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妻との別れ

 翌日はお義母さんも連れて三人で近隣の瑞菜の想い出の場所を巡った。

 小学校、植物園、湖畔の公園などを見るたびに瑞菜は喜んでいた。想い出の場所は今でも健在で、たくさんの子供たちで賑わっている。しかし当たり前だけれどその中に彼女の見知った顔はいない。

 はしゃぐ子供たちを見て、瑞菜は悲しげに目を細めていた。


 結局何ひとつ過去と未来を繋ぐ線が見つからないまま、辺りは夕陽の赤に染まっていた。

 遠くのお寺から鐘がなり、それを狙いすましたかのようにトンボが僕たちの前を横切った。

 落日の赤い稜線を映した瑞菜の瞳は、表面からこぼれ落ちそうなくらいに潤いを湛えていた。


 もう帰らないといけない。

 しかしそれを瑞菜に告げるのは酷な気がした。


「瑞菜は、しばらくこっちにいる?」

「え? いいの?」


 振り返った彼女は驚きの中にも安堵したようにも見えた。


「もうしばらくゆっくりしていくといいよ」

「そんなの道彦さんに悪いわ。事情はどうあれ、瑞菜は──」

「いいんですよ、お義母さん」


 『道彦さんの妻なんですから』と続くであろう言葉を慌てて遮った。

 経緯が飛ばされた未来というのは悪夢に見える。以前どこかでそんな言葉を目にしたことがあった。今の瑞菜は正にそれだ。

 急に現れた十二年後の生活を彼女に強いることは拷問に近いだろう。焦らなくていい。今はゆっくり落ち着いてもらうことの方が大切だ。


「僕も元の時代に戻れる方法を考えてみる。瑞菜もこっちでゆっくり考えてみて」

「うん。ありがとう」


 遠慮がちに微笑む十二歳の妻は、やはり僕の愛しい人だ。たとえ瑞菜が僕のことを何も知らなくても、僕は彼女の素敵なところを色々知っている。今は、それでいい。


「じゃあ、またね」


 なるべく深い意味を持たせないように、子供が別れを告げるように軽く手を挙げてから車に乗り込む。

 空の助手席に鞄を置くと、キュッと胸が締め付けられる痛みを覚えた。

 バックミラーの中で小さくなっていく瑞菜を、いつまでも僕の瞳は追い掛けていた。



 ────

 ──



 翌日の午前中の仕事はミスの連発だった。

 普段はあり得ないようなケアレスミスをしてしまうのは、やはり瑞菜のことが影響してしまっているのだろう。

 気付くと瑞菜のことを考えてしまっている自分がいた。

 だから買ってきた弁当を休憩室で広げている最中、すぐそばにまで来ている同僚の気配にも気付いていなかった。


「四ツ葉さんがコンビニ弁当? 珍しい」

「うん、まぁ」


 向かいに座った後輩の葛原くずはら柚香ゆずかはビニール袋から弁当を取り出す。

 彼女はいつも昼時になるとやって来る移動販売の弁当を買っていた。今日はマスタードマヨネーズソースのかかった唐揚げ弁当のようだ。


「奥さん寝坊ですか?」


 冷やかすような口調の中にどこか探りを入れる気配を感じたのは、僕の思い過ごしかもしれない。でも葛原さんが相手だと、時おりついそんなことを感じてしまう。


「いや。ちょっと」

「それとも喧嘩でもしました? 午前中ずいぶんとぼんやりしてたみたいですし」


 箸で掴んだ唐揚げに視線を落とし、他愛のない軽口のように訊かれても、どこか構えてしまう自分がいる。



 入社以来指導役として関わってきた葛原さんに想いを告げられたのは、もう三年も前の話だ。

 化粧は最低限、飾り気のないミニマムなファッション、飲み会にも付き合い程度にしか参加しない。そんな色恋沙汰に微塵も関心がないように見えた葛原さんの告白はかなりの衝撃だった。


