消えたノート
「小学生の頃の自分を説明するのって、そんなに深刻な顔で考えるほどのことですか?」
「え? あ、いや」
瑞菜のことを考えていたから、つい険しい表情になってしまっていたようだ。
慌てて表情を和らげてみたものの、葛原さんは怪訝な顔で僕の様子を伺っていた。
「僕もあまり変わらないかな。子供の頃からつまらないことで悩んだりくよくよしたりしていたよ。今に思えばそんなつまらないことって思うような悩みなんだけれど」
冗談めかして言ったけれど葛原さんは表情を変えずに首を傾げた。
「些細なことに見えても子供にとっては重要なことなんじゃないですか。逆に今悩んでることも三十年後の自分からしたらつまらないことに見えるだろうし。たとえば奥さんが怒って実家に帰っちゃったこととかも」
「だから怒ってないから」
軽くあしらいながらも今の言葉に強く惹かれるものを感じていた。
些細な悩みも子供にとっては重大なことだったりする。それは確かにそうなのかもしれない。ことの重大さを測る定規というのは歳を重ねるごとに大きくなり、その目盛りも粗くなるものだ。
午前中に上司に叱られたことも、今はほとんど気にも留めていない。でも新入社員の頃なら一日中思い悩んで、下手したら翌日まで引き摺っていただろう。
十二歳の妻の物差しは更にとても小さく、繊細なものなのだろう。まずは僕の心も十二歳の瑞菜に合わせる必要がある。そうしなければ彼女の杞憂など理解できるはずもないだろう。
(無事に過ごしているかな?)
改めて実家に残してきた瑞菜のことが心配になってきた。
帰宅した時、ついいつもの癖で「ただいま」と言ってしまった。
もちろん暗い部屋の中からはなんの返事も帰っては来なかった。
コンビニ弁当を食べながら、当てもなくテレビをつけてリモコンの動作チェックでもするように一通りチャンネルを切り替えてから消した。
(瑞菜はどうしてるかな?)
部屋の無音に圧迫されながらスマホを手に取る。電話をしてみようかと思ったが、何故か憚られた。
『元の時代に戻る糸口は見つかった?』とか、『そっちで元気にしている?』とか、話す口実はいくらでもあったけれど、それら全てがわざとらしく思えてしまった。
僕はただ瑞菜の声が聞きたいだけだ。でもそれを素直に告げる勇気がなかった。
「あ、そうだ」
僕は立ち上がって昔のアルバムを部屋から持ってくる。
そこにヒントがあるとは思えないが、そもそも雲を掴むような話だ。悪あがきでも何かをしていたかった。
結婚式のアルバムを見るのは一年ぶりだ。いつも綺麗な瑞菜だけれど、ウエディングドレスを着た姿は格別の美しさがあった。
僕の隣に立ち、少し緊張しながらも微笑んでいる彼女は本物のお姫様のようだった。隣に立つ僕は王子様というよりは姫に仕える従者のようだけれど。
プロのカメラマンが撮影してくれただけあって角度も映りも完璧だった。
もちろんアルバムにはプロの撮ったもの以外にも、家族や友達が撮影してくれたものも挟まっている。
まだ在りし日のお義父さんも優しい笑みを浮かべて収まっていた。
病がきっかけで結婚の弾みがついたというのは皮肉な話だ。けれど写真の中のお義父さんは寸部の迷いも憂いもない。心から娘の幸せを祝福している。それが伝わってくる素敵な表情だった。
感傷に浸ったままページを捲った僕は、次の瞬間に呼吸が止まった。
「あっ」
それはウエディングドレス姿の瑞菜がリラックスした表情でピースサインをする写真だった。その隣には一人の見知らぬ男性が立っていた。
「この写真って」
それは先日実家で見掛けた瑞菜の運動会の写真とそっくりな構図だった。
いや、似てるのは構図だけではない。その隣に立っている男は、あの時の男の子の面影があった。
当然身長も伸び、身体の線も逞しく、顔にも鋭さが出て来ているが、あの男の子に違いなかった。
昨日は人気若手俳優に似ていると思ったが、実際に大人になった彼はさすがにそこまでの華はない。それでも充分にイケメンの範疇には入っている整った顔立ちだった。
この写真を見たのは今が初めてではない。隠すことなくこうしてアルバムに入れられているのだから何度も目にしているし、その時はなんにも感じなかった。
しかし今は違う。
あの写真を見られたときの瑞菜の焦った様子の赤ら顔が目に浮かぶ。
すぐに「えっち」と謗られて奪われてしまったあの時のことが、また僕の中でフラッシュバックしていた。
初恋の男の子と疑っていた彼は、僕らの結婚式に来ていた。
その事実を知り、一瞬で様々な負の感情が湧き起こった。
(この幼なじみは今でもあの故郷に住んでいるのだろうか?)
