瑞菜の秘密の場所
「お父さんは幸せだって言ってたわ。瑞菜が立派に成長して、お嫁にも出せて、こんなに幸せな人生ないって」
「そんな話聞きたくない! 私はお父さんに『ごめんなさい』も『ありがとう』も、『さよなら』さえも言えなかったんだよ!」
感極まった瑞菜は椅子をがたんと荒々しく立ち上がると、そのままの勢いで家を飛び出してしまう。
「瑞菜っ」
「お義母さん。僕が行きますんで」
「でも」
「任せてください。僕は夫ですから」
お義母さんは不安げに頷く。お義母さんの言わんとしていることはわかる。今の僕たちは夫婦ではなく、赤の他人にしか見えないだろう。十二歳の妻からしてみても僕は夫なんかではなく見知らぬ冴えないおっさんだ。でも、だからこそ、僕が支えたかった。
家を出て舗装された道路の方にはいかず、裏手に広がる山へと向かった。特に名前もないような、小高い丘が成長したような小さな山だ。
道らしい道などなく、踏み固められたのも遠い昔のけもの道を進んでいく。
林の中を進んでいくと微かに水の音と湿り気を感じる。
文字通り草を掻き分けながらしばらく行くと、橋などかかっていない小さな川が現れた。その川沿いに少し昇っていくと岩の上に座る瑞菜を見つけた。
気配を感じたのか、瑞菜はリスのような素早い動作で顔を上げる。僕の姿を認めると涙を拭って、顔も感情も隠すように木々の隙間から微かに見える空を見上げた。
「ここの景色は昔のまま?」
少しスペースを開けて隣に座る。
「何でここが分かったの?」
「以前瑞菜が教えてくれたんだ。嫌なことがあった時とかいつもここに来ていたって。僕も一度だけ招待してもらったことがあるんだよ」
そう言うと瑞菜はちょっと驚いたように振り返った。
「四ツ葉さん、本当に私と結婚していたんですね」
「え?」
「だってこの場所、どんな仲良しにも教えたことないから」
「そうなんだ」
初めて僕のことを『ねえ』とか『ちょっと』ではなく『四ツ葉さん』と呼んでくれた。まだ心を開いてくれたわけではないだろうが、今はそれで十分だった。
どこから湧いてどこに流れるのか、誰も正確には知らないであろう川を眺めていると、木々の合間から鳥の鳴き声が聞こえてきた。沈黙の間を持たせるようにその声の主を探すために視線を流したが、それらしい鳥は見当たらなかった。
「ごめん。泣いても、お母さんにあたっても仕方ないってわかってるのに」
「いや。いいよ。お父さんとケンカしたまま会えなくなったんだ。普通どんな人でも気が動転するよ」
「やさしいんだね」
瑞菜は濡れたまつ毛を光らせながら僕を上目遣いで見上げた。微かに緩んだ口許が、下がった眉尻が、瑞菜を思い出させる。本人を見て本人を思い出すというのも、おかしな話だけれど。
「そうかな? 普通だと思うよ」
「ううん。だって私がどんな気持ちかって、私の立場になって考えてくれたんでしょ。普通なかなか出来ないよ」
「大人だからだよ」
「それは逆だよ。大人は子供の気持ちなんて分かろうともしない。子供は絶対に大人に従うべきだって、子供の言い分なんて聞かない人ばっかだもん。親も、先生も」
「そっか、じゃあ──」
夫だからと言いかけて慌てて言葉を変えた。
「僕が子供っぽいからかもしれない」
苦し紛れの方向転換だったけれど、瑞菜はぎこちなく笑ってくれた。
「四ツ葉さんだって辛いのに、ごめんなさい」
「僕が辛い? なんで?」
「だって」
ふっといったんそこで言葉を切り、頬を赤くして目を逸らした。
「奥さんがいなくなっちゃったようなもんでしょ。私のせいで」
照れ隠しなのか小石を取って川に投げ入れる。それを見て出会った頃に覚えた初々しい恋心を久しぶりに妻に抱いてしまった。
「そうだね。でも妻はいなくなったけれど、娘ができた気分で悪くないよ」
「娘?」
瑞菜は苦笑いしながら自分の顔を指差す。
「焦らずに戻れる方法を探そう。大丈夫。お母さんの話だとちゃんと元の世界に戻れたみたいだし」
「うん」
瑞菜は僕の顔を見て元気よく頷く。それに併せて二つ括りのお下げ髪がぴょこっと跳ねた。
