからトイレに行けない。それは、直人には全く分からない感覚だった。
人気者だとそんなことになるのだろうか? 確かに、楽しそうに話しているイメージはあるが、ちょっと大げさなんじゃないだろうか。直人は考えてみたが、いまいち納得がいかなかった。
「しょっちゅうあるよー! もう辛くて」
「いやでもそれ、トイレに行ってくるから待っててとか言えばさ」
「クラスに男子がいるのに、大声で言えないよ。たまに会話グループに男子もいるし」
「え!? じゃあ他の女子はどうしてるの?」
「人が集まらない内にこっそり行くとか、我慢するとか、目的地を言わず立ち上がって歩き出すとか」
「女子は全員そうやって我慢してるの?」
「私くらい我慢してるかは分からないけど、多分みんなある程度は」
直人は、過去の出来事を思い出して、心配になった。
「押田さん、それ絶対に止めた方が良いよ。
俺のバイト先の派遣のお姉さん、派遣だから時給が高いって、店長に良い顔をされてなかったらしいんだけど、そのせいでそのお姉さん、トイレに行きにくくてバイト中は我慢してたんだって。生理の日もだよ。
そしたらある日、お腹がすごく痛くなったのか、通路でしゃがみこんで。相手の顔色なんて一回も見れたことがない俺でも分かるくらい、顔が真っ青になってた。
――まあそれは、膀胱炎とはあまり関係のないことかもしれないけどさ。押田さんも無理ばかりしてると、どこかがもっと悪くなるかもしれないよ」
直人は、喋っているうちに思い出が甦って、なんだか腹立たしい気持ちになってきて、少し強い口調で一気にまくし立てた。
「そうだよね。でも友達に悪くて、トイレに行きにくいんだよね」
「膀胱炎だから協力してって、言えないの?」
直人は疑問に思って聞いた。
「仲がそれほど良くない人もいるし、難しいかな。あまり心配かけたくないし」
「押田さんが急に倒れこんだり、入院したりしたら、結局は友達にも心配かけることになるよ? お母さんも心配してるらしいじゃん。母の日にプレゼントするくらいなんだから、お母さんのこと好きなんでしょ?
優先順位が間違ってるよ。押田さんのお母さんは、娘のプレゼントなんかより娘が健康に過ごしてくれた方がよっぽど嬉しいと思うよ。今のままじゃ絶対に良くないと思う」
直人の顔つきは真剣そのものだった。
このとき、奈月はとても驚き、また感動もしていた。奈月は、ここまで強く直人に叱られたことは今まで一度もなかったのだ。
衝撃を受けた奈月は急に緊張してきて、考えがまとまらなかった。
「うん。すごく分かるけど……」
一応返事をするものの曖昧な反応の奈月に、直人はじれったくなった。
「なんなら、メールとかしてくれたら、俺が廊下に誘うよ。トイレに行きたくなったら、スマホで連絡してくれれば良い」
「それはそれで恥ずかしくない?」
「悪化して廊下でお腹抱えてしゃがみこんだり、授業中に保健室に行く方が、休み時間にトイレに行くよりもよっぽど恥ずかしいだろ。
俺とのメールがどうしても嫌なら仕方ないけど、それなら何か別に対策考えた方が良いよ、本気で。
これから水分をたくさん摂取しなくちゃいけないってことは、トイレに行く回数も当然今までより増えるわけで。そうなると結局、なんとかたくさんトイレに行くしかないんだから。トイレの問題をどうにかしないと、悪化するだけだよ」
直人はこの問題を放置したくなかった。懸命に奈月を説得した。
奈月はまだ何かを躊躇していたが、直人の顔を見ながら少し考えて、
「じゃあメールとかするかも。連絡先、教えて」
と答えた。
――こうして二人は、またいっしょに歩き始めた。