そう思った瞬間──
ブブブッとポケットの中が震える。
「わっ!?」
振動の一秒後に鳴り出したピロリピロリピッピッピッと間の抜けた着信音が僕を現実へと引き戻す。
不信感と少しの疚しさがあった僕は、無様なほどに驚いてしまった。
「ん? 瑞菜?」
スマホのディスプレイには妻の名前が表示されていた。
「はい、もしもし?」
「あっ、よ、四ツ葉さんですか? 瑞菜です」
少し改まった口調で緊張した瑞菜の声が聞こえた。電話だと少しかしこまってしまうのだろうか。ちょっと背伸びした六年生の瑞菜の姿が目に浮かび、頬が緩んだ。
「どうしたの? 何か分かった?」
「えっ……ううん……そういうわけじゃないんだけど……そっちは? なにか分かった?」
僕は屈託ない笑顔の花嫁姿の瑞菜を見ながら「こっちもまだ収穫なしだよ」と答えた。
そもそも元の時代に戻る手掛かりなんてなにを調べれば分かるかなんて、見当もつかない。
そういう体験をしたことがある人に訊ければ一番いいが、あいにくそんな奇異な体験をした知り合いはいない。
と、その時、ある重大な事実に今さら気が付いた。
「あっそうだ! 瑞菜の昔のノートとか調べたらなにか分かるんじゃない?」
「え?」
「日記とか、落書き帳とか。なにか書き残してるかもしれないし」
「それはもう調べたよ」
瑞菜の声は少し角の立った刺々しさがあった。当たり前のことを指摘され、浅はかな子ども扱いされたと思ったのかもしれない。もしくは調べた結果何も手がかりがなくて怒っているのだろうか。
「どうだった? なにか書いてなかった?」
「それがなかったの」
「なかった?」
「うん。タイムスリップする前のとか、中学に入ってからのノートとかはあったんだけど。小学六年生の頃のノートだけはどこを探してもないんだよね」
「えっ!? そうなんだ」
まるで探されるのが分かっていて隠したかのような用意周到さだ。誰かがそれを抜き取ったのだろうか。
しかし子供のノートなど盗んで得をする人などいるとは思えない。
「中学の時の日記とかも一応調べてみたら?」
「いやだよ、そんなの」
「なんで?」
「なんでって……」
受話器の向こうで瑞菜が戸惑う気配を感じた。
「だってこれから起きることを予め知っちゃったらつまらないでしょ?」
「そんな理由?」
「大切な理由だよ。これからどうなるかわかっている人生を過ごすなんて、つまらないし嫌だよ」
それは確かにそうかもしれないが、今はそんな悠長なことを言っている場合ではない。元の時代に戻れなければ、そもそも未来を知るなんていう状況にすらならないのだから。
「一応確認位してみた方がいいと思うけどなぁ」
「無駄だと思うよ。だってお母さんも言ってたでしょ。私はタイムスリップから帰ってきて二週間くらいでその記憶がなくなっちゃったらしいんだし」
「あっ!? 確かにそうか」
お義母さんが言うには瑞菜は二週間ほどでタイムスリップの記憶をなくしてしまったとのことだった。
だとすれば中学生のノートや日記を見たところでそのことについて書いている可能性はゼロだ。
記憶が残っているうちに書いたものでなければ意味がない。
「でも何か手がかりがあるかもしれないよ? なんなら僕が読んでみようか?」
「絶対に嫌。日記読まれるくらいなら過去になんて戻れなくてもいいし」
瑞菜は力いっぱい否定してきた。しかしそこに嫌悪感のようなものはなく、むしろちょっとおどけるような響きすらあった。
だから僕も少し笑ってしまった。
「そんなに? 過去に帰れなくてもいいって思うくらい嫌なものなの?」
「そりゃ嫌だよ。ハズいし。そこまでして何の手がかりも得られなくても嫌でしょ」
確かに瑞菜からしてみればリスクから考えて得は少ないだろう。二十四歳の瑞菜も日記を書いていたが、当然僕はそれを読ませてもらったことはない。
「だったら何か他の方法で元の時代に帰る手段を考えないといけないね」
「うん、まぁ……私ももうちょっと小六の頃のノートとか探してみるよ」
きっと瑞菜は電話の向こうで歯を見せて笑った。見えていないのにその愛らしいえくぼに魅了される。
「でも取り敢えずは元気そうで安心したよ」
「まあ空元気なんだけどねー。でも無理矢理でも笑えば楽しくなるってお父さんが言ってたから」
「うん。そうだね」
それは以前瑞菜から聞いた言葉だった。
『どうしても気分が落ち込んだときは、笑え。笑えば取り敢えず明るくなる』
小学生の頃にお父さんに言われた言葉らしい。あのお父さんらしい言葉だ。
「それとね、私は明日、昔の友達と会ってみようかなって、思ってる」
「え? 昔の?」
僕の視線はアルバムの男性に向いてしまう。
「もちろん私がタイムスリップしちゃったことは内緒で。私は『瑞菜の従妹の子供』っていう設定で萌莉についていく恰好で」
「なにその謎設定」
無理のある設定に失笑してしまった。でも確かにタイムスリップしたという話はあまりあちこちに広めない方がいいように思える。やや強引な設定だが、まさかそれで瑞菜本人の十二歳当時だと気付く人はいないだろう。
「こっちに残ってる人も多いみたいで、萌莉は今でもたまに会ったりしてるんだって。平日だから夕方とかになるだろうけど」
ドクンッと塊のような血流が身体を巡った。
「へえ。でも未来の世界を知りたくないんじゃなかったの?」
「それはまあ、仕方ないでしょ。ほら、なんか戻るヒントがあるかもしれないし」
僕の憂いなど知るよしもない瑞菜はあっけらかんとそう言った。
(何考えてるんだ。瑞菜は元の時代に帰りたいから会うだけだ)
同窓会に行く妻を疑るような狭量さに、自己嫌悪する。
「じゃあ今日の連絡は以上です」
「うん。電話してきてくれて、ありがとう」
「いえいえ。こちらこそ、ありがとう。実家に残してくれて」
お互いお礼を述べたあとに、照れ臭い沈黙が二秒ほど訪れた。
「じゃあおやすみなさい」
「うん。おやすみなさい」
通話を切ったあと、ローチェストに置かれたクリスタルの写真立てに目をやる。
晴れの日の僕たちが、少し気取った顔でこちらを見詰めていた。