瑞菜の気持ちを落ち着いたのを確認して家に戻ると、玄関先に女性が立っていた。
僕の車を覗くその顔には見覚えがあった。
結婚前に紹介してもらい、結婚式にも参列してくれた、瑞菜の親友の萌莉さんだ。
恐らく僕の車が止まってるのを見て、瑞菜が帰ってきたと思って訪ねてきてくれたのだろう。
「お久しぶりです」
声を掛けると萌莉さんは驚いた様子で振り返った。
その顔を見た瑞菜は「えっ!?」と声を上げて動きが止まった。
「も、萌莉?」
瑞菜が恐る恐る訊ねると萌莉さんは怪訝そうに眉を顰め、その数秒後に目を大きく見開いた。
「まさか……瑞菜……瑞菜なの!?」
背の高い彼女は屈みながら彼女と視線を合わせる。二人の表情は見る見るうちに崩れていき、 そのまま抱き合った。
お義母さんといい、萌莉さんといい、この地域の人々はタイムスリップに関してずいぶんと寛容な考えの持ち主が多いのかもしれない。そんな馬鹿げたことをふと思ってしまった。
「萌莉! どうしよう、わたしね、実はね──」
瑞菜は呼吸と発声が上手く噛み合わないほどしゃくり上げながら、今の状況を説明した。萌莉さんはそれを聞いて「うんうん」と頷いて聞いてくれていた。
「瑞菜、大丈夫だよ。私がついてる」
「ありがとう、萌莉っ!」
十二歳も歳の離れてしまった幼馴染み同士はひしと抱き合い、見詰めあう。
「突然二日前の夕方にこうなってしまったんです」
補足するように僕が言ったが、萌莉さんは聞こえていないかのように振り返りもしなかった。
「きっとなんか辛いことがあったんだね。そのせいでタイムスリップしちゃったのかな? 可哀想な瑞菜」
その原因が僕にあることを願うかのように、萌莉さんは瑞菜の頭を撫でる。
なぜか萌莉さんは出会った時からずっと僕に対していい感情を持っていない。その理由はまったくもって不明だった。
初対面のその瞬間から、彼女は僕を毛嫌いしている。
「私が瑞菜だって信じてくれるの?」
「当たり前でしょ。親友なんだから。ほら、もう泣かないの」
「ありがとう」
萌莉さんはティッシュで瑞菜の目を拭いながら頭を抱いてポンポンと撫でる。
「もしかして萌莉さんは瑞菜が十二歳の時にタイムスリップしたのを知ってました?」
無視されるのを前提としてその背中に訊ねてみる。案の定彼女は振り向きもしなかった。
「小六の時、瑞菜はタイムスリップしたって言ってたじゃない。あの時はびっくりしたけど、これで分かった。瑞菜は本当にタイムスリップしていたんだね」
萌莉さんは瑞菜に言う恰好で、僕の質問に答えてくれた。
「どうしよう萌莉。私、どうなっちゃうのかな?」
「心配ないよ。あの時も瑞菜は帰ってこられたんだから」
瑞菜の親友が来てくれたことはありがたかった。瑞菜は安心しているし、何より当時のことを知っている。この際僕に対する態度などとるに足りない問題だ。
「萌莉さんは瑞菜から戻った方法を聞いてないかな?」
縋る思いで訊ねると、ようやく彼女は僕と目を合わせて緩やかに残念そうに首を振った。
「タイムスリップした話とか、未来の話は教えてくれたけど、どうやって戻ってこられたのかは教えてくれなかった」
「そうなんだ」
頷きながらも僕は心の中で違和感を感じていた。
戻り方は『訊かなかった』んじゃない。『教えてくれなかった』のだと、はっきりとそう言ったことを。
なぜ教えてくれなかったのか。
言いづらいことだったのか。
それとも教えてしまったらまた未来に飛ばされるからなのか。
「ごめん。その時はタイムスリップなんて本気には出来なくて。半分作り話だと思って聞いていたから。もっとちゃんと聞いておくべきだったね」
「ううん。仕方ないよ。普通そんなこと信じないと思うし」
小学六年生ともなればそんな話信じるわけもない。仕方のないことだろう。むしろその『教えてくれなかった』というところが謎を解くピースなのかもしれない。
とはいえそれが謎を解くパズルのどこにはめればいいのか、皆目見当もつかないのだけれど。