「私、四ツ葉さんが好きみたいなんですけど。あ、男女的な意味合いで、です」


 冷静に分析した結果を告げるような、いかにも彼女らしいその言い方に、はじめは愛を告げられていることにさえ気付けなかった。

 その時は既に瑞菜に惹かれていた僕は謝りながら断ったが、そのリアクションも「私の気持ちをお伝えしたかっただけなので気にしないで下さい」という冷静なものだった。ただその言葉は普段より若干早口ではあった。


 まさか三年経った今でもまだ僕に対する思いを引き摺っているなどと自惚れるほど厚顔ではない。現にそれ以降は一度もそんなことを言われたこともないし、ギクシャクしたところもなく以前と同じように接してくれていた。


「妻は実家に帰省しているんだよ」


 僕もなんでもないことのように返してみた。しかし葛原さんはまぶたをぴくんと震わせてから僕を見てきた。


「え? 実家に帰るほど怒らせちゃったんですか?」

「なんでそうなるんだよ」

「だってただ帰省しているだけなら仕事であんなにミスを連発するくらいに動揺しないじゃないですか」


 的確なことを遠慮なしに指摘され、返す言葉もなく苦笑いを浮かべてしまった。


「あ、すいません。なんか無神経なこと言ってしまいました」

「いや。むしろ葛原さんに遠慮される方が気まずいかも」

「サラッと酷いこと言いますね。私って四ツ葉さんの中でそういうキャラの扱いなんですか?」


 あまり表情を変えないから分かりづらいが、恐らく今の彼女は多少楽しんでいる。ひくひくっと膨らんだ小鼻と、微かに緩んだ目尻でそれを読み取った。


「そういえば葛原さんってどんな小学生だった?」

「なんですか、そのあからさまな話のはぐらかし方は?」


 実は話題を逸らしたわけじゃないのだが、そんなことを葛原さんが分かるはずもない。


「子供の頃からそんなにクールだったのかなって」


 「まさか」と言って葛原さんは笑った。しかしそれは愉快だから笑った訳じゃない。明らかな自嘲だった。


「物静かなことを小学生の場合はクールなんて言わないんです。『根暗』って言うんですよ。今なら『陰キャ』って言うのかな?」


 自虐ネタにも歯に衣着せないのが彼女流だ。


「やっぱりその頃からキャラは一貫していたんだ」

「『三つ子の魂百まで』って言いますからね。百一歳の誕生日パーティーはド派手にやるつもりですよ。タワマンの高層階のパーティールームで、ショットでテキーラ飲みながら」

「それは是非呼んでもらわないと」

「独身者だけの集まりだから四ツ葉さんは駄目ですね」


 物静かな彼女だけれど、こうして親しい人にはジョークも言う。ちょっと独特で笑っていいのか際どい類の笑いが多いのが難点だけれど。


 きっとこれは彼女なりの励ましなのだろう。自虐することで沈んでいる僕を盛り上げようとしてくれているに違いない。

 それに感謝しながら「その年まで独身を貫くんだ!」と大笑いしたら、割と真剣に怒った顔をして「笑いすぎですよ?」と叱られた。

 どうやら僕は笑いどころを間違ってしまったらしい。


「四ツ葉さんは? どんな子供だったんですか?」


 からかい返してやろうという気配がムンムンとした口調で訊かれる。


「僕? どうだったんだろう?」


 改めて思い返してみると、過去から現在に至るまで自分という人間が大きく変化した気はしなかった。もちろん理不尽なことに腹を立てなくなったとか、自分が特別な何者かではないと認識したとか、色々と変化はある。でも基本的なところは変わっていない気がした。


 恐らくそれは記憶が途切れずに続いているからだ。仮に間がすっぽり抜けていれば、見た目も性格も子供の頃との大きな変化に戸惑うのかもしれない。


 わずかな変化が積み重なり、やがてびっくりするほど違うものへと変化しているのに気付いていない。それは記憶がその変化の一つひとつを繫げているからだ。

 漫画も五巻まで読み、次に間をすっ飛ばして五十四巻を読めばあまりの変化についていけないだろう。

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