悩める私たち
いらないことばっかり考えがちな年頃なのです。
僕はなに? 人間だろう。 人間という生物なんだろう。僕を僕たらしめるものはなに?
心だろう。身体という器に入った心だろう。心は感情によって構築されているものだろう。。。。
僕は岐路に立っている。何本も何本もある分かれ道。地球より大きな宇宙みたいなどデカイ大樹の枝のように。天文学的な数字だろう。岐路にいるのだ。僕はおおよそ人生といわれる概念の4分の1にも満たない時を過ごしている。そしてそれを左右するかもしれない分かれ道にいる。
『正しい』 世間一般の正しさ法の下の正しさ正当性。なにが正しいか。その何本も広がる枝のなにが一体ただしい。
否、正しいかどうかで決めるのではない。幸せかどうかで決まる。一体全体なにが幸せなのか自分でわかるものなのか。妥協点が幸せなのか。
やりたいこと。将来の夢。自分に合った仕事。自分にとっての妥協なしの幸せ。
それを決定する自分。
はて、自分は何なのだろうか。紛れもなく人間。。。。。
時は金なり。こんなことを無限に際限なく考えるのは許されない。否、勿体無い。
抜け道があった。僕を僕たらしめるもの。
他人か。褒められる、罵られる、会話する。
僕がいるじゃないか。僕を僕たらしめるものがあるではないか。それが拠り所のようなものではないか。
抜け道があった。僕は人間だ。誰かを愛するだろう。なにが幸せか。愛に生きることだろう。愛してやまない人を探し出さなければ。
やっと抜けれた。僕は人間だった。よかった。
壁掛けの時計の針が全部上に向いている。
小難しい書物が積んである。
いつもより控えめに光るライト。
机の上。
「英語と数学しなきゃな。」
『僕の志望してる大学は本当に行きたいところなのかな。』
『行ってなにするんだろうか。』
ま、いいか。学校には友達がいるし、彼女は…いないけど…いずれできるかな。
今、なんだか幸せだな。
生きてることが幸せなのかもね(